少し前だが、「求む『養犬ホーム』」という投稿が東京管内などの本紙に載っていた。実家で、愛犬が病死し、子犬を飼い始めた。ところが、高齢の両親はけがをしたり、目の具合が悪くなったりした。犬の世話をできなくなったらどうしよう。そんな娘さんの心配だった。

 犬好きのお年寄りには身につまされる話だろう。ペットフード工業会によると、全国で飼い犬は1200万匹を超え、老人世帯は4軒に1軒ぐらいが飼っている。

 「老いてから飼う犬という存在は、たんなるペットという以上に……世話をやいてやるべき被保護者であり、そして何よりも安心してひたすら愛することのできる対象なのであった」。そう書いたのは作家の中野孝次さんだ(『犬のいる暮し』文春文庫)。

 中野さんはハラスという柴犬(しばいぬ)との日々を描き、ベストセラーになった。ハラスの死後、犬のいない生活に耐えられず再び飼い始める。昨夏亡くなった時、ハンナとナナという親子の柴犬がいた。

 妻の秀さん(77)に電話すると、「8歳と5歳になり、2匹ともとても元気です」。今でも外で足音がすると中野さんと思って門へ駆けていく。「夫も最期まで気がかりだったでしょう。この子たちに天寿を全うさせるまで私も生きなければと思っています」

 東大教授で獣医学の林良博さんは「犬は老いても、我が身の老いを嘆いたり将来を思い煩ったりせず、現在を満足して生きる」と語る。そんな味のある相棒と共に老いを重ねたい。そう望む人は、この少子高齢の時代に減ることはない気がする。

 折々に小泉首相が「食生活の大切さを子供たちに教えたい」と訴えている。施政方針演説でも2年続けて、「食育」の問題を取り上げた。そう言う首相は、どんなものを食べているのだろうか。

 朝刊の「動静」欄から首相の晩餐(ばんさん)先を拾うと、際だった傾向が浮かび上がる。とにかくイタリア料理が多い。同じ店に中2日の間隔で通うこともある。これに中華が続く。伊?中?和の輪番が基本のようだ。韓国や中東、ロシアの料理は皆無に近い。地域の偏りが目についた。

 首相官邸の担当記者によると、朝と昼は純和風という。朝食はご飯にみそ汁、大根おろし、ちりめんじゃこというのが定番で、お昼はだいたいソバらしい。「ギョーザに目がない」「生野菜は大の苦手」「たくあんやキムチには目もくれない」「カツ丼のカツは全部残す」。そんな目撃証言もある。かなり好き嫌いがあるようだ。

 平安の昔、栄華を誇った藤原道長は、過食か偏食か、長く糖尿病に苦しみ、食事療法に励んだ。ヘルシー志向の家康は麦飯を好み、臣下にも粗食をすすめたそうだ。

 戦後で言えば、食通を誇った吉田茂首相は、お気に入りの料理人を官邸に雇い入れ、美食を楽しんだ。せっかちな田中角栄氏は、カツ丼やラーメンといった手軽な品を好んだという。まさに食は人を表す。

 先月初め、首相は風邪で公務を休んだ。在任4年で病欠は初めてだ。その後も鼻水やくしゃみが止まらない。どうやら花粉症らしい。医食同源ともいう。「食育」普及のためにも、好き嫌いを見直して、どうかご自愛を。

 やはりこの国では、大地震はどこででも起こると考えていた方がいい。昨日の九州北部を中心とする大きな地震で、改めてその思いを強くした。震源の玄界灘では、これまでは地震活動が弱かったという。

 玄界灘を望む能古島では、作家?檀一雄が晩年を過ごした。高台には、絶筆の句〈モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん〉を刻んだ碑があるという。隣の志賀島からは、国宝の「漢委奴国王」の金印が出土している。

 こうした古代や海のロマンに彩られた島々の中で、昨日は、何軒もの家が倒壊したすさまじい被害が映し出された島もあった。震源に近く揺れが大きかったのだろう。救援を集中させたい。

 今回の地震は、阪神大震災以来10年ぶりに百万都市を直撃した。福岡では、記録的な大惨事にこそ至らなかったようだが、現代都市の弱さを見せつけられた。窓ガラスの多くが割れた高層ビルがあった。落ちるガラスは凶器となって地上の人々を襲う。近年、大都市には全面がガラス張りのような新しいビルが増えている。在来型のビルともども、揺れに対する備えを再点検してほしい。

 「死者1万3千人。避難者700万人」。先月、首都直下地震について、政府?中央防災会議が被害想定をまとめた。最悪の場合には、経済損失は国家予算をはるかに超える112兆円にもなるという。

