天声人语


 100年前、オーストリアに車道楽の富豪がいた。「愛される車には女性の名がふさわしい」という信念の持ち主で、まとめて36台注文する見返りに、今後すべての車に愛娘(まなむすめ)の名をつけるよう製造元に迫った。メルセデスという11歳の少女である。そのまま商標登録された。

 日本の先駆者は車名に頓着しなかった。国産ガソリン車の第1号は明治末、東京の自転車商吉田真太郎氏が作った。車名は特につけなかったが、ガタクリ、ガタクリ騒音を立てて走ることから「タクリー」と呼ばれた。

 戦前の自動車界に詳しい佐々木烈氏(76)は「タクリーというあだ名には当時の国産車へのさげすみが感じられる」と話す。舶来信仰の時代でフォードなど輸入車に太刀打ちできない。10台ほど製造されただけで、タクリーは自動車史から消えた。

 戦後、大衆車の時代が到来すると、メーカーは車名を競い始める。当初、トヨタではカローラ(花冠)など冠にちなむ名が多かった。ホンダ車では音楽に由来する名が特徴で、日産は小説「小公子」の主人公セドリックなど名作路線を歩む。

 最近の車名選びはかなりの難事だ。語感がよく、商標登録されておらず、輸出先の国々の言語でも不快感を与えない。すべての条件を満たす言葉を探して、何カ月も費やす。

 東京モーターショーの会場を歩いた。エッセ、ピボなど耳新しい名もあれば、1世紀前と同じ少女メルセデスの名もある。この中に100年先まで永らえる車名があるのか。きらびやかな会場の隅で、車社会の先行きに思いをめぐらせた。

 小さなブタにひもをつけて散歩をさせている女性を何度か見たのは、3カ月ほど前だった。高速道路の下を車が激しく行き交う東京都心の交差点を、ピンク色のブタがちょこちょこ行く。

 先月は、同じ東京の中野区で、逃げ回る3匹の子ブタが捕まった。ペットとして飼われていたガレージのフェンスのすき間から逃げ出したという。

 日本の各地で、意外な動物が町の中や他人の家で見つかる騒ぎが目につく。記事の見出しを拾ってみる。「押し入れにニシキヘビ」「イグアナが日光浴?」「庭に毒サソリ」「路上にオオサンショウウオ」「凶暴なり カミツキガメ」

 なかなかの迫力だが、動物たちにしてみれば、人間の勝手で連れてこられた場所で、何とか生きようとしているだけだ。気味が悪いとか、凶暴などと言われるのは心外だろう。

 3匹の子ブタを捕まえた警察署では、住民から様々な「ペット逃走」の通報があるため、巡回のパトカーに捕虫網を常備しているという。署の幹部が語る。「警察には困りごと処理のコンビニのような機能もあるので、通報があれば捕まえにゆく。でも捜査や事故処理などの本来の職務に支障が出ないか心配になる」

 動物は、閉じこめられるのがいやだろうし、常に閉じこめておくことも難しい。オリやかごから出ただけで周りが驚き、恐れるような動物たちにも、それぞれ命がある。もともと身近ではなかったその命が、見知らぬ人間社会の中に置かれている。そういえば、あの交差点のブタをしばらく見ない。元気にしているだろうか。

 鹿児島県の知覧町は、「薩摩の小京都」とも呼ばれる落ち着いた町である。古い屋敷や茶畑の広がる静かなたたずまいと裏腹に、60年前の太平洋戦争中は特攻隊の基地が置かれていた。多くの青年兵士が日々飛び立ってゆき戻らなかった。

 当時、軍指定の「富屋食堂」を営んでいた鳥浜トメさんは兵士らの世話を親身になって続けていた。明日のない青年たちから、母のように慕われた。その次女で当時女学生だった赤羽礼子さんが16日、75歳で亡くなった。

 礼子さんは、92年に没した母や自分と兵士たちとの親交を描いた共著『ホタル帰る』(草思社)を01年に出した。本の題は、出撃前日の宮川三郎軍曹との約束にちなんでいる。その夜、トメさん親子と兵士たちが食堂の横を流れる小川の上を見ると、ホタルが明滅していた。宮川軍曹が言う。「死んだらまた小母(おば)ちゃんのところへ帰ってきたい」「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」。店に入れるように表戸を少し開けておくと約束する。

