天声人语


 日本の植民統治からの解放を韓国が祝う光復節の演説で、盧武鉉(ノムヒョン)大統領は対日関係には言及しなかった。中国では反日活動が中止された。小泉首相は靖国参拝を見送り、アジア諸国への「痛切な反省とおわび」を談話で表明した。

 日中韓3国が、それぞれの事情を抱えて迎えた8?15だったが、ともかくも冷静さが見られた。問題は、首相や閣僚が談話の趣旨を体現できるかどうかだ。首脳や閣僚は互いに行き来して、対話を重ねてほしい。

 日韓のふたりの詩人が、対談や書簡で対話を4年続け、それが『「アジア」の渚で』(藤原書店)としてまとめられた。高銀(コウン)さんは、韓国の代表的詩人で、投獄?拷問を受けながら民主化運動に力を尽くした。00年の南北会談では金大中(キムデジュン)大統領に同行した。対する吉増剛造さんは、言葉へのいとおしさのこもる表現で、豊かな生命力を宿 す詩を紡いできた。

 高さんは、東北アジアの公海上に浮かぶ船で、東北アジアの詩人たちが一緒に詩を詠む日のことを語る。「われらは自分たちだけのものである陸地ではなく、みんなのものである海の大きな魂を謳歌(おうか)するはずです」

 吉増さんは「海を掬(すく)い尽せ」という印象的な一句を発する。掬い尽くせるはずのない海の、はかりしれない大きさへの畏(おそ)れが感じられ、高さんの句と響き合う。

 小泉談話は、日本と中韓両国とを「一衣帯水の間」と述べた。一筋の帯のように狭い海や海峡を間にして近接した間柄、というのだが、最近は隔たる一方だった。海を、国と国、人と人とをつなぐ渚(なぎさ)として見直してみたい。

 安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。

 その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。

 まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。

 辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。

 旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。

 安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。

 終戦の翌々年の生まれなので、その日のことは直接には知らない。しかし昭和20年、1945年の8月15日は、頭のどこかに住みついているような気がする。この日を、あるいはこの日に至る日々を伝えるものに接する度に、その意味を考えさせられてきた。

 さまざまな人の日記に、その日の思いが記されている。それぞれにひかれるものはあるが、「戦後還暦」の年に改めてかみしめたいのは作家?大佛次郎の『敗戦日記』(草思社)の一節だ。

 「自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて……」。軍人たちが敗戦という屈辱に耐えうるかどうかを思い惑って眠れないというくだりだが、ことは軍人に限らない。

 「与えられた任務のみに目がくらんだ」のは、国民のほとんどだった。戦争が始まり、ことここに至っては軍人は軍人の、政治家は政治家の、あるいは親は親の、子は子のあるべきだとされる姿に向かって突き進んでしまった。国そのものの向きがどうなっているのかという肝心なことは見ず、それぞれに与えられたと思う狭い世界に閉じこもった。

 国民の、ある種のひたむきさには胸がつまる思いもするが、歯止めの無い奔流は、自国民だけではなく周辺国などを含むおびただしい人の命を奪い去った。メディアもまた、本来の任務を踏み外していたと自戒する。

 今日は追悼というだけではなく、与えられた任務のみに目がくらんでいないかどうか、それぞれの場で問い返したい。この今を「戦前」などと呼ぶ日の来ることがないように。

 中米コスタリカ出身の女性マリセル?フタバさん(50)は東京在住23年、日本語の新聞も大意ならわかる。「コスタリカ消滅」「コスタリカ崩壊」。先週そんな記事が目に飛びこんできた。母国で何か大変なことが起きたらしい。

 料理店を営む夫の二葉新一さん(58)に尋ねた。「コスタリカ」は日本独自の選挙用語で、同じ党で地盤も重なる候補者が共倒れを防ぐため、小選挙区と比例区に交代で立つことを指す。言われていっそう混乱した。私の国にそんな制度はない。

 コスタリカ国会は一院制で57議席すべてが比例式で決まる。中南米の政治に詳しい富山大の竹村卓教授によると、腐敗を避けるため議員の連続当選が禁止され、任期を終えたら4年待たないと再挑戦できない。日本のコスタリカ方式の実情を現地で説明すると、だれもが「誤解だ」「印象が悪い」と困った顔を見せる。

 日本で中選挙区が廃止された90年代、候補者の一本化が各地でもつれた。編み出されたのがコスタリカ方式だ。日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮、森喜朗前首相が提案したと当時の記事にある。連続当選禁止が念頭にあったようだが、いかにも強引なこじつけである。

