天声人语


 その昔、ナポレオンがロシアを攻めた時、ロシア側はモスクワをもぬけの殻にして逃げた。大火が起こり、冬将軍も迫って、ついにナポレオン軍は退却する。

 価値あるものを空っぽにし、迫る敵の意欲をくじく「焦土作戦」を、ニッポン放送が検討中という。主要子会社の株をフジテレビに売ってしまう構想らしい。めまぐるしい動きが続くが、ここでは、今回の攻防とは何なのかを考えてみたい。

 これは、「メディア(媒体)の興亡」なのか。ある時代の最大のメディアが「メディアの一つ」になってゆく。これがメディアの歴史だった。明治以後、メディアの首座を占めた新聞は、戦後のテレビの興隆で、メディアの一つとなった。

 インターネットの興隆で、テレビは存在感の薄い一メディアになってゆくのか。文字、映像、電子情報という三つのメディアが絡み合う興亡の帰着は、その中身も含めた各メディアの競い方と、受け手の選択次第だろう。「メディアの興亡」をはらんではいるが、その帰趨(きすう)を決するほどの争いかどうかは、不透明だ。

 それでは「新旧の攻防」なのか。新世代の掲げる旗は、いつも旧世代を戸惑わせてきた。世代とは、人類の悠久の歴史の上に個々人の限りある歴史を乗せた、ひとまとまりの集団だ。性急とも見える既存のものへの挑戦は、後から生まれた者の永遠の権利であり宿命でもある。その意味では「新旧の攻防」だ。

 「焦土作戦」は企業防衛の手段という。それが「焦土」にされる会社の社員や家族の防衛にもなるのかどうかが気にかかる。

 さすまたは罪人を捕まえる道具である。棒の先端についたU字形の金具で首や胴を押さえ込む。刺股とも指叉とも書く。おなじみ「鬼平犯科帳」では、長谷川平蔵率いる捕り手が悪党一味を追いつめる場面に出てくる。

 このごろは学校の備品として脚光を浴びる。不審者が生徒や教師を襲う事件が続いて導入するところが増えた。警官を招いて「さすまた講習」を開いた学校も多い。

 製造元のひとつ、東京都江戸川区の部品会社「実川製作」では毎週250本を出荷するが、注文に追いつかない。製造を始めたのは4年前、大阪府池田市で児童が殺された直後である。実川享社長(49)が大の鬼平ファンで、捕物の道具に目をつけた。試作した最初の3本はすぐ娘の通う小学校に贈った。

 学校で何かあるとたちまち注文が殺到する。大阪府寝屋川市の小学校で先月起きた事件では「備品のさすまたが身柄拘束に役立った」と報じられ、拍車がかかった。「納入先には幼稚園や病院も多い。何とも物騒な世の中ですね」。思わぬ需要に実川さんもとまどう。

 刑罰史に詳しい重松一義?元中央学院大教授(73)によると、さすまたは中世以来スペインなど各国で生け捕りや拷問に広く使われた。日本では実戦の武器という性格は薄い。むしろ幕府の司法権を見せつける「威圧の具」として、奉行所や関所に飾られた。

 「学校は安全」という神話が崩れて久しい。教育の場におよそ似つかわしくない道具だが、何か備えがないと不安な時代である。願わくは、学(まな)び舎(や)の守り神で終わりますように。

 樫(かし)と葦(あし)が頑丈さを競い合った。大風が吹いた時、葦は体を曲げ突風に身を任せて、根こそぎにされるのを免(まぬ)かれたが、樫は、抵抗して根っこから覆されてしまった(『イソップ寓話(ぐうわ)集』岩波文庫)。

 強い者に対しては争ったり抵抗したりすべきではないという教えがこめられているという。確かに、葦のしなやかな対応ぶりや、そのしぶとさはいい。しかし風に向かって立ち続ける樫の姿にも、捨てがたいものがある。

