『一恵』   

作曲 谷村新司 作詞 横須賀恵


   一期一会 いくつかの出逢いの中で
   それぞれに心を知りました


    「貴女は夢だ」と人は言う
    何故 何故夢なのかとふと思う


    そんな想いは幼い頃の
    雨に降られた  秋祭り
    ガラス越しの雨だれに
    ため息ひとつ瞳(め)をふせた
    あの日の私想わせる


    現(うつつ)の心届かぬままの
    不知火(しらぬい)のような不思議さを
    背おいきれずに呟(つぶや)いた


   私は女――


   一期一会 あなたとの出逢いの中で
   私は自分を知りました


    私の胸によせる波は
    あなたの あなたの心にひいて行く


    母にもらった名前通りの
    多すぎる程の倖せは
    やはりどこか寂しくて
    秋から冬へ冬から春へ
    ひとつの愛を追いかけた


    現に戻す罪の深さを
    知ってか知らずかあなたへの
    愛を両手に呟いた


   私は女――


    現に戻す罪の深さを
    知ってか知らずかあなたへの
    愛を両手に呟いた


   私は女――


  新华网快讯:记者从北京大学获悉,中国科学院院士、中国工程院院士,北京大学教授王选13日11时许在北京病逝。


  中国共产党优秀党员、中国当代舞蹈艺术先驱者和奠基人之一、著名舞蹈艺术家、舞蹈教育家、中国舞蹈家协会名誉主席戴爱莲先生因病医治无效,于2006年2月9日17时34分在北京逝世,享年90岁。


  戴爱莲祖籍广东,1916年出生于加勒比海上的特立尼达岛。1931年定居伦敦后,师从芭蕾大师克拉克等世界著名舞蹈家学习欧洲古典芭蕾舞。1937年日本侵华战争爆发后,她多次在伦敦参加援华募捐演出,编演了《警醒》、《前进》等作品。


  1939年底,在国内无亲无故的戴爱莲毅然回到祖国,成为整理民族民间舞并加工成艺术搬上舞台的领军人物。她是新中国第一个舞蹈团的团长,第一任全国舞协主席,第一任北京舞蹈学校校长,第一任中央芭蕾舞乐团团长。作为中国新舞蹈艺术的开拓者,她创作的群舞《荷花舞》、《飞天》成为20世纪华人舞蹈经典作品。戴爱莲现任中国舞蹈家协会名誉主席。


  戴爱莲积极把中国民族民间舞蹈介绍到国际舞台。1981年,英国皇家舞蹈学院把戴爱莲的头像雕塑陈列于学院大厅,同年瑞典斯德哥尔摩博物馆收藏这尊雕像的复制品,以表彰她为发展国际舞蹈事业所做的努力。2002年,中国文化部授予她“造型表演艺术创作研究成就奖”。


  闹钟没响就醒了,早了一个小时。看着横躺在床上的背囊,有些发愁:不想去,其实什么也不想做。可是最后的日子眼看逼近,再不行动起来,死亡的机会便会溜走。但我又想,正是因为自己想了这么多,感受了这么多,才造成今天的痛苦,“不要再想了,不要再想了”,我一面告诫着自己,一面爬下床来。


  正午刚过,我搭上一辆空座的电车到了新宿,然后在新宿转乘中央线往东京。我已经很久很久没有到过比新宿更远的地方了。中央线的车比刚才那辆电车拥挤,我站在门边,尽量只盯着窗外看,因为我依稀觉得车里的视线都集中在了我身上,他们嘴角挂着冷笑,仿佛在看一个傻瓜。而我,已经不再想攻击他们,不再想借攻击他人来平复自己内心的伤痕。当初那样只是因为自己太软弱,担心受到嘲笑,只是因为我惧怕那些人。又或者,他们真的在把我当傻瓜一样讥笑,但那一定是因为我太猥琐丑陋了。列车行驶在中央线上,我心里空荡荡的,什么也不想,什么也不去感受。


