天声人语


 アガサ?クリスティーの推理小説『蒼ざめた馬』(早川書房)には、犯行に使われる毒物としてタリウムが出てくる。登場人物のひとりが言う。「タリウムは味もしないし、水に溶けるし、簡単に手にはいる。大事なのはただ一点、絶対に毒殺を疑われないようにすることです」

 静岡県の高校の16歳の女子生徒が、タリウムを使って母親を殺害しようとしたとして逮捕された。容疑は否認した。女子生徒は、インターネットに公開している自分の日記で、「蒼ざめた馬」に触れていたという。

 警察の調べでは、問題のタリウムは、近所の薬局で「化学の実験に使う」と言って買ったという。極めて毒性の強いタリウムが、なぜ簡単に女子生徒の手に渡ったのだろうか。

 法律では、18歳未満の相手に売ることは禁じられている。女子生徒は、住所、氏名は偽ることなく所定の用紙に書いていたという。目的や年齢を、しっかりと確認する手だてが必要なのではないか。

 警察は、女子生徒の部屋から、英国人のグレアム?ヤングの生涯をつづった日本語訳本を押収した。タリウムなどの劇物を使って、義母や同僚を次々に毒殺した人物だ。女子生徒は、日記に「尊敬する人の伝記」と書いていたという。

 訳本を読んでみた。しかし、幼いころからヒトラーに夢中になり、後に殺人を繰り返したような男が、なぜ「尊敬する人」になったのかは、やはり分からなかった。いわば古めかしい存在である毒薬と、真新しいネットの世界を前にしながら、女子生徒は日々何を思っていたのだろうか。

 昼過ぎに街の食堂に入る。牛肉を使った料理を探す。いつもは、めん類が多いが、あえて牛を選ぶ。この日は、ハンバーグ定食だけらしい。620円で食券を買う。

 とろりとした褐色のソースのかかった一角を、はしで崩して一口含む。甘みと塩気が程良くて、なかなかうまい。温かいご飯とも合う。もしここで、店主が「いい味でしょ。アメリカ産ですよ」と言ったとしたらと想像する。味そのものは変わらなくても味わいの方はぐらつきそうだ。

 米国産の牛肉の日本への輸入が、年内にも再開される見通しだという。牛海綿状脳症(BSE)の原因物質がたまりにくい月齢20カ月以下の牛に限ったうえで、脳や脊髄(せきずい)などの危険部位を取り除くことが条件だ。

 これを受けて、米農務長官は2日、輸入の対象を「30カ月以下」に拡大するように求める方針を表明した。輸入さえ認めさせれば、あとは交渉次第でなんとでもなるというような強引さを感じさせる。

 農務長官に知らせたいのが、米国産牛肉の輸入についての本社の世論調査の結果だ。「輸入再開に反対」が約3分の2を占めた。「再開されても食べたくない」も同じく3分の2あった。米国産に不信感を持つ人がこれほど多い。様子見といった人もいるだろう。しかし、うまければ、安ければどこのものでもいいというところから一歩踏み出しつつある日本の消費者の姿が読みとれないだろうか。

 「輸入再開、それっ拡大」が通るとは思えない。牛は、幾つかある肉の一つであり、米国は、数ある産地の一つに過ぎないのだから。

 自民党の「新憲法草案」と、在日米軍再編の「中間報告」が相次ぎ発表された。日本の未来を大きく左右しかねない二つの方針は、「軍」を軸にして絡み合っている。

 草案は、自衛隊を「自衛軍」とした。今の憲法には、軍の暴走によって泥沼の戦争になってしまったという思いが込められている。戦後60年たったとはいえ、「軍」への改変に抵抗を覚える人は少なくないはずだ。

 「中間報告」の方は、自衛隊と米軍との「融合」を打ち出した。米軍は究極のところは米国の国益のために存在している。もしも「軍」同士になって「融合」した場合には、米政府の戦略に今以上に左右されないか。