 どちらが樫で、どちらが葦というのではない。吹きつけてくる大風をしのごうとして、手だてを競い合うフジテレビとライブドアの姿に、この寓話を連想した。

 東京地裁が、ライブドアの主張を認めて、ニッポン放送が予定していた新株予約権の発行を差し止める仮処分を決定した。フジテレビは、今度は、どんな構えでしのごうとするのか。ライブドアは、インターネットという新しいメディアの勢いに乗って大きくなってきた。フジテレビは、戦後の日本に築かれた巨大な電波メディアの一つだ。来歴も機能も異なる。

 イソップには、狐(きつね)と豹(ひょう)が競い合う話もあった。豹が二言目には体色の多彩さを言い立てるので、狐が言った。「わたしの方がどれ程美しいことでしょう。だって、体ではなく、心が多彩なんですもの」。体の美しさより知性の装いが大事なことを説いているという。

 これも、どちらがどちらと言うのではない。本来、両者の競い合いは、それぞれのメディアの中身でするものではないか。それが、株の数の競い合いになっているところが残念だ。

 裁判所には、長い間「再審」を求め続けていた元被告たちの姿はなかった。戦時下の最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」の生き残りだったその5人は、ことごとく他界している。訴えを受け継ぐ遺族らが、東京高裁の「再審開始を支持」の決定を聞いた。

 それにしても、長い年月がかかった。〈捨てし身の裁きにひろういのち哉〉。元被告の元「中央公論」出版部員、木村亨さんが82歳で亡くなる数日前に残した句にも、その思いがこもる。

 横浜事件では、中央公論社や改造社の編集者ら多数が、「共産党の再結成に動いた」などの治安維持法違反容疑で神奈川県警特高課に検挙された。拷問が繰り返され、4人が獄死した。

 昨日、東京高裁は「元被告らは、取り調べ中、拷問を受け、やむなく虚偽の疑いのある自白をした」と認定した。「(拷問死した)小林多喜二の二の舞いを覚悟しろ」「この聖戦下によくもやりやがったな」などと迫った特高の拷問の記録もある。弁護団長の森川金寿さんは、20年前、木村亨さんから、戦後40年になるのに名誉回復がなされていないと聞き、愕然(がくぜん)とした(『横浜事件の再審開始を!』樹花舎)。

 つえをついて高裁に入る91歳の森川さんに、木村さんの妻まきさんが手を添えていた。木村さんたちの悲痛な訴えは、今もしっかり引き継がれているようだ。しかし、いったん失われた名誉の回復にどれだけの歳月と力を費やさなければならないのかとも思う。

 再審が決まれば、裁かれるのは、当時の司法であり、国であり、あの戦争でもある。

 「居を麻布に移す。ペンキ塗の二階家なり因つて偏奇館と名づく」(「偏奇館漫録」)。永井荷風が長く住んだこの家は、60年前の3月10日の未明、米軍による東京大空襲で焼かれた。

 「わが偏奇館焼亡す……火焔の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上万巻の図書、一時に燃上りしがためと知られたり」(「罹災日録」)。荷風は、家々の焼け落ちる様や人々の姿を、その場にしばらくとどまって見ていた。その頃、隅田川周辺の下町一帯では、猛火に追われた人々が逃げまどっていた。

 生き残った人たちが当夜の有り様を描いた絵には、駅構内で幾重にも折り重なったり、川の中を埋め尽くすようにしたりして息絶えた住民たちの姿がある。一晩で約10万人の命が奪われた。

 「B29約百三十機、昨暁/帝都市街を盲爆」。翌日の朝日新聞の一面トップの見出しだ。大本営発表を伝えたもので、「十五機を撃墜す」とあるが、被害状況の具体的な記述はない。統制下ながら、目の前の大被災を伝え得なかったことを省みて粛然とする。

 この後、米軍は名古屋、大阪、神戸など大都市での空襲を重ね、更には中小都市へも爆撃を加え続けた。東京の地獄絵は、規模こそ違っても全国で繰り返された。

 荷風は被災の2日前に、ぶどう酒の配給を受けたという。ぶどうの実をしぼっただけで酸味が甚だしくほとんど口にできないものだった。そして、こう記している。「醸造の法を知らずして猥(みだり)に酒を造らむとするなり。外国の事情を審(つまびらか)にせずして戦を開くの愚なるに似たり」