 軍曹が飛び立った日の夜、わずかに開けていた戸のすき間から一匹の大きなホタルが入ってきた。気づいた娘たちが叫ぶ。「お母さーん、宮川さんよ」

 青年たちの生が次々に絶たれる。予告され覚悟する兵士たちと見送る人たち。その悲痛な姿は、爆弾を抱えて体当たりせよという命令によってもたらされた。そしてその異常な命令は、あの戦争を始めたあげくになされた。

 礼子さんやトメさんと兵士とのきずなは胸をうつ。その伝言は、死を強いる戦争の醜さを伝え続けてゆくだろう。

 企業恐喝事件を起こした大阪市の政治団体の事務所から、電話のかけ方のマニュアルが押収された。右翼活動に見せかけて金を脅し取るためのテクニックの一端も示されていた。

 どんな世界にも手引書があるものだと思いつつ、先ごろ手にした一枚の紙を読み直してみた。「背筋を伸ばし、アゴを引いて、まっすぐに相手の眼を見る」「常に笑顔で、丁寧な言葉遣いで、かつ『低姿勢』で」「語尾をのばしたり、あいまいに発音しない」「絶対にむきにならず、不機嫌な表情は見せない」

 アルバイト店員用みたいだが違う。これが自民党が総選挙で初当選した83人の新人衆院議員に配った「マスコミ取材への心構えについて」だ。「オフレコはありえない(口から出た言葉はすべてニュースになる)」とも書いてある。新聞記事にされた途端に発言を撤回した先輩よりも、「記憶にない」を多用するベテランを見習えと読めなくもない。

 マニュアルの話題なら、外務省にもある。新党大地代表で衆院議員に返り咲いた鈴木宗男氏のためだけに用意された。過去の「不適切な関係」に気を使って内々に作った。会食は当面は辞退する。説明要求には応じるが、強い意見表明があった場合は、官房総務課に相談するなどとある。

 いかにもマニュアル万能時代らしい。このぶんだと「小泉学校」の新人議員用には「料亭の流儀」から始まり、いずれは「大臣になるためのマニュアル」も作られるのだろうか。

 でも、彼らがいま最も読みたいのは「次の選挙を生き残るためのマニュアル」だったりして。

 第二次大戦後の占領期に実施された検閲には不可解な例がいくつもあった。「東北で疫病の恐れ」といった記事が削られる。馬追い祭りの写真も掲載できない。武者姿が復古的と見なされたようだが、恣意(しい)的である。新聞人は敗戦の悲哀をかみしめた。

 新聞の事前検閲が本格化したのは60年前の10月だった。各紙が連合国軍総司令部(GHQ)に日々大量の原稿を持参し、掲載可か否か保留か判定を待った。新聞統制に腕をふるったのは元記者でGHQ情報課長のドン?ブラウン氏である。検閲行政を進めたほか、印刷用紙の割り当ても差配した。

 ブラウン氏の足跡を紹介する企画展が30日まで横浜開港資料館で開かれている。彼が戦時中に手がけた対日宣伝ビラは巧妙だ。すし盛りのカラー写真や天皇の詠歌を載せ、日本兵を投降に誘う。占領終結後も日本にとどまり、80年に病没した。

 ブラウン氏が米国で生まれた1905年、日本は対露戦争のさなかで軍部が検閲に力を入れていた。元TBS記者竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(朝日選書)を読むと、特報の数々が軍や警察でなく、地方の郵便局で気まぐれに没とされ、削られていたことがわかる。

 当時の報道合戦は電報頼みだった。「○○少佐昨夜旅順ヘ出発ス」。陸軍の拠点だった香川?丸亀の郵便局から記者たちが本社へ送った大量の電報の行方を竹山氏は克明に調べた。歴史に埋もれた電報検閲に光をあて、今年の日本エッセイスト?クラブ賞に輝いた。