 折しも米国では、チェイニー副大統領の首席補佐官?リビー氏が、イラクの大量破壊兵器(WMD)をめぐる情報に絡んで、偽証罪などで起訴された。補佐官は副大統領とともに「イラクがWMDを持っている」などと主張して、開戦を強硬に推進した。

 パウエル国務長官が、開戦前の国連でWMDの存在について演説した際は、補佐官が中心になって報告を長官に提出した。結局WMDは見つからず、パウエル氏は今秋、この演説を「人生の汚点」だと述べた。ブッシュ政権にとっても大きな「汚点」だが、開戦をいちはやく支持した小泉首相はどう受けとめたのだろうか。

 内閣が改造された。小泉氏にとっては最後の内閣かも知れないが、日本や世界の歩みに、終わりはない。日米関係も重要だが、世界はさらに大きく、重い。やみくもに、「軍」や「融合」の方に傾いてはなるまい。

 フランスの19世紀の作家ビクトル?ユーゴーに「死刑囚最後の日」という小説がある。死刑判決を受けてから断頭台にのぼるまでの男の苦悩を克明につづり、死刑廃止を訴えた。

 同じ19世紀に、ハンガリー出身の画家ムンカーチ?ミハーイは「死刑囚監房」で、処刑を前にした房の様を描いた。うつむいた死刑囚や妻子の脇に、銃剣を持つ看守が立つ。20年ほど前、この絵にまつわる記事で、「権力を表す看守の銃剣の切っ先が光る」と書いた。

 しばらくして、読者から便りをいただいた。そうした役目を果たしてきたか、その周囲にいる人のようだった。「最後の時には、権力対罪人ではなく、お互いに人間と人間として接しているのです」という内容だったと記憶する。法に基づくとはいえ、命令によって人の命を絶えさせなければならない現場の厳しさと、それに向き合う人たちに思いを致した。

 小泉改造内閣で法相に就任した杉浦正健氏が、死刑執行について、命令書には「サインしない」と記者会見で述べた。以前、左藤恵法相が僧職という立場から署名を拒否したことがあったが、杉浦氏は弁護士資格をもち、衆院の法務委員長も務めた。しかし、約1時間後には「個人の心情だった」と撤回した。

 信念に基づく発言かともみえたのだが、すぐにひっくり返ったのはなぜなのか。犯罪被害者や、命令を受ける立場の人たちの思いも大きく揺さぶられただろう。

 命令にサインするかどうかを判断するのは法務大臣だが、それを委ねているのは国民だ。法相の悩みと無関係ではない。

 11月3日が「文化の日」になったのは、1948年、昭和23年からだ。以前は、明治天皇の誕生日を祝う「明治節」だった。

 敗戦翌年の昭和21年のこの日、明治憲法を全面的に改めた日本国憲法が公布された。翌日の本紙には「歴史の日」「平和新生へ道開く」「宮城前で祝賀大会 十万人の大唱和」などの見出しが並ぶ。

 作家の山本有三が寄稿している。「戦争権を放棄したといつても、日本は本来軍国主義の国であるから、いつあばれださないとも限らない」。山本はこんな「世界の現実主義者からの疑惑」を想定し、反論として、ニューヨーク?タイムズの東京特派員だったヒュー?バイアスが戦時中に書いた冷静な日本分析「敵国日本」を引く。

 「日本を手におえぬ軍国主義の国家であるとすることは、歴史を無視した単純な議論である……日本歴史は、日本民族が最も非冒険的な民族である事を示しているのだ。日本にはひとりのジンギスカンも、ひとりのコロンブスもいない」

 山本は、日本は秀吉の朝鮮出兵や近年のシベリア出兵、太平洋戦争のように外国に領土を求めた時にことごとく失敗しているとし、侵略しなかった時代の長さを指摘する。「私はこゝに日本の国民性を考えたい」。そして、新憲法の「戦争放棄」は「世界平和への日本の決意」と述べた。

 戦後60年、日本はともかくも戦争をせず、米国の傘下で「平和」を享受してきた。そして自らも世界有数の軍備を持つに至った。これからは「軍備大国」でもある日本の「世界平和への決意」が一層問われる。