 昨日の関東地方は、急に春めいて気温が上がった。同時に花粉の飛散も増えたようで、東京での花粉情報は「非常に多い」。街では、マスクをかけた人が目立った。

 スギ花粉の飛散予報が始まったのは、87年の3月9日である。当時は、花粉症と聞いても他人事(ひとごと)のように思っていたが、数年前からは、ごく軽いものの、目がかゆくなったり、くしゃみが出たりすることがある。

 本紙の全国世論調査では、回答者の3分の1強が、花粉症の何らかの症状を自覚していた。「花粉症だ」と答えた人の割合は、政令指定市や東京23区などの大都市の方が、ほかの市や町村部より高かった。

 一種の「都会病」のようにも見えるが、スギ花粉症が医学的に確認されたのは、杉並木で有名な栃木県の日光だった。63年、古河電工の病院に赴任した斎藤洋三医師が、鼻や目のアレルギー症状を訴える患者が春に増えることに気づいた。

 日本でのブタクサ花粉症の論文などを読んで、斎藤さんが周りを見回すと、立派なスギが目に入った。スギの木に花が咲くなどとは思いつかなかった。しかし林に入ってみると、ちょっと触れただけでたくさんの黄色い花粉を飛ばす雄花が、小枝の先にびっしりとついていた(『スギ花粉症』すずさわ書店)。

 花粉症歴?数十年の知人が「スギは伐(き)ってほしい」と言っていた。重症の人は相当つらいのだろうが、やみくもに伐るわけにもいくまい。はるか遠くにある自然を肌で感じた結果が「症状」になってしまうとは。人と社会と自然との、大きな釣り合いの崩れを感じる。

 詩人?栗原貞子さんの「生ましめんかな」は、広島市での被爆の翌年、栗原さん自身が編集した雑誌『中国文化』に発表された。81年に復刻された本を見ると、題は「生ましめん哉」で、副題に「原子爆弾秘話」とある。

 栗原さんは、この被爆後の出産の様子を人づてに聞いて、詩にまとめたという。夜、旧広島貯金局の地下室で、避難していた臨月の女性が産気づく。「その時、『私が生ませてあげましょう』と言った産婆さんは背中一面と左腕の肘(ひじ)までやけただれていた重傷者だった」(『核時代に生きる』三一書房)。

 赤ん坊は生まれたが、産湯の設備はない。夜明けを待って、軽傷の被爆者が「原子野」に出て行き、焼けてくちゃくちゃになった洗面器を拾い、布切れを水にひたして赤ん坊を拭(ふ)き清めた。「母子は被爆した人々に支えられて生きのびたのだった」

 後年、この母親が栗原さんに言ったという。「あの時、地下室にいられなかったのに、その時の状況や、私たちの気持ちを、そのまま作品化して下さって」

 栗原さんが戦後に貫いた反戦、反核、そして反骨の精神は並はずれて強固なものだった。その底には、この詩が象徴する、命がけの命の伝達があったのではないか。未曽有(みぞう)の殺戮(さつりく)が行われた街の深い闇の中で、人々が一つの命を世に送り出すために力を尽くす。そして、新しい命を灯(とも)して、一つの命が消えてゆく。

 栗原さんもまた、深い傷を背負いながらも、平和を生ましめんとして力の限りを尽くした。そして、被爆60年の早春に、92歳で逝った。

 朝、駅まで15分ほど歩く。急な上り坂があって息が切れる。出勤のためとはいえ、疲れてしまう。このごろ、坂にさしかかるたびに、通勤手当について考えている。電車代は出るのに、なぜ徒歩だと1円にもならないのか、と。

 こんな思いを抱くのは、国会の質疑で、歩いて通う市職員に毎月「歩行手当」を渡す市役所があるのを知ったからだ。3キロ未満は一律5700円の市のほか、1キロ以下なら4950円で、2キロは5750円と距離に応じて区切る市もあるという。

 企業には、マイカー通勤を減らすために、徒歩手当を出し始めたところがある。環境にやさしい。駐車場にかける経費も減らせる。社員の健康にもいい。だから、歩くことへの対価を一概に否定する気はない。

