天声人语


 19世紀のフランスの詩人ボードレールの散文詩「パリの憂愁」には、人間の首にとりついて離れない魔物「噴火獣」が出てくる。三島由紀夫は、初期の代表作「仮面の告白」の自序原稿の一つに「人みな噴火獣(シメエル)を負へり」と訳詩一行を記した。

 「仮面の告白」は、戦後間もない昭和23年、1948年の今頃から書かれた。「さて書下ろしは十一月廿五日を起筆と予定し、題は『仮面の告白』といふのです」と、編集者に書き送っている(『決定版 三島由紀夫全集』新潮社)。

 それから22年後の70年の11月25日に、三島は東京の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自衛隊の決起を訴え、割腹自殺した。ノーベル賞候補にもあげられた文学の他、ボディービルや剣道、映画出演といった多彩で華やかな活動の果ての行動だった。

 死の10年以上前、対談で文芸評論家の小林秀雄が述べた。「率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね……ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな」

 この対談で小林が繰り返した「魔」について秋山駿氏が記す。「才能の魔とは、つまり、才能を持っている当の主人を亡ぼすもののことだ。三島氏が抱いている生の『悲劇』のようなものを、早くに直覚したのであろう」(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫)。

 三島が、いわば一瞬のうちに沈黙してから35年が過ぎた。しかし作品を開けば、文字は朗々と語り始め、あやなす日本語の魅力は尽きない。自殺の現場の部屋には、当時の刀傷が残っている。

 パリの地下鉄の運転室に入ったことがある。もちろん取材の許可は得ていたが、レールの先をにらむ運転士の視野に入らないよう、立つ位置には常に気を使った。

 今月、電車を運転中に3歳の長男を運転室に入れたとして、関東の私鉄、東武鉄道の運転士が懲戒解雇された。この件が報道されると、東武本社には賛否の意見が約2千件も寄せられた。ほとんどが「厳しすぎる」と解雇に批判的だった。

 東武によると、30代の運転士で、埼玉県から千葉県へ向かう普通列車を運転していた。この乗務で勤務が終わる予定だった。途中駅で、運転士の妻が長男と2歳の長女を連れて先頭車両に乗り込んだ。

 父親の姿に興奮したのか、男児が運転室のドアをたたき「パパ」「パパ」と声をあげた。妻はむずかる女児を抱きかかえて手がはなせない。注意しようと運転士がドアを細く開けたすきに男児は運転室に駆け込んだ。連れ出そうとすると、泣いてしゃがみこむ。約4分の子連れ運転となった。

 解雇処分を巡っては、本紙にも賛否の意見が寄せられた。「もしも大事故が起きていたら運転士は一生後悔したはず。解雇されて当然」「3歳児が将来、解雇理由を知ったら深い傷になる」

 安全運行がすべてに優先するのは言うまでもないし、家族を先頭車両に乗せるべきではなかった。それでも、多くの人命を預かる仕事だと再認識させたうえ、再び乗務の機会を与えるかどうか検討するといった選択肢はなかったのだろうか。勤労感謝の日のきのう、電車の運転室のドアの前で思いを巡らせた。

 「24時間はみんなに平等に与えられているもの。どうか、なんでも夢を持って一日一日を大切に過ごして欲しい……」。東京国際女子マラソンで見事に復活優勝した高橋尚子選手の優勝インタビューでの言葉に、不思議な説得力が感じられた。

 インタビューの前段では、こう言った。「陸上をやめようかとも思ったこともありました。でも、一度夢をあきらめかけた私が結果を出すことで、今、暗闇にいる人や苦労している人に、『夢を持てば、また必ず光が見えるんだ』ということを伝えたい、私はそのメッセンジャーになるんだと、走りながら自分に言い聞かせていました」

 現実の世界は厳しい。夢を口にすれば、きれいごとに聞こえる。しかし、身をもって力を尽くし、闇の中に光を見た人の口から外に流れ出ると、夢という言葉に現実的な強い力が宿るように思われた。