 まずは被災地の復旧が第一だが、今回あらわになった弱点を精査し、全国で対策を進めたい。地震は、忘れていても忘れていなくても、そして、前例があってもなくても襲ってくるのだから。

  我自己先招了吧。《柯南》的最新片尾曲。也许是在写流水账的缘故,也许是柯南的缘故,又也许是新近喜欢上山口胜平的缘故。总之,Garnet Crow 略带沙哑的嗓音响起之时,就被吸引了。“あの日少年の君が大人びてみえて傘に隠れた”,是新一,是藤井树,还是你我?过去的时光,飘散的心情,一如春日香风,暖人心房。


大约是3月最后一篇了吧。时间段再次拉长,这次只能写一个月了。


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  上次写到9月10日了,高中毕业后的第一个教师节。带着第一次离家的全部感伤,我给几乎所有老师寄了教师卡。不分喜好。


  9月12日,当其他大学里的同学在汗流浃背接受军训的时候,我们正式进入了新学期。拿着传说中8元一本的《日语语音》,一位一位地认识大学老师。郭老师,声音尖且亮,爱笑。却不是第一个月里同学们有空认识到的。因为日语假名实在太多了,而郭老师竟然还要求背单词,每天听写。大家都起早贪黑地背啊背啊,我当时觉得那太不人道了。光假名一天10-15个,平片假名合计则是20-30个,很难的。几乎相当于每天20-30个生字啊!由于已有三年日语学习经验,且与舍友同学都没有什么交流的缘故,我只是同情着。并不真正知道其他同学的感觉,也不知道她们到底做到了没有。宿舍里只有两盏惨淡的日光灯,拥挤地放着四铺架床七张桌子,更住进了七个人。每天看着大家埋头苦读,我跟于蓝说:昏暗啊!简直比高三还要惨!就这样,关于外语专业的学习方法,从进校的第一个月起,大家就得到了“真传”:



  记得有一天早上六点,我伸手关掉闹钟,想要趁水房拥挤多睡5分钟(呵呵,5分钟5分钟的赖床习惯至今“光荣”保留)。这时,听见下床通的一声,小云起来了。接着听到的不是她穿鞋下床的声音,而是翻书声。同样是这五分钟,她用来背单词了!!!那一个月我完全没有学习,所记得的也就只有这些了。上面这个作息表,四年当中,我到底履行了多少日子呢?还是不去想算了。


  专业课有精读、会话、听力和概况四门。会话老师是个缺牙的老头,又是一个郭老师,人称“老郭”。据说在日本生长,然后回国的。“老郭”很有趣,总是捂着嘴笑,说这样人家就不知道他缺牙了。“老郭”曾对我们几个外校生说过:你们可以不用来上课,太浪费时间了。或者去补习一下英语吧。可是,不上课是什么概念呢?旷课?不好吧。结果,我用一双困眼看了“老郭”一年。不过,这不怪他,是我实在提不起好奇从头练习。他的会话课讲过什么,完全想不起来了。只记得在我“钓鱼”的时候他很认真地讲过音型。他能读出两个假名的单词在2型和0型时的区别。也教了我们如何分辨。至今仍然非常遗憾困过了那一次课。还记得他让同学自编对话,到讲台上去表演。那次,我的对手是ookyoo吧。路上碰见“老郭”,他会掩嘴笑着说“哇,又漂亮了!大姑娘(niang 二声)了!”据说男生的版本是“哇,英俊了!”未曾求证。不过,相同的是都会收到“什么时候一起去喝茶啦”的邀请。其实,一直都是玩笑而已,却总能让我们高兴。他微驼着背,松弛的皮肤在干瘦的脸颊扯起一道道深刻的皱纹。他嗜烟酒,一高兴就会酩酊大醉,要人送回家去。据说,师母最恨他喝酒,所以,每次被送回家都会有一番不让进门的斗争。


  听力老师姓杨,杨wenze。是个越南归侨。大概是一直在语音室上课的缘故,我总觉得他那个发型天生就是用来带耳机的。看他娴熟地把耳机在头上一跨,额前留出特有的刘海,两个大黑耳套罩在耳上,嗬,都有些像飞行员了。


  最后是概况课,这门课是无休无止的笔记。在六楼大教室上课,根本看不清黑板,更不用说那些注在汉字上的豆丁大的假名了。任课教师:黎。那时候他有没有在讲他的狗呢?这门课我上得很痛苦,因为没学过而必须记笔记。也不知道其他人感觉如何。专业课讲到这里,竟是大一一年的记忆了。可见我真的没认真上。


