パリの地下鉄の運転室に入ったことがある。もちろん取材の許可は得ていたが、レールの先をにらむ運転士の視野に入らないよう、立つ位置には常に気を使った。

 今月、電車を運転中に3歳の長男を運転室に入れたとして、関東の私鉄、東武鉄道の運転士が懲戒解雇された。この件が報道されると、東武本社には賛否の意見が約2千件も寄せられた。ほとんどが「厳しすぎる」と解雇に批判的だった。

 東武によると、30代の運転士で、埼玉県から千葉県へ向かう普通列車を運転していた。この乗務で勤務が終わる予定だった。途中駅で、運転士の妻が長男と2歳の長女を連れて先頭車両に乗り込んだ。

 父親の姿に興奮したのか、男児が運転室のドアをたたき「パパ」「パパ」と声をあげた。妻はむずかる女児を抱きかかえて手がはなせない。注意しようと運転士がドアを細く開けたすきに男児は運転室に駆け込んだ。連れ出そうとすると、泣いてしゃがみこむ。約4分の子連れ運転となった。

 解雇処分を巡っては、本紙にも賛否の意見が寄せられた。「もしも大事故が起きていたら運転士は一生後悔したはず。解雇されて当然」「3歳児が将来、解雇理由を知ったら深い傷になる」

 安全運行がすべてに優先するのは言うまでもないし、家族を先頭車両に乗せるべきではなかった。それでも、多くの人命を預かる仕事だと再認識させたうえ、再び乗務の機会を与えるかどうか検討するといった選択肢はなかったのだろうか。勤労感謝の日のきのう、電車の運転室のドアの前で思いを巡らせた。

  1.次の表現の中で、正しいのはどれでしょうか。


   ① 社長の座を仕留める。


   ② これでは成功までおぼつかない。


   ③ 上司は、彼の謝罪をにべもなく無視した。


  2.( )に入る言葉は1~3のどれでしょうか。


   * 予定を( )える


   ① 代


   ② 変


   ③ 換


  3.次の表現の中で、正しいのはどれでしょうか。


   ① ご検討してください。


   ② 先生が申されました。


   ③ ご乗車になれます。


  4.( )に入る言葉は1~3のどれでしょうか。


   * 利潤を( )する


   ① 追究


   ② 追求


   ③ 追及


  5.( )に入る言葉は1~3のどれでしょうか。


   * 調査( )項目


   ① 対照


   ② 対象


   ③ 対称


  6.( )に入る言葉は1~3のどれでしょうか。


   * 受け入れ( )が整う


   ① 態勢


   ② 体勢


   ③ 体制


  7.「油断のない顔つき」とは、どんな顔でしょうか。


   ① 何食わぬ顔


   ② ぬからぬ顔


   ③ したり顔


  8.四字熟語で、すべて正しいのは1~3のどれでしょうか。


   ① 合縁奇縁  天涯孤独  油断大適


   ② 内柔外豪  面目躍如  和気藹々


   ③ 奇想天外  罵詈雑言  平身低頭


  9.次の漢字の「ノ」は何画目でしょうか。


   * 「閉」


   ① 10画目


   ② 11画目


   ③ 12画目


 今からふた昔前、東京都内のある大学の教授が、授業の出席率の悪さに業を煮やして、こんな試験問題を出した。問題用紙には教授を含む数人の顔写真が刷られ、「私はどれでしょう」

 翌年、学生の間に出回ったノートのコピーに教授の写真が添えられていたのは、言うまでもない。授業に出ない学生にも言い分があった。毎年、すこしも変わらぬ単調な授業だったのだ。かつては自分の好きなテーマだけを延々と講義して、学生の興味や関心を顧みない大学教員が多かった。

 昨今は、どうも風潮が変わったようだ。某国立大が教員に配っている授業のやり方ハンドブックを見ると、次のように書いてある。ユーモアを交えて学生の興味をかきたてる。1回ごとの講義を読みきりでまとまったものにする。ビデオなどの映像に訴える。

 毎回の授業の概要をプリントして配るのは常識だという。授業内容も、様変わりだ。政治学を例にとると、かつてはルソーの「社会契約論」などの古典を読んだり、欧州議会史などをこまごまと講義したりしていたが、今は郵政民営化などの現在の問題を使ったり、現職の日本の政治家を研究する授業もある。