  到了东京,我走下电车,穿过人流,踏上扶梯,然后沿墙边走到新干线换乘口。要不然,混入滚滚人流中,我一定会犯恶心的。好容易到了换乘口,在自动卖票机给自己买了乘车票和特快票。


  在新干线上,我一直站在1、2号车厢的连接处。本来也想坐到坐席上,但一想到有人中途上车可能会坐到我旁边,就宁可这样站着。一个半将近两小时后,我又上了电车。地方线路果真乘客很少,不过,出于相同的理由,我还是选择了过道。车窗外,可以看见山里只有一层薄雪。此前唯一的担心就是恐怕积雪太厚,今日看来,穿双便鞋就足够了。气温也不算低。一个多小时后,总算到了预定的酒店所在的小城。这里是个地道的地方小城,车站古旧,四周建筑也显得脏乎乎的。

  天色已经开始暗下来,我赶紧拿出笔记开始找预定的酒店。酒店非常近,离车站不到一分钟路程,没费力就找到了。虽然比我电话预定的时间早到了1小时左右,但既然已经到了酒店办理入住的时间,应该没什么问题。带着一些紧张,我走到前台告知自己预定了房间,前台服务生二话不说就递上纸笔,让我填好姓名、地址、电话。


  接过钥匙走进房门最后按入反锁键那一刹那,整日的疲劳突然迸发,倒在床上很长一段时间什么都做不了。头象被针锥一样阵阵发疼。


  无论如何,总算到了酒店。明天就去确认那个地方。


  还有18天。



  再确认了一次明天要带的物品。


  我从包里把东西一件件取出来看一遍,又仔细对照了笔记与时刻表上的新干线、电车始到站时间。上新干线时恰好错过高峰期,之后还要转乘电车,不过那是地方线路,应该不会很拥挤。我还把那本介绍酒店的小册子带上了,以防万一酒店方面出些什么差错,譬如取消我的预约之类。不知道酒店有没有上网设备,笔记本就不带了。最后特意检查了钱包,除了来往交通费和2天住宿费,我还从提款机上多取了3万元。其中1万单独放,以防钱包丢失。要穿的衣服已放在床上;闹钟也已调好;一切准备就绪。


  尽管心情非常低落,但这毕竟是去考察自己死的地点,除此之外,别无他法。否则究我本心,是绝不想去任何地方,做任何事情的。一朝死去,万事皆休。无有苦痛,无有悲伤,也再无所谓孤独。明天要做的,是我安静赴死的仪式。


  还有19天。

  背囊里放着上吊用的绳子。


  上吊,可谓是自杀最最切实有效的手段。其实,我第一次把手腕放在剪刀口上时也有过同感。想到自己“这就可以死了”,全身心地轻松。当然,那也已经失败好几次了。


  我觉得这次一定能死成。我都能看见自己成功的画面。


  踩点,就是要使这画面更清晰。


  还有20天。


  用昨天买的绳子做了个绳圈,然后套上脖子试了一下。


  一手拿绳,另一手向上拉,圈儿就做成了。绳索在耳旁嘶嘶摩擦,脖子被实实绞住。那时,气管被勒住开始无法呼吸。如此过了一会,我才动手松开绳子。


  要是来真的,应该就那样勒着直到失去意识吧。虽然可能会有些痛苦,但大概不会有一丝疼痛。或者就算有痛,死掉了也就什么都不知道了。


  我把没解的绳圈直接放进了背囊。


  还有21天。


 「申し訳ございません。拒絶させてもらいます」。耐震強度の偽装事件をめぐる国会の証人喚問で、小嶋進?ヒューザー社長の回答拒否は、30回近くに及んだ。

 テレビの中継を見て、歯がゆい思いをした人も多かっただろう。しかし法律では、正当な理由があれば証言を拒否できると定められている。自己に不利益な供述を強要されないという憲法の規定もある。

 拒否が連発された喚問には、ほとんど意味が無かったかといえば、そうではない。小嶋社長が回答を拒んだのは、こんな項目についてだった。「構造計算書の偽造を、いつ、どこで知ったか」「ヒューザーで急きょ開かれた会議の内容」「販売中のマンションが問題物件だと、いつ認識したのか」