 だが、市役所の例は、なれ合いにしか見えない。いまどき、こんな手当を残していることに驚く。チェック役の議会は何をしているのか。と、思いきや、議会にはもっとすごい事例があった。

 たとえば、名古屋市議会だ。議員は本会議や委員会に出ると「費用弁償」の名目で、1日につき1万円もらえる。毎月の報酬など約150万円とは別枠だ。市バスと市営地下鉄の無料乗車券も支給されるのにである。議会に出席した議員に金を配る制度は、神戸市など各地にも転がっている。

 もらえるものは、もらっておこう。こんな意識は、スーツまで支給されていた、あの大阪市職員だけではないようだ。いやはや、お役所の金銭感覚には恐れ入る。ひょっとすると「坂道手当」なんてのもあったりするのだろうか。

 あなたの学校では卒業式に何を歌いますか。音楽之友社が、全国の音楽教諭230人に尋ねたら、意外な結果が出た。定番のはずの「蛍の光」が3位で、「仰げば尊し」は10位にも入らなかった。

 1位は「旅立ちの日に」という曲である。耳にしたことがあるだろうか。今から14年前、埼玉県秩父市にある市立中学校の音楽室で生まれた。作詞者は当時校長だった小嶋登さん(74)。一晩で書き上げ、翌朝、音楽の先生に作曲を頼んだ。

 小嶋さんを訪ねた。「3年生を送る出し物として、教師全員が壇上で歌った曲です。その年限りの歌のつもりでした」。その年の3月で小嶋さんは定年退職したが、歌は残った。翌年、卒業シーズンを前に音楽雑誌が譜面を載せる。曲は全国の小中高校で演奏され、わかりやすい歌詞が生徒たちの心をつかんだ。「懐かしい友の声/ふとよみがえる/意味もないいさかいに/泣いたあのとき」

 どこか、若者の抑圧感を歌った故尾崎豊さんを思わせる。武田鉄矢さんの「贈る言葉」にも近い。でも小嶋さんは「夢や憧(あこが)れを詠んだ若山牧水の世界です」と話す。

 「蛍の光」や「仰げば尊し」は明治の初めに発表された唱歌である。刻苦勉励して国に尽くせ、師恩に報いて身を立てよ。歌詞には当時の教育観が色濃くにじむ。

 「文語調のあの歌詞がいまの子どもたちにはどうも難解なようです」と小嶋さん。昔と違って卒業式の歌は生徒たちの好みで決まるところが多い。官製の名歌を脇に押しやって、教職40年の思いを込めた歌が今月、列島の各地に響きわたる。

 「火の車を、いよいよやる」「なんだい、それは」「居酒屋」「だれが店へ出んの?」「おれ」「そいつあ、だめだ」。葬式帰りの電車の中で、「だめ」と言ったのは小林秀雄、言われたのは草野心平である(『草野心平全集』筑摩書房)。

 戦後の52年、心平は東京で「火の車」を開く。「思ひ立つたのも生活が火の車だからだつた」。焼き鳥などが自慢の店だったが、店に立つ本人はじめ文壇などの酒豪が押しかけ、けんかもしょっちゅうで数年でつぶれた。

 けたはずれの火の車状態なのに、つぶれない風を装っているのが日本という国だ。その財政を平均的サラリーマンの家計に見立てた記事があった。月収は52万円でローン返済が20万円だ。出費がかさみ、新たに月々37万円の借金をしている。ローン残高は約7090万円にもなる。

 国がつぶれないのは国債を出し続けているからだが、とてつもない負担で将来の世代がつぶれかねない。むだな工事のほか減らせるところはいくらでもあるはずだが、新年度予算案は衆院を通ってしまった。

 国の主な収入である税金の徴収は公平だろうか。消費者金融大手の「武富士」の創業者の長男が1600億円を超える贈与の申告漏れを指摘された。宇都宮、長野、松山の各市の一般会計予算を大きく上回る額である。

 「きのうもきょうも火の車。道はどろんこ。だけんど燃える。夢の炎」。店主作の「火の車の歌」だ。ここでの騒乱からは、詩精神の炎があがった。国会が十分に機能せず、財政の乱脈が続けば、国民に襲いかかる炎があがる。

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