  新生介绍的班会上,郭老师把学校的通信地址写在了黑板:510421? 广州市黄石东路—— 。买到的学校信封白底绿字。右下角印着“广州外国语学院”,说是毛泽东的字。地址栏写着:广州市大金钟路—— 510421 。大约七八年以后,我才“有幸”听某人提起,那条黄石路实则是我们入校前不久才修起来的。所以此前并无黄石东路的说法。写信与等信的日子开始了。大家都疯狂地写啊。每天最令人期待的也是一二节下课后取信的时间。常去取信的是江总(好像是陈san一开学就给取的外号)和kan一行410人马;阿元;赖等。然后大家都会看着他们,有人会兴奋得跳起来蹦出去接信,而没信的只能在叫完最后一个名字后及时收回期待的眼神。我看见了。


  我也写了很多信。只负责写,没有回音。因为那些地址都是我猜的。凭着记忆里大家拿到的通知书上写的学校和专业,然后缀上94级。另外,那时除了我们几个,其他大学的同学都在外地军训,就算地址对,也没有收信人吧。我常在中午写。好像每次写信都哭,那时候,宿舍里面应该常听见我和婉(邱san)的啜泣声。也许因为这个,她让我心生怜惜,特别喜欢看到她的笑颜。我每次写信,都会戴上耳机,把歌声放得很大很大,然后一心一意地写,一心一意地哭。记得seki、小云、花、雪梅、梓都分别偶尔试图安慰我,好像都被我冷淡地拒绝了。在哭的时候、想的时候,好像回到了从前的日子,和熟悉的朋友们在一起。我多希望抬起泪眼就能看到她们的身影。有一次,也许是我哭得厉害吧,舍友们没有办法,无从劝起,只好从410把陈san找来了。因为是高中同学的缘故,大家理所当然地认为陈san是熟悉我且我熟悉的人。她那时适应得很快,据说在报道的第一天,就帮宿舍的人把床铺好,把宿舍打扫干净。让第一次离家的舍友们感受到了温暖。可是我很坏,真得很坏很坏。我只跟ookyoo和于蓝好,不要理其他人。陈san来劝我,我并没有感激。回答的也是相当冷淡。我不想让舍友们知道,便用日语和陈san讲话。那时我想,我不和她好,不应该影响别人喜欢她。但是如果按“性本恶”来说的话,也许我是下意识在掩盖自己的丑恶。记得那时小云与大家交换了一下眼神,那眼神我想说是面面相觑,又想说是赞叹。但是,无论如何,非要在人家还学着假名的时候讲日语实在是一件比较恶心的事情吧。这样对待对陈san的帮助,应该算是我大学里做的最坏的事情之一。顺便一说,我做过的坏事,基本都是狼心狗肺型的。


  那时大家忙的事,好像还有迎新晚会和新生篮球赛吧。迎新晚会有花的节目,是我们班唯一的节目?可怜刘说破了嘴皮,也只有花给了他一点面子。于是能经常看到92级的美女师姐曾hh来找花询问节目的事。我虽然对晚会没什么兴趣,不过,师姐还真漂亮诶。记得那时总觉得花很拿得住架子,一点也不像新生。真的在跟师姐商讨,而不是听命的样子。当然,花从来也不会听命于任何人就是了:)花的节目是舞蹈,她带了梓和雪梅一起跳。每逢在六楼上概况课前,就会看到她们三个在外面天台练习。演出那天,是93级师兄张ke唱歌,孟庭苇的《九百九十九朵玫瑰》,花、梓、雪梅伴舞。我们好像不太喜欢这个师兄,觉得他演这个节目居心叵测,嘻嘻!


  那天晚上,于蓝也有节目,清唱一曲《時の流れに身を任せ》(邓丽君《我只在乎你》日语版)。于蓝身着长裙,披着一头长发,双手握mic,就那么站着唱完了。效果应该还不错吧。因为三年后,美女师姐供职的电视台要她出节目时,她还特意跑回来向于蓝请教,并录了音说回去学。嗬嗬,我当然也没放过这个看师姐的机会。


  据说那天的晚会上,A班的陈wh也表演了节目。“霹雳舞”。他说彩排时,他才知道学生舞厅那个鬼地方竟然是那样粗糙的水泥地。后来再也不肯跳第二次了。


  新生篮球赛,我没有参加。ookyoo、陈san、花(还有谁?)在这次篮球赛中认识了时任体育部部长和副部长的91级师兄许、钟、以及不知道任什么的丁。从此有了410的一些故事,这就是我记忆以外的事了。而那次篮球赛最大的收获莫过于ookyoo总算能接近91级美女师姐陈lp。“ookyoo猎艳记”从此拉开序幕,容后再述。那天,ookyoo打球不慎扭到了脚,蒙陈亲自按摩疗伤,把她美到天上去了。被我和于蓝狠狠奚落了一遍,犹自回味不尽。(突然想起来,那时陈才是体育部长吧,说的人不可貌相嘛。那许、钟是什么?)后来,当陈san以会梳“排骨辫”为由把师姐请到410,消息马上传遍了4楼的三间宿舍。ookyoo当然巴巴地去了,至于410的人如何惊艳,我未亲见。只记得后来江总总是眨巴眨巴小眼睛说:真好看!