 いずれも、事件の核心部分にあたる。回答を拒むのは認められた権利の行使だが、証人にとっては不利な事態を招く一面もある。肝心なところで明確に否定しないことで、暗に認めたとも取られかねないからだ。世間が、やはり後ろ暗いところがあるのかといった見方に傾くとしても、口を開くよりはいいと考えたのだろうか。「黙して語らず」というが、黙してもなお語るところがあったように思う。

 フランスの政治思想家で法学者だったモンテスキューが述べている。「自由とは法律の許すすべてをなす権利である」(『法の精神』岩波文庫)。

 国会で黙された部分の実相が、「法律の許すすべて」の範囲を踏み外していなかったかどうか。その究明はこれからだが、沈黙は、問題のありかを繰り返し指し示していた。

 六本木ヒルズは、東京の都心の坂の上にある。中心の森タワーは54階建てで、高さが238メートルある。肩をいからせた巨大な甲冑(かっちゅう)のような姿は、遠くからでも目に飛び込んでくる。その38階にあるライブドアを、東京地検が家宅捜索した。

 強制捜査を受けたからといって、必ずしも罪を犯したと決まったわけではない。しかし、世間の注目を集め続けてきた企業に対する今回の捜索の陣容には、検察の意気込みの強さがうかがえる。

 容疑の一つとして「風説の流布」があげられた。相場を変動させたり、売買で利益を得たりする目的で意図的な情報を流すことは、証券取引法で禁じられている。ライブドアの関連会社が、企業の買収に絡んで偽りの事実を公表した疑いがあるという。

 堀江貴文社長は、ヒルズの38階に入居した理由について、東京タワーを見下ろせる唯一の場所だからと自著に書いている。「この絶景を毎日見られることを想像してみてほしい。地上をこの手で握りしめたような気になる。そして、ふつふつと熱いものがこみ上げてくる。『絶対に天下を取るぞ』と」(『プロ野球買います!』あ?うん)。

 インターネットの関連企業の成長はめざましく、ライブドアは、その中心にいた。劇的に膨張してゆく過程で、利益の追求と資金集めに走るあまり、法を無視するようなことがあったのだろうか。

 家宅捜索は、夜を徹して行われた。それは、四方八方からの多くの目にもさらされていた。「天下取りの塔」で、何が起きていたのか。捜査の行方を見守りたい。

 1996年の1月17日に出版された『瓦礫(がれき)の下の小説』(集英社)を開く。その1年前の阪神大震災で亡くなった重松克洋さんが書きためていた小説と詩を編んだ遺稿集である。

 当時20歳で関西学院大2年だった重松さんは、西宮市内のアパート「若葉荘」の1階に住んでいた。地震でアパートが崩れ、その下敷きになる。後日、友人たちが瓦礫の中から泥だらけの原稿用紙約200枚をみつけた。

 「俺達は、神様に踊らされているんだよ……明日のために、一時的な幸せを与えられて、人は生きさせられてるんだよ」「小さな幸せの中にいることが、本当の幸せなんだよ。難しく考えなくてもいい」。小説「時の輪」では「時の輪から抜け出したいんだ」という言葉を残して自殺する友人とのこんなやりとりが描かれる。人の生に、正面から向き合おうとした軌跡のようだ。

 昨年の1月17日、神戸は雨だった。市内の追悼の会を取材した後「若葉荘」に向かった。関西学院大に近い住宅街のその場所は駐車場になっていた。敷地の一角に花が供えられ、手を合わせてしのぶ人たちがいた。

 重松さんは高校時代に「歩く」という詩を書いた。「この道が続く限り/僕は歩き続けるだろう/たとえ道がなくなったとしても……なぜなら歩き続けることが自分の証明であり/歩き続ける限り僕は生きているからだ」

 今年も1月17日が巡って来た。あの日から11年の月日が流れた。しかし、亡くなった人たちは、今も、これからも、それぞれにつながる人々の中で生き続け、歩き続けてゆくだろう。

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