 ところがおもしろいもので、学生の間ではこんな意見も聞いた。「現代は情報があふれて、どれを読み、何を信じるべきか迷う時代。授業が現代の素材を扱うとその延長のような気がしてしまう。むしろ古典を読みたい」

 いつの時代も、学生の不満の種は尽きないと言うべきか、何事も配合とバランスが難しいというべきなのか。考えさせられる。

 「24時間はみんなに平等に与えられているもの。どうか、なんでも夢を持って一日一日を大切に過ごして欲しい……」。東京国際女子マラソンで見事に復活優勝した高橋尚子選手の優勝インタビューでの言葉に、不思議な説得力が感じられた。

 インタビューの前段では、こう言った。「陸上をやめようかとも思ったこともありました。でも、一度夢をあきらめかけた私が結果を出すことで、今、暗闇にいる人や苦労している人に、『夢を持てば、また必ず光が見えるんだ』ということを伝えたい、私はそのメッセンジャーになるんだと、走りながら自分に言い聞かせていました」

 現実の世界は厳しい。夢を口にすれば、きれいごとに聞こえる。しかし、身をもって力を尽くし、闇の中に光を見た人の口から外に流れ出ると、夢という言葉に現実的な強い力が宿るように思われた。

 大きな、アテネ五輪という目標を失った後に独立し、新しい支援チームと手探りで道をたどってきた。今回の大会の間際には、足に肉離れを起こした。レースで将来に響くような事故があれば、本人もチームも批判されていただろう。

 長い、起伏のある過酷な道を行くマラソンは、レースそのものが人生行路を思わせる。大きな一かたまりで競技場を出た選手たちが、やがて小集団に分かれる。それもばらけて直線になり、ついには一人一人が点と点になって戻ってくる。

 高橋選手は「チームのきずなが私を勝たせてくれました」とも述べた。夢を持てば闇の先に光が差すという、一つの願いが通じた。

 自民党が、結党から50周年を記念する大会を開いて「立党五十年宣言」を発表した。「我々は国民の負託に応え、情理を尽くして幾多の問題を克服し、国家の安全と経済的豊かさを実現すべく、つねに主導的役割を果たしてきた……」

 戦後の復興期から半世紀のほとんどの間、政権を担ってきたという自負がほとばしるような文面だ。記念の「宣言」である以上は、勢いづくのは仕方がないのかも知れない。しかし、「情理を尽くして」のくだり一つをとってみても、世に異論はずいぶんあるだろう。

 「人情と道理」を尽くすことは、かなり難しい。長い歴史の中では、数を頼んで国会に臨んだこともあったはずだ。議席を多く占めれば占めるほど、その危険と誘惑とは増えてゆく。今のような時だからこそ、党の内外で、情理を尽くすよう努めるべきではないのか。

 宮沢元首相が、気になる発言をしていた。「ポスト小泉もこんな言論が封殺された状況では展開のしようがない。もっと自由な議論がなきゃいけないでしょうね」。そんな状況があるとすれば、長く党名に掲げ続けてきた「自由」と「民主」も揺らぐだろう。

 50周年の記念に、自民党本部では、前庭にコブシの木を植えた。「生命力が強く、過酷な状況でも立ち枯れしない。自民党もどんな逆風が吹いてもくじけないように、と選んだ」そうだ。

 コブシという名前は、集合果が握り拳に似ていることに由来している。しかし、実際の政治では、くれぐれも数にまかせて拳を振り下ろすようなことがないように願いたい。

 ロシアでは、今年から、革命記念日が祝日ではないただの日になった。1917年の11月7日(旧暦10月25日)に、レーニンの率いるソビエト政権が樹立された。記念日は、旧ソ連の崩壊後は「和解と合意の日」と名が変わったが、祝日としては生き残っていた。

 革命は一段と遠くなりにけりかと思うと、国民感情はそう単純ではないようだ。今月、インタファクス通信が「最も肯定的な現代史上の人物」にレーニンが選ばれたとする世論調査の結果を伝えた。54%が肯定的に評価した。次いでソ連の初代秘密警察長官が45%、最後のロシア皇帝が40%と続いた。