 新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。

 今年のノーベル経済学賞には「ゲーム理論の応用」という業績で、二人の学者が選ばれた。時おり耳にする理論だが、なじみがあるとはいえない。

 ゲーム理論の説明には、よく「囚人のジレンマ」が持ち出される。竹田茂夫著『ゲーム理論を読みとく』(ちくま新書)にはこうある。警察が、窃盗の共犯と思われる容疑者を二人捕らえた。物証は乏しい。

 刑事は、二人を隔離してそれぞれに告げる。「相棒が黙秘している。もしおまえが自白すれば無罪放免にしてやる。逆に、おまえが黙秘して相棒が自白すれば、おまえの罪はもっと重くなるぞ」。「ゲーム理論の普通の説明によれば、囚人はそれぞれ相棒が裏切るのではないかという疑心暗鬼に陥って、自己防衛のために自白してしまう」と竹田さん。

 今回受賞したイスラエル?ヘブライ大のロバート?オーマン教授が記す。「ゲームの理論とは、利害の一致しない人々の合理的行動に関する理論である。その適用範囲は、通常の意味でのゲームをはるかに越え、たとえば、経済学、政治学、そして戦争などもそこに含まれる」(『ゲーム論の基礎』勁草書房)。

 もう一人の受賞者、トーマス?シェリング米メリーランド大教授は冷戦中にはゲーム理論を安保?軍拡問題に応用した。戦略研究の古典だという。

 戦略や戦略的思考といった言葉が人をひきつける力をもっているのを、竹田さんも認める。しかし、そのプラスのイメージだけに目を向けることには批判的だ。確かに国にも企業にも戦略は必要だが、戦略だらけでも息苦しい。

 大きな家の一室を借りて、初老の夫婦が住んでいる。妻ローズは部屋が気に入っている。ある日、貸間を探しにやってきた若いサンズ夫妻が戸口に立つ。

 「サンズ氏 地下室の男は一つあいてるって言ったがな。一部屋だけ。七号室だそうです。  (間)      ローズ それはこの部屋です」。現に自分たちが住んでいる部屋が、なぜ「空き部屋」と伝わるのか——。今年のノーベル文学賞に決まった英国の劇作家ハロルド?ピンター氏の代表作の一つ「部屋」の一節だ(『ハロルド?ピンター全集』新潮社)。

 確かなものだったはずの自分たちの部屋や、かつての記憶が揺らぐようなことが重ねて起こる。(間)と示される沈黙は、現実を突き崩されてたじろぐ人の象徴とも見える。

 ピンター氏は、今回の受賞を感謝し率直に喜んでいるという。そして記者 たちに語った。「よほど気をつけていないと、世界はダメになってしまう」「これからも政治的な問題にかかわり続けていきます」

 北大西洋条約機構軍が旧ユーゴスラビアを空爆したころに述べている。「今こそ、政府によって繰り返される(戦争についての)歪曲(わいきょく)、誤った情報の正体が暴露されるべき時だ」。芸術家は真実を守り、世界の権力が何をしているのかを明らかにすべきだとの姿勢を示した。

 「部屋」に限らず、作品には「場所」を巡っての人模様が多い。「場所」とは、人にとって欠かせないものであり、それは実にもろいものでもある。戦争にあらがう言葉の向こうに、そんな思いを想像した。

 ドイツの「今年の言葉」に「赤?緑」が選ばれたのは98年だった。9月の総選挙で、社会民主党と90年連合?緑の党との連立政権が生まれた。両党のシンボルカラーから「ロート?グリュン(赤?緑)」と呼ばれた。

 それ以来続いてきた「赤?緑」の連立から「赤?黒」の連立へと、ドイツの政権が移った。黒は、これまで保守系野党だったキリスト教民主?社会同盟のシンボルカラーだ。メルケル党首がシュレーダー氏に代わって首相になることで、「赤」と「黒」は合意した。初の女性首相が誕生する運びだという。

 メルケル氏の51年の生が、分断から統一へのドイツの変遷と重なっていることが印象的だ。冷戦下の54年に旧西独のハンブルクで生まれたが、間もなく旧東独へ移住する。ライプチヒ大学で物理学を学んだが、89年にベルリンの壁が崩壊したころ、政治家に転身した。