 共存共栄のコスタリカの誓いがこの夏、相次いで破られつつある。郵政法案に反対した前議員が公認を得られず、小選挙区で同じ自民党の賛成派候補に正面からぶつかる。

 刺客、弾圧、大獄、国替えなど乱世を思わせる言葉が飛び交う。おりしも今月半ば、コスタリカから来日するパチェコ大統領の目に、日本の選挙はどう映るのだろう。

 「八月十三日……日本はまだ決断しない」。45年8月、ドイツの作家トーマス?マンが、米カリフォルニアで記した。ナチスに抗して亡命しており、大戦の決着をそこで見つめていた。

 8月の日記には「原子爆弾による広島市の不気味な破壊」「長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲」などとある。「十四日 日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる……日本軍は完全にその狭い島へ追い返される」(『トーマス?マン 日記』紀伊国屋書店)。

 マンは「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」などで知られる。29年にはノーベル文学賞を受けたが、ナチスによる焚書(ふんしょ)に遭い、終戦後もなかなか帰国しなかった。

 48年の元日、本紙に「日本に贈る言葉」を寄稿した。「日本の古く高貴なる文化」への好意を語り、敗戦に触れる。「日本が無謀な支配層のために冒険に突入すること、その結果が必ずよくはないだろうことを私は前から信じていた」。しかし敗北にも「利点」はあり、勝者は自分たちのものは最良という結論に陥りやすいと述べる。

 さらに「『平和』こそ人間生活の至上の概念かつ要請」であり「その厳粛さの前に立てば如何なる国民的英雄も精神も時代遅れな茶番でしかない」という。そして「人類の召使として生きる時その国民の上に光栄は輝くであろう」と結んだ。世界大戦を繰り返した故国への苦い思いと、新生?日本への期待が込められている。

 やがてマンはスイスに移住し、50年前の8月12日に80歳で他界した。

 あれから二〇年、本当に、いろいろなことがありました-。520人が死亡した日航ジャンボ機の墜落事故から、今日で20年になる。それを機に出版された遺族の文集『茜雲(あかねぐも) 総集編』(本の泉社)で、美谷島邦子さんは、9歳だった息子の健君に語りかけるように文をつづっている。

 「今も、君のノートや鉛筆がここにあります。夏休みのヘチマの観察日記は、『八月一一日つるがのび、小さいつぼみがみえた』という事故の前日に書いた文字で終わっています。お父さんは、この文字をいまだに見たがりません」

 弟夫婦とめいを亡くした池田富士子さんは、文に短歌を添えた。〈あまりにも 早きに逝きし弟の 歳をおりてはまた胸あつくす〉。弟夫婦の遺児ふたりは大勢の人に支えられて成長し、今は結婚してそれぞれ幸せに暮らしていますとあり、末尾には生存者のひとり川上慶子さんの伯母と記されている。

 事故の翌日、生存者発見の報が本社に届いた時のことは、今もなお記憶に新しい。あわただしく夕刊の記事を書いていた記者たちの間にも、言葉にならない感動が走った。

 絶望的な色合いの濃かった紙面を取り換える。直後に社会部から原稿を受け取った入力担当部員も、涙をこらえながらキーボードを打ったという。

 二度と繰り返してはならない巨大事故だった。遺族の会「8?12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、文をこうしめくくっている。「二九年間、健ありがとう。……これからも君と一緒に空の安全の鐘を鳴らし続けていきたいと願っています」

 平らな地面に、わざわざ高い枠を置く。ひとつだけではなく、その先にもそのまた先にも置いておく。ハードルが立ち並んだ障害競走のコースには、人間がスポーツのルール作りで見せるユーモラスな一面が映っている。

 英国に源流があるという。牧羊業などで土地の「囲い込み」が起きた後、できた垣根を使った馬による競走の時代があった。現在のような競走の元は、19世紀半ばのオックスフォード対ケンブリッジの大学対抗戦のレースだった。羊の囲いが使われた(宮下憲『ハードル』ベースボール?マガジン社)。

 昨日の未明、寝苦しさで起きてテレビをつけると、陸上の世界選手権を中継していた。為末大選手が出る400メートル障害の決勝が始まるところだった。ヘルシンキはどしゃぶりだ。これも一つの障害かと思った時、号砲が響いた。

 選手がハードルを越える瞬 間の形が美しい。足を思い切り伸ばし、一方の足を素早く持ちあげる。前傾した上体と道筋を読む目が、獲物を追うしなやかな動物のようだ。

 最終コーナーを回る頃、為末選手の口がかすかに開き、ほほえんだように見えた。最後はもつれたが倒れ込んで銅メダルを手にした。不振、不運、父の死を経て「勝利」をつかんだ。雨と汗と涙の入り交じるゴールインだった。