 プーチン政権下で経済成長が続いても、その主力のエネルギー産業に関係のない人への恩恵は少ない。貧富の差や汚職の深刻さが、革命や遠い時代への郷愁を生んでいるらしい。

 レーニンに関しては、プーチン大統領と親密な間柄の映画監督が、赤の広場の廟(びょう)で公開している遺体を埋葬せよと言い出し、論議を呼んでいる。廟にはスターリンの遺体も一時安置されていた。

 レーニンの別荘のコックで、その死後はスターリンの別荘の料理人になった人がいた。プーチン大統領の祖父だ。「なぜか粛清はまぬがれた。スターリンのまわりにいた人間で被害を受けなかったのはわずかだったが、祖父はその一人だった」(『プーチン、自らを語る』扶桑社)。

 世論調査で、スターリンを否定的に評価した人は45%いたが、肯定的な人も37%いた。遠ざかった「二大国の時代」への郷愁かも知れない。プーチン大統領は20日に来日する。

 古代ローマのアウグストゥス帝の時代に、ウィトルーウィウスという技術者がいた。彼の『建築書』には、魔法のような働きをする建築材料が記されている。

 この「自然のままで驚くべき効果を生ずる一種の粉末」は、ナポリ近郊のベズビオ山の周囲の野に産出する。「これと石灰および割り石との混合物は、他の建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる」(森田慶一訳?東海大学出版会)。

 この粉末は火山灰で、古代のセメントの原料だったという。近現代に至って、鉄とコンクリートを組み合わせた鉄筋建築が世界の都市に広まっていった。無機的で殺風景だが、何より半永久的という丈夫さが売り物だった。

 ところが、建築して間もない首都圏のマンションやホテルで、地震への弱さが問題になっている。千葉県内の建築士が、耐震性にかかわる構造計算書を偽造していた。建築コストを抑えることで、「仕事を増やしたかった」というが、弱い建物に日々身をあずけている住民は、たまったものではない。

 構造計算書などを基にした建築確認申請は、検査会社が検査している。しかし、偽造を認めた建築士は「ノーチェック状態だった」と述べた。建設会社や建築現場の人たちは、使う鉄筋などに疑問を持たなかったのだろうか。「コスト削減が業界の流れ」という建築士の言葉も気になる。

 常に倒壊の恐怖につきまとわれている住民の救済が第一だが、建築確認の仕組みの点検も急ぐ必要がある。地震は待ってはくれないのだから。

 家の薬箱に、タミフルがある。今年初め、家族がインフルエンザにかかった折に処方された残りだ。淡い黄色の小さなカプセルがこれほどまでに世界の注目を浴びるとは思っていなかった。

 スイスのロシュ社が独占供給する薬である。新型インフルエンザが懸念される中、事実上ただ一つ有効な内服薬として各国が備蓄に乗り出し、テレビや新聞が連日取り上げている。

 英紙は、「効能も品質も同じ薬を量産するには3年かかる」というロシュ社の主張を伝えた。台湾では「わずか18日でタミフルの開発に成功」と報じられた。「特許など構わず、独自に作れ」と訴える声は途上国に多い。

 あおりで、中華料理の香辛料でおなじみの八角という実が、産地の中国で高騰している。タミフルの合成に必要なシキミ酸が八角から抽出されると報道され、秋から出荷が急増した。ただし八角をそのまま食べても予防には役立たない。

 前世紀で最悪のインフルエンザは、1918年のスペインかぜだ。世界の人口の半数が感染した。当時の本紙には「感冒猛烈、東京で死亡千三百」「薬の本場ドイツから輸入届かず」などの記事がみえる。実効散、消熱散、守妙といった名の薬の広告も目立つ。在庫不足で値上がりした薬があれば、副作用の訴えから細菌混入がわかって販売を禁止された薬もある。

 以来80余年、医学はめざましく進歩したはずなのに、世界的な大流行への備えはあまり進歩していないようにみえる。たった一社の一つの薬に、人類の命運を背負わせるような方策しかないのだろうか。

 「民主主義の強さを確認するものだ」。京都での記者会見で、ブッシュ米大統領は、先の総選挙での小泉自民党の圧勝について、そう述べた。「日本は改革すべきかどうかを問いかけ勝利した」に続くくだりだ。首相を祝福したいのは分かるが、やはり違和感がある。