 コール前首相に見いだされて閣僚となり、「コールの娘」とやゆされた。強気の姿勢は、サッチャー英元首相になぞらえて「ドイツ版?鉄の女」とも言われた。しかし壁の崩壊から16年後、国民は結果としてだが東独育ちの彼女を国を率いる立場へと押し上げた。

 03年のドイツの「今年の言葉」は「古い欧州」だった。ラムズフェルド米国防長官が、イラク戦争に批判的な独仏を非難して使った。長官にこの言葉をはかせたのが「赤?緑」の連立だった。

 「赤?黒」による国のカジ取りが始まるが、両党の「色合い」の違いもあって、不協和音も予想される。ドイツの新しい航海に注目したい。

 三蔵法師の名で知られる中国唐代の僧?玄奘が、その長大な旅行記『大唐西域記』に記している。「迦湿弥羅(カシミール)国は周囲七千余里ある。四方は山を背負っており、その山は極めて険しい」(東洋文庫?水谷真成訳注)。

 パキスタンの北部で起きた大地震は、日がたつにつれて犠牲者の数が大きく増えている。カシミール地方などの山岳地帯に被害が集中しており、ムシャラフ大統領は各国に援助を要請した。

 日本の援助隊も活動を始めた。隣国のアフガニスタンに駐留する米軍が輸送ヘリを派遣し、英、仏、オランダ、トルコからも援助隊が向かったという。

 国連の人道問題調整事務所(OCHA)が各国の調整にあたる。救助に向かう動きは、まずは滑らかなようだ。しかし険しい山岳地帯ということもあって、がれきの下に人がいるのが分かっていながら救助の手が届かないところがあるという。救助は時間との勝負だ。平時から、各国が効率よく手分けして一刻も早く現場で活動が始められるような仕組みと備えが必要なのではないか。

 玄奘は「気候は寒さ勁(きび)しく雪多く風は少ない」とも書いた。きびしいのは、間近に迫る寒さだけではない。カシミールは、パキスタンとインドの領有権争いという厳しい歴史も背負っている。インド側でも、ジャム?カシミール州を中心に多くの死者と家屋倒壊の被害が出たという。

 崩れた建物の壁とたたかう被災者に、国と国との争いという壁まで負わせてはなるまい。両国政府は、互いの国境と歴史を超え、手を携えて命を救ってほしい。

 「チームは売り物じゃない」という横断幕が昨秋、ロンドン市内に掲げられた。英サッカーの強豪マンチェスター?ユナイテッドのファンたちだ。強引にチームを買い取ろうとする米実業家グレーザー氏に反発し、本人に似せた人形を焼いた。

 グレーザー氏は8歳で家業の時計店を継ぎ、13歳で独立した。投資事業で成功しアメフット球団を所有する富豪となった。半年余りでマンチェスター株を70%支配し、買収提案を拒む旧経営陣をねじ伏せた。グレーザー氏には他国のサッカーも投資先の一つにすぎない。地元ファンをなだめるようなこともしなかった。

 「買収お断り」「魂は買えない」。そんなプラカードが先日、甲子園の客席に揺れた。阪神電気鉄道株を40%近くまで買い進めた村上世彰(よしあき)氏に向けたファンの抗議である。

 村上氏は大阪?道頓堀の近くで育った。株取引は小4の頃から。「これで小遣いを稼いでみろ」と父親から100万円を渡された。中学では、四季報や経済紙を愛読した。

 東大から通産省に進んだ村上氏が30歳で書いたという小説の草稿を読んでみた。題は「滅びゆく日本」。主人公は大阪生まれで、東大在学中から株で財をなす。内閣官房長官となって女性首相を支え、「生きてる間に日本を動かすでっかいことをやりたい」と語る。

 中高の6年間、阪神電車で通学した村上氏は、「球団名、甲子園、縦じまユニホームに愛着を感じる」とファンを自任する。同時に、球団を投資対象と見ていることも隠さない。「村上?タイガース戦」から目が離せない。

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