 60年前、都内に住む国民学校5年生が日記にこう書いた。「本日は連合軍進駐の日とて、米機すこぶる低空にていういうと飛び行く。くやしいが如何(いかん)とも出来ぬ。ただ勉強するのみ」

 やがて占領軍の命令で、教科書の軍国主義的な個所を墨で塗らされ、絶対と信じていた天皇中心の日本史が否定された。少年は思い知らされた、戦争の結果次第で歴史は書き換えられるのだと。

 後にアメリカ歴史学会の会長を日本人として初めて務めた入江昭ハーバード大教授(71)である。このほど出した回想録『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書)で、教科書の墨塗りが自分の歴史家としての出発点だったとふりかえっている。

 それは、歴史は勝者が書くのだという単純な論ではない。「国家権力や政治的思惑によって歴史が書き換えられうるからこそ、歴史家はあくまでも自由な意思と努力で史実を追求しなければならない」という決意だ。

 入江さんの仕事の特色は、一国だけの狭い視点ではなく、国家を超える経済や文化の動きを視野に入れて、国際社会の全体像を描き出すことだ。「学問はナショナリズムから自由にならねばならない」という思いに支えられている。

 「歴史とは現在と過去との対話だ」(英国の史家E?H?カー)と言われるが、現在の問題意識で歴史はいかようにでも解釈できるということでは困る。教科書に墨を塗っても、歴史は塗りつぶせない。肝要なのは、塗りつぶした過去との冷静な対話ではないか。軍国少年から出発した入江さんの歩みがそれを示している。

 ニューヨークの国連本部の総会議場に行ったのは3年余り前のことだ。9?11の同時多発テロから半年後のニューヨークを取材に行き、テロで崩された巨塔の跡を見た後だった。

 総会は開かれていなかったが、がらんとした議場の隅にしばらくたたずんだ。この空間は、いわば米国の中にあって米国ではない。各国が座を占める「もう一つの世界」が、息を潜めて波乱に身構えているようだった。

 その後のイラク戦争で、国連は大きな試練を受けた。国連の創設を主導したのは、ルーズベルト大統領の率いる米国だった。その国が、大量破壊兵器の脅威を掲げて単独行動主義に走り、国連と世界を引きずり回した。

 最上敏樹?国際基督教大教授は、近著『国連とアメリカ』(岩波新書)で「しっぽが犬を振り回す」状態と述べた。最上さんは、第2代事務総長ダグ?ハマーショルドの言葉を引く。「私たちの仕事が平和のための戦いであるなどと言うのは大げさすぎます。しかしこの仕事は、分裂と暴力の洪水をくい止めるためのダムを建設する仕事ではあります」

 国連の事務職員に向けたこのスピーチの直後、ハマーショルドは紛争地に向かう途上で殉職した。最上さんは「いわば国連は、人類がその喪失の淵で踏みとどまるために作られたのだと思う」と記す。

 国連は24日に創設60周年を迎えた。本部ビルは老朽化が進み、先日は天井の雨漏りで総会議場が使えなくなった。建物もさることながら、喪失の淵で踏みとどまるための仕組みも「築60年」を機にしっかり点検しておきたい。

 ヘビー級の世界王者に挑戦するジム?ブラドックは、戦う目的を記者団に問われ、「ミルク」と答えた。実在のボクサーを描いた米国映画「シンデレラマン」の印象的な場面である。

 彼には妻と3人の幼い子がいる。妻はミルクを水で薄めて増やした。ブラドックは「夢でステーキを食べた」と言って、自分の食べものを子どもに与えた。大恐慌とそれに続く長い不況の時代の物語である。

 ニューヨーク株式市場で株が大暴落したのは、1929年10月24日、76年前のきょうのことだ。それをきっかけに大恐慌が始まった。企業や銀行が倒産し、失業者が街にあふれた。多くの農民が土地を手放した。大恐慌は欧州や日本にも及んだ。