 大きな、アテネ五輪という目標を失った後に独立し、新しい支援チームと手探りで道をたどってきた。今回の大会の間際には、足に肉離れを起こした。レースで将来に響くような事故があれば、本人もチームも批判されていただろう。

 長い、起伏のある過酷な道を行くマラソンは、レースそのものが人生行路を思わせる。大きな一かたまりで競技場を出た選手たちが、やがて小集団に分かれる。それもばらけて直線になり、ついには一人一人が点と点になって戻ってくる。

 高橋選手は「チームのきずなが私を勝たせてくれました」とも述べた。夢を持てば闇の先に光が差すという、一つの願いが通じた。

 今からふた昔前、東京都内のある大学の教授が、授業の出席率の悪さに業を煮やして、こんな試験問題を出した。問題用紙には教授を含む数人の顔写真が刷られ、「私はどれでしょう」

 翌年、学生の間に出回ったノートのコピーに教授の写真が添えられていたのは、言うまでもない。授業に出ない学生にも言い分があった。毎年、すこしも変わらぬ単調な授業だったのだ。かつては自分の好きなテーマだけを延々と講義して、学生の興味や関心を顧みない大学教員が多かった。

 昨今は、どうも風潮が変わったようだ。某国立大が教員に配っている授業のやり方ハンドブックを見ると、次のように書いてある。ユーモアを交えて学生の興味をかきたてる。1回ごとの講義を読みきりでまとまったものにする。ビデオなどの映像に訴える。

 毎回の授業の概要をプリントして配るのは常識だという。授業内容も、様変わりだ。政治学を例にとると、かつてはルソーの「社会契約論」などの古典を読んだり、欧州議会史などをこまごまと講義したりしていたが、今は郵政民営化などの現在の問題を使ったり、現職の日本の政治家を研究する授業もある。

 ところがおもしろいもので、学生の間ではこんな意見も聞いた。「現代は情報があふれて、どれを読み、何を信じるべきか迷う時代。授業が現代の素材を扱うとその延長のような気がしてしまう。むしろ古典を読みたい」

 いつの時代も、学生の不満の種は尽きないと言うべきか、何事も配合とバランスが難しいというべきなのか。考えさせられる。

 自民党が、結党から50周年を記念する大会を開いて「立党五十年宣言」を発表した。「我々は国民の負託に応え、情理を尽くして幾多の問題を克服し、国家の安全と経済的豊かさを実現すべく、つねに主導的役割を果たしてきた……」

 戦後の復興期から半世紀のほとんどの間、政権を担ってきたという自負がほとばしるような文面だ。記念の「宣言」である以上は、勢いづくのは仕方がないのかも知れない。しかし、「情理を尽くして」のくだり一つをとってみても、世に異論はずいぶんあるだろう。

 「人情と道理」を尽くすことは、かなり難しい。長い歴史の中では、数を頼んで国会に臨んだこともあったはずだ。議席を多く占めれば占めるほど、その危険と誘惑とは増えてゆく。今のような時だからこそ、党の内外で、情理を尽くすよう努めるべきではないのか。

 宮沢元首相が、気になる発言をしていた。「ポスト小泉もこんな言論が封殺された状況では展開のしようがない。もっと自由な議論がなきゃいけないでしょうね」。そんな状況があるとすれば、長く党名に掲げ続けてきた「自由」と「民主」も揺らぐだろう。

 50周年の記念に、自民党本部では、前庭にコブシの木を植えた。「生命力が強く、過酷な状況でも立ち枯れしない。自民党もどんな逆風が吹いてもくじけないように、と選んだ」そうだ。

 コブシという名前は、集合果が握り拳に似ていることに由来している。しかし、実際の政治では、くれぐれも数にまかせて拳を振り下ろすようなことがないように願いたい。

 ロシアでは、今年から、革命記念日が祝日ではないただの日になった。1917年の11月7日(旧暦10月25日)に、レーニンの率いるソビエト政権が樹立された。記念日は、旧ソ連の崩壊後は「和解と合意の日」と名が変わったが、祝日としては生き残っていた。