 小泉首相が国民に問いかけたのは、「日本は改革すべきかどうか」というよりは「郵政民営化法案に賛成か反対か」だった。国民の関心がそう高くなかった、たった一つの法案への賛否を問う異例の総選挙だった。それを評して、なぜ「日本という国の改革を問うた」となるのだろうか。

 単に「改革が必要かどうか」なら必要と答えるのは当然で、何をどう改革するのかで国民の意見は分かれる。その議論が尽くされてはじめて、民主主義の強さが確認されるのではないか。

 この日、国会の信頼にまでも及びかねない事件が摘発された。酒販店でつくる「全国小売酒販組合中央会」の元事務局長を、警視庁が業務上横領容疑で逮捕した。この会の関連する政治団体では、多額の使途不明金が政界に流れたのではないかとの疑惑が浮上している。

 その政治団体の元幹部が述べたという。「業界生き残りの法律を金で買うという判断だった」。酒の販売の免許制度の見直しを巡る動きというが、そんな金の受け渡しが事実なら、絵に描いたような政治の腐敗ぶりだ。

 ブッシュ大統領はこうも述べた。「日本は自由と民主主義を広める良き友人だ」。米国も日本も、民主主義の強さを常に点検していないと、独善に陥ることになる。

 皇后さまは20日、71歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、宮内記者会の質問に文書で回答された。全文は以下の通り。



 ――戦後60年の節目にあたる今年、両陛下は激戦地サイパンを慰霊訪問されました。今後、戦争の記憶とどのように向き合い、継承していきたいとお考えですか。


ご回答


 陛下は戦後49年の年に硫黄島で、50年に広島、長崎、沖縄、東京で、戦没者の慰霊を行われましたが、その当時から、南太平洋の島々で戦時下に亡くなられた人々のことを、深くお心になさっていらっしゃいました。外地のことであり、なかなか実現に至りませんでしたが、戦後60年の今年、サイパン訪問への道が開かれ、年来の希望をお果たしになりました。



 サイパン陥落は、陛下が初等科5年生の時であり、その翌年に戦争が終りました。私は陛下の1年下で、この頃〈ころ〉の1歳の違いは大きく、陛下がかなり詳しく当時の南方の様子を記憶していらっしゃるのに対し、私はラバウル、パラオ、ペリリュウ等の地名や、南洋庁、制空権、玉砕等、わずかな言葉を覚えているに過ぎません。それでもサイパンが落ちた時の、周囲の大人たちの動揺は今も記憶にあり、恐らく陛下や私の世代が、当時戦争の報道に触れていた者の中で、最年少の層に当たるのではないかと思います。そのようなことから、私にとり戦争の記憶は、真向〈まむ〉かわぬまでも消し去ることの出来ないものであり、戦争をより深く体験した年上の方々が次第に少なくなられるにつれ、続く私どもの世代が、戦争と平和につき、更に考えを深めていかなければいけないとの思いを深くしています。


 戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ、今年8月15日の終戦記念日の式典は、この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も、一年一年年を加え、兄弟姉妹の世代ですら、もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います。


 経験の継承ということについては、戦争のことに限らず、だれもが自分の経験を身近な人に伝え、また、家族や社会にとって大切と思われる記憶についても、これを次世代に譲り渡していくことが大事だと考えています。今年の夏、陛下と清子〈さやこ〉と共に、満蒙開拓の引揚者が戦後那須の原野を開いて作った千振〈ちふり〉開拓地を訪ねた時には、ちょうど那須御用邸に秋篠宮と長女の眞子も来ており、戦中戦後のことに少しでも触れてほしく、同道いたしました。眞子は中学2年生で、まだ少し早いかと思いましたが、これ以前に母方の祖母で、自身、幼時に引揚げを経験した川嶋和代さんから、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を頂いて読んでいたことを知り、誘いました。初期に入植した方たちが、穏やかに遠い日々の経験を語って下さり、眞子がやや緊張して耳を傾けていた様子が、今も目に残っています。