 ブラドックも、リングで稼いだ財産を失った。そのうえ、手を骨折し、試合に勝てない。港の荷役の仕事にもあぶれる。光熱費を払えなくなり、妻は3人の子を親類に預けた。子どもを手放すのは、人生をあきらめてしまうことだ。ブラドックはボクシング界の幹部らに頭を下げ、光熱費を恵んでもらう。

 「食べるのに必死の時代だったから、家族や地域で結束した面がある」と語るのは、アメリカ経済史専攻の秋元英一?千葉大教授だ。秋元教授は「1930年代の米国は意外に活気のある時代だった。どん底に追い込まれたので、社会主義を主張しようとも、実験的なことに挑もうとも許された」と言う。

 ブラドックは勝ち目の乏しい試合に挑んだ。奇跡的に復活して勝ち進み、ついに頂点に迫る——。株の大暴落から6年、米国の苦闘はなおも続いていた。

 100年前、オーストリアに車道楽の富豪がいた。「愛される車には女性の名がふさわしい」という信念の持ち主で、まとめて36台注文する見返りに、今後すべての車に愛娘(まなむすめ)の名をつけるよう製造元に迫った。メルセデスという11歳の少女である。そのまま商標登録された。

 日本の先駆者は車名に頓着しなかった。国産ガソリン車の第1号は明治末、東京の自転車商吉田真太郎氏が作った。車名は特につけなかったが、ガタクリ、ガタクリ騒音を立てて走ることから「タクリー」と呼ばれた。

 戦前の自動車界に詳しい佐々木烈氏(76)は「タクリーというあだ名には当時の国産車へのさげすみが感じられる」と話す。舶来信仰の時代でフォードなど輸入車に太刀打ちできない。10台ほど製造されただけで、タクリーは自動車史から消えた。

 戦後、大衆車の時代が到来すると、メーカーは車名を競い始める。当初、トヨタではカローラ(花冠)など冠にちなむ名が多かった。ホンダ車では音楽に由来する名が特徴で、日産は小説「小公子」の主人公セドリックなど名作路線を歩む。

 最近の車名選びはかなりの難事だ。語感がよく、商標登録されておらず、輸出先の国々の言語でも不快感を与えない。すべての条件を満たす言葉を探して、何カ月も費やす。

 東京モーターショーの会場を歩いた。エッセ、ピボなど耳新しい名もあれば、1世紀前と同じ少女メルセデスの名もある。この中に100年先まで永らえる車名があるのか。きらびやかな会場の隅で、車社会の先行きに思いをめぐらせた。

 調査票が燃やされたり、調査員が多数辞退したりと、今年の国勢調査は騒ぎが相次いだ。多くの人がプライバシーに敏感になる中、これまでのような調査の仕方や調査内容では立ちゆかないかもしれない。

 「国勢調査」は英語のcensus(センサス)を訳したものだという。語源は古代ローマの時代にさかのぼり、センソールという職名をもった市民登録や税金などを担当する役人が行った人口調査を意味している(「国勢調査のはなし」80年に国が発行)。

 1920年、大正9年の10月に実施された最初の国勢調査ではこんなポスターが作られた。「国勢調査は社会(よのなか)の実況(ありさま)を知る為に行ふので課税(ぜいきん)の為でも犯罪(ざいにん)を捜す為でもありません」

 それから80年たった前回00年の調査の後、総務省が1万余世帯を対象に調べたところ、「答えたくない質問事項」は「勤め先の名称?事業の種類」が一番多く3割強あった。以下、最終学歴などを尋ねた「教育」、「家計の収入の種類」と続く。

 調査票を前にして、戸惑う様が浮かぶ。総務省は「勤務先の名称」は正確な産業分類をするために必要と説明する。しかし、その結果が具体的にどう行政に利用されているかについては「把握していない」

 1回目の調査では「宣伝歌謡集」もできた。「調査する日の近づかば成たけ旅行(たび)をせぬものぞ/火の元用心第一に伝染病にも気をつけよ/是等の禍起りなば調査の妨げ如何(いか)計り」。国家の一大行事だった時代は、すでに遠い。あり方を広く見直し、新しい時代に合った調査にしてゆきたい。

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