 革命は一段と遠くなりにけりかと思うと、国民感情はそう単純ではないようだ。今月、インタファクス通信が「最も肯定的な現代史上の人物」にレーニンが選ばれたとする世論調査の結果を伝えた。54%が肯定的に評価した。次いでソ連の初代秘密警察長官が45%、最後のロシア皇帝が40%と続いた。

 プーチン政権下で経済成長が続いても、その主力のエネルギー産業に関係のない人への恩恵は少ない。貧富の差や汚職の深刻さが、革命や遠い時代への郷愁を生んでいるらしい。

 レーニンに関しては、プーチン大統領と親密な間柄の映画監督が、赤の広場の廟(びょう)で公開している遺体を埋葬せよと言い出し、論議を呼んでいる。廟にはスターリンの遺体も一時安置されていた。

 レーニンの別荘のコックで、その死後はスターリンの別荘の料理人になった人がいた。プーチン大統領の祖父だ。「なぜか粛清はまぬがれた。スターリンのまわりにいた人間で被害を受けなかったのはわずかだったが、祖父はその一人だった」(『プーチン、自らを語る』扶桑社)。

 世論調査で、スターリンを否定的に評価した人は45%いたが、肯定的な人も37%いた。遠ざかった「二大国の時代」への郷愁かも知れない。プーチン大統領は20日に来日する。

 古代ローマのアウグストゥス帝の時代に、ウィトルーウィウスという技術者がいた。彼の『建築書』には、魔法のような働きをする建築材料が記されている。

 この「自然のままで驚くべき効果を生ずる一種の粉末」は、ナポリ近郊のベズビオ山の周囲の野に産出する。「これと石灰および割り石との混合物は、他の建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる」(森田慶一訳?東海大学出版会)。

 この粉末は火山灰で、古代のセメントの原料だったという。近現代に至って、鉄とコンクリートを組み合わせた鉄筋建築が世界の都市に広まっていった。無機的で殺風景だが、何より半永久的という丈夫さが売り物だった。

 ところが、建築して間もない首都圏のマンションやホテルで、地震への弱さが問題になっている。千葉県内の建築士が、耐震性にかかわる構造計算書を偽造していた。建築コストを抑えることで、「仕事を増やしたかった」というが、弱い建物に日々身をあずけている住民は、たまったものではない。

 構造計算書などを基にした建築確認申請は、検査会社が検査している。しかし、偽造を認めた建築士は「ノーチェック状態だった」と述べた。建設会社や建築現場の人たちは、使う鉄筋などに疑問を持たなかったのだろうか。「コスト削減が業界の流れ」という建築士の言葉も気になる。

 常に倒壊の恐怖につきまとわれている住民の救済が第一だが、建築確認の仕組みの点検も急ぐ必要がある。地震は待ってはくれないのだから。

 家の薬箱に、タミフルがある。今年初め、家族がインフルエンザにかかった折に処方された残りだ。淡い黄色の小さなカプセルがこれほどまでに世界の注目を浴びるとは思っていなかった。

 スイスのロシュ社が独占供給する薬である。新型インフルエンザが懸念される中、事実上ただ一つ有効な内服薬として各国が備蓄に乗り出し、テレビや新聞が連日取り上げている。

 英紙は、「効能も品質も同じ薬を量産するには3年かかる」というロシュ社の主張を伝えた。台湾では「わずか18日でタミフルの開発に成功」と報じられた。「特許など構わず、独自に作れ」と訴える声は途上国に多い。

 あおりで、中華料理の香辛料でおなじみの八角という実が、産地の中国で高騰している。タミフルの合成に必要なシキミ酸が八角から抽出されると報道され、秋から出荷が急増した。ただし八角をそのまま食べても予防には役立たない。