 宇宙からは、野口聡一さんたちのスペースシャトルが、無事ホームインした。難しい任務をしっかり果たしたという満足の笑みもいい。天と地と、ふたりの道は違っても、ハードルを乗り越えた姿には、周りをも力づける輝きが宿っている。

 9日午前11時2分、長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を見上げた。太陽が目を射る。60年前のその時、地上約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した。

 太陽が落ちてきたようなありさまを想像する。直後の映像や被爆した人たちの証言、原爆の資料館の展示などを念頭において周囲に目をこらし、また瞑目(めいもく)して考える。来るたびにそうするが、実際に何がどうなったのかを想像できたというところには、とうてい至らない。やはり、人間の想像をはるかに超えるおぞましい行為が人間によってなされた現場というしかないのか。

 8日、爆心地から1キロ余りの所にある長崎大学の構内の慰霊碑の前で、花に水をやる女性がいた。今年で70歳という女性は、小学校5年の時に被爆した。爆心からやや離れた自宅に居たため生き延びたが、当時この地にあった兵器工場で働いていた父親を失った。「遺体も見つかりませんでした」。60年間、父は行方不明のままだ。

 9日、爆心地近くの丘に立つ浦上天主堂で「被爆マリア像」が公開された。もとは大聖堂の祭壇に飾られていたが、あの日、わずかな側壁を残して建物が吹き飛んだ。後日、木の像の胸から上だけがみつかった。

 間近に見ると、ほおや髪が焦げている。眼球が抜け落ちた両の目は、黒くうつろで、底知れない二つの闇のようだ。

 いたましい姿だが、不思議な生命力を感じさせる。像の失われた部分は、長崎であり、広島ではないか。マリア像はその存在の証しであり、その記憶を未来に伝えようとしているように思われた。

 被爆60年の取材のため、長崎に来ている。昨日の参院での郵政法案否決の場面は、本社の長崎総局のテレビで見た。

 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉が思い浮かんだ。意外な所で、あるいは筋違いのことで昔の恨みをはらすという成句だ。この解散には、「参院の敵を衆院で討つ」感じがつきまとう。名付ければ「江戸の敵解散」か。衆院から見れば、通り過ぎていったはずなのに戻ってきた「ブーメラン解散」でもある。

 これを「筋違い解散」と呼ぶ向きもあるだろうが、世間一般の受け止め方はどうだろう。昨今の八方ふさがりのような気分を転換して、見通しの良い世の中に向かうきっかけになるのなら解散もいいという機運もあるようだ。

 前回の03年の解散は、かなり前から解散説が流れていたので衝撃は小さかった。予告された「透け透け解散」とか、解散の大義が見えにくい「大義なき解散」などと、本欄で呼んだ覚えがある。

 今回は、決着の間際まで小泉首相の一言が注目された。「殺されてもいい。おれは総理大臣だ」。首相にとっては、「いのちがけ解散」ということか。「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」。首相との最後の談判の後、森?前首相は、つまみに出されたというチーズのかけらを手に「変人以上だ」と評した。「超変人解散」とでも言いたいところか。

 首相は「おれの信念だ」とも述べたという。強い「信念」を持っているのは確かのようだが、問題はその中身ではないか。「おれの信念解散」に続く総選挙では、その中身を改めて吟味したい。

 作家の堀辰雄が4歳か5歳で見た花火の群衆の記憶を「幼年時代」に書いている。ものごころつく前だったのに、花火見物の人波に押されて母の背で泣きじゃくったことは鮮明に覚えていると。年譜によれば明治40年ごろ、東京?隅田川の花火を見たようだ。

 隅田川の花火は徳川吉宗の時代にさかのぼる。江戸庶民に人気のあまり雑踏事故が何度か起きた。明治の半ばにも橋の欄干が崩れて数十人が転落死した(小勝郷右『花火-火の芸術』岩波新書)。

 今年も全国で大小700もの花火大会が開かれている。どこも資金不足に雑踏対策が重なって、かなりの難事業になりつつある。たとえば千葉県の印旛沼花火大会の場合、毎年30万人を集める行事だったが、今夏は中止された。4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。

 主催の佐倉市観光協会の斉藤啓光さんは「明石の事故は各地の花火を変えた。どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」と話す。以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。

 花火での雑踏事故は海外にもある。英国では18世紀、王族の結婚を祝う花火で群衆千人がテムズ川に転げ落ちた。カンボジアでは約10年前、国王誕生日の花火に市民が殺到して死者が出ている。

 「地獄絵図さながらの群集雪崩」。明石の惨劇を、神戸地裁の判決はそう表現した。善意の群衆がたちまち他人を押しつぶす暴力装置に変わる。あの怖さを胸に刻みつつ、この夏もどこかで、夜空を彩る一瞬の美を楽しみたいと思う。

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