 ――両陛下はご病気を抱えながら公務に励まれ、皇太子妃雅子さまは療養からまもなく丸2年が経ちます。昨年5月には皇太子さまの「人格否定発言」があり、以後皇室についてのさまざまな報道がなされ、両陛下や皇太子さま、秋篠宮さま、紀宮さまはそれぞれ記者会見や文書で考えを示されました。公務のあり方や世代間の考え方の違いといった問題や、現在進められている皇位継承をめぐる議論に国民は注目しています。ご一家のご様子についてとともに、皇后さまは皇室の現状とその将来についてどう感じ、どう願っておられるかをお聞かせください。


ご回答


 陛下は、引き続き月1度ホルモン療法を受けていらっしゃいます。少し副作用があり、以前よりお疲れになりやすく、また、発汗がおありになります。また、この療法を始めるにあたり、担当医から筋肉が次第に弱まる可能性も示唆されており、陛下は御手術前と変わらず、今も早朝の散策に加え、御公務で宮殿にいかれる時もできるだけお歩きになっていらっしゃいます。宮殿で行われる認証式は夜分になることが多いのですが、そのような時も、暗い池端の道を、大抵は徒歩でお帰りになります


 先々週には、東宮が一家して葉山の御用邸に訪ねて来てくれ、うれしく、一緒によい時を過ごしました。雨がちで気の毒でしたが、晴れ間を見て浜にも出、敬宮〈としのみや〉は楽しそうに砂で遊びました。東宮妃が段々と元気になっている様子で、本当にうれしく思います


 現在のもつ皇室の問題については、陛下が昨年のお誕生日の会見で詳しくお話しになっており、新たに私がつけ加えることはありません。できるだけ静かな環境をつくり、東宮妃の回復を見守っていきたいと思います。


 ――紀宮さまの嫁がれる日が近づきました。初めて女のお子様を授かった喜びの日から、今日までの36年の歩みを振り返り、心に浮かぶことや紀宮さまへの思いを、とっておきのエピソードを交えてお聞かせください。そして皇族の立場を離れられる紀宮さまに対して、どのような言葉を贈られますか


ご回答


 清子は昭和44年4月18日の夜分、予定より2週間程早く生まれてまいりました。その日の朝、目に映った窓外の若葉が透き通るように美しく、今日は何か特別によいことがあるのかしら、と不思議な気持ちで見入っていたことを思い出します。


 自然のお好きな陛下のお傍〈そば〉で、2人の兄同様、清子も東宮御所の庭で自然に親しみ、その恵みの中で育ちました。小さな蟻〈あり〉や油虫の動きを飽きることなく眺めていたり、ある朝突然庭に出現した、白いフェアリー リング(妖精の輪と呼ばれるきのこの環状の群生)に喜び、その周りを楽しそうにスキップでまわっていたり、その時々の幼く可愛い姿を懐かしく思います。


 内親王としての生活には、多くの恩恵と共に、相応の困難もあり、清子はその一つ一つに、いつも真面目に対応しておりました。制約をまぬがれぬ生活ではありましたが、自分でこれは可能かもしれないと判断した事には、慎重に、しかしかなり果敢に挑戦し、控え目ながら、闊達〈かったつ〉に自分独自の生き方を築いてきたように思います。穏やかで、辛抱強く、何事も自分の責任において行い、人をそしることの少ない性格でした。


 今ふり返り、清子が内親王としての役割を果たし終えることの出来た陰に、公務を持つ私を補い、その不在の折には親代りとなり、又は若い姉のようにして清子を支えてくれた、大勢の人々の存在があったことを思わずにはいられません。私にとっても、その一人一人が懐かしい御用掛(ごようがかり)や出仕〈しゅっし〉の人々、更に清子の成長を見守り、力を貸して下さった多くの方々に心からお礼を申し上げたいと思います。


 清子の嫁ぐ日が近づくこの頃、子どもたちでにぎやかだった東宮御所の過去の日々が、さまざまに思い起こされます。


 浩宮(東宮)は優しく、よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。年齢の割に若く見える、と浩宮が言ってくれた夜、「本当は年相応だからね」と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません。そして清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした。これは現在も変わらず、陛下は清子のことをお話になる時、「うちのドンマインさんは ???」などとおっしゃることもあります。あののどかな「ドンマーイン」を、これからどれ程懐かしく思うことでしょう。質問にあった「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません。


 *おことわり ( )は原文にあるルビや注釈。〈 〉は本紙によるルビ。原文の漢数字は洋数字に置き換えました

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