 前世紀で最悪のインフルエンザは、1918年のスペインかぜだ。世界の人口の半数が感染した。当時の本紙には「感冒猛烈、東京で死亡千三百」「薬の本場ドイツから輸入届かず」などの記事がみえる。実効散、消熱散、守妙といった名の薬の広告も目立つ。在庫不足で値上がりした薬があれば、副作用の訴えから細菌混入がわかって販売を禁止された薬もある。

 以来80余年、医学はめざましく進歩したはずなのに、世界的な大流行への備えはあまり進歩していないようにみえる。たった一社の一つの薬に、人類の命運を背負わせるような方策しかないのだろうか。

 「民主主義の強さを確認するものだ」。京都での記者会見で、ブッシュ米大統領は、先の総選挙での小泉自民党の圧勝について、そう述べた。「日本は改革すべきかどうかを問いかけ勝利した」に続くくだりだ。首相を祝福したいのは分かるが、やはり違和感がある。

 小泉首相が国民に問いかけたのは、「日本は改革すべきかどうか」というよりは「郵政民営化法案に賛成か反対か」だった。国民の関心がそう高くなかった、たった一つの法案への賛否を問う異例の総選挙だった。それを評して、なぜ「日本という国の改革を問うた」となるのだろうか。

 単に「改革が必要かどうか」なら必要と答えるのは当然で、何をどう改革するのかで国民の意見は分かれる。その議論が尽くされてはじめて、民主主義の強さが確認されるのではないか。

 この日、国会の信頼にまでも及びかねない事件が摘発された。酒販店でつくる「全国小売酒販組合中央会」の元事務局長を、警視庁が業務上横領容疑で逮捕した。この会の関連する政治団体では、多額の使途不明金が政界に流れたのではないかとの疑惑が浮上している。

 その政治団体の元幹部が述べたという。「業界生き残りの法律を金で買うという判断だった」。酒の販売の免許制度の見直しを巡る動きというが、そんな金の受け渡しが事実なら、絵に描いたような政治の腐敗ぶりだ。

 ブッシュ大統領はこうも述べた。「日本は自由と民主主義を広める良き友人だ」。米国も日本も、民主主義の強さを常に点検していないと、独善に陥ることになる。

 作家よしもとばななさんは、アルバイト先で見たバナナの花に魅せられ、筆名に選んだ。「あんなに大きく変なものがこの世にあるなんてそれだけで嬉(うれ)しい」。バナナに寄せる恋情を『パイナツプリン』(角川書店)に書いている。

 いつか熱帯植物園でバナナの花を見たことがある。花は巨大な苞葉(ほうよう)に覆われ、その紅色が目をひく。夜にだけ開き、芳潤な蜜を求めてコウモリが飛来するという。

 花を目にする機会はあまりないが、実ならだれもが知っている。ことし発表された総務省の家計調査で、初めてバナナがくだものの年間購入量の第1位に躍り出た。長らくミカンが1位で、リンゴが2位、バナナは3位だった。

 フルーツの王者となったのを機に、日本バナナ輸入組合は好調の秘密を調べてみた。大半の果物は食後のデザートという脇役なのに、バナナは朝食や間食の主役として消費が伸びていた。ナイフがいらず、栄養源として価格も手頃なことが人気の理由とわかった。

 かつてはメロンと並ぶ高級果実だった。輸入が始まったのは1903年で、台湾産の「仙人」という品種70キロ分が神戸港に運び込まれた。大変な珍品で、庶民の口には入らなかった。戦後も、1963年に輸入が自由化されるまで、子どもが風邪で寝込んだおりでもないと買えないぜいたく品だった。

 そんなバナナも風邪をひく。業界用語で、産地の気温異常や倉庫での温度管理のミスで低温にさらされ、果皮が黒ずんだ状態をいう。家庭でうっかり冷蔵庫に入れられるのも、熱帯育ちには酷な仕打ちである。

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