  那一个月,属于新生的节目还有新生电影—-《修女也疯狂》。


  那一个月,我,ookyoo,于蓝,陈san,蔚五个外校生参加了新生心理辅导,向学校要求给我们补习英语。那天接待的是周dl,应该是30多岁的人了吧。相貌并不出众,气质却很好。女强人型。也获得了ookyoo的青睐。


  那一个月,我们第一次没在家过中秋节。郭老师说,每年中秋教到“マ(ma)行”都会有很多人哭。她带了月饼分给大家,一人只有八分之一的一小块,却很感动。但有没有人哭呢?我没有看到。


  那一个月,我天天盼十一,夜夜盼国庆。仿佛到了国庆,这一切都会结束。每一封家书都不忘告诫弟弟要珍惜和爸爸妈妈在一起的日子;要好好学习。真的在当姐姐了。


?

 ある午後、街中の食堂でカレーライスを食べていた。近い席に同じ頃座った外国の青年も、カレーライスを食べていた。青年は割りばしでご飯を少しずつつまみ、カレーに浸してゆっくりと口に運んでいる。皿のそばに、みそ汁もあった。

 「短い人生。みんな同じ。急ぎすぎて失敗するより、ゆっくり生きた方がいい」。108カ国に8万人の会員を持つスローフード協会のイタリア人会長、カルロ?ペトリーニさんが来日し、そう述べたという。

 協会は、89年にパリで、独特の味わいをもつ「スローフード宣言」を採択した。「私たちはスピードに束縛され、誰もが同じウイルスに感染している。私たちの慣習を狂わせ、家庭内にまで入り込み、『ファーストフード』を食することを強いる『ファーストライフ』というウイルスに」

 ペトリーニさんの『スローフード?バイブル』(日本放送出版協会)には、和食こそ日本のスローフードとある。「日本人の皆さんには、個性のない食べ物、日本人らしさを損なう食べ物に屈してほしくない」

 ファストフードの国からは、ライス国務長官が来日し、牛肉の輸入再開を訴えた。それがアメリカの国益の追求ということだろうが、国益には一部の「集団益」になりかねない面もある。「日本の検討のプロセスは信じられないほど遅い」。こんな声もあるというが、日本側はいたずらに急ぐことなく、安全優先の「国民益」で臨んでほしい。

 カレーライスを食べ終えてそそくさと席を立ったが、青年の皿には、まだたっぷりと残っていた。

 日付で記憶される出来事がある。何年か後でも、その日どこにいて何をしていたかという話になる。多くの人が3?20で記憶する地下鉄サリン事件は、明日で発生から10年になる。

 あの朝は、東京郊外の家をいつもより遅れて出た。前日に出張から帰り、荷解きしたものを整理していたからだ。都心の駅で外に出たところでヘリコプターが舞うのを見、新聞社に着いて事件を知った。

 いつも通りか、やや早めに出ていれば、どこかで事件に巻き込まれた可能性はある。テレビ画面に映った横たわる人は、自分だったかもしれない。都心に通う人は、そんな思いを共にしただろう。

 翌春、元教祖の初公判があった。判決の時期について「今世紀中は無理ではないか」と社内の会議で述べた。その遠さに周りが少しどよめいたようだった。その後、教団の本拠地だった山梨県の上九一色村へ行き、サティアンと呼ばれた巨大な建屋の群れを見た。富士山のふもとに、これだけ異様なものが立ち並んでいたのに、なぜ犯行を許してしまったのかと悔やまれた。

 一昨年と昨年、元教祖の裁判を短時間だが傍聴した。黙して、時に口をもぐもぐしたり、あくびをかみころしたりしている。検察の論告も裁判官の言い渡しも傍聴席の痛切な思いも、はぐらかされているようだった。

 オウムは国の中に国を造ろうとたくらんだ。標的は日本という国家だった。市民は、いわばその身代わりにされた。無差別テロの再発防止だけではなく、被害者や遺族への手厚い支えもまた、3?20が問い続ける課題だ。

 ウォーターゲート事件をスクープしたワシントン?ポスト紙のウッドワード氏の著した『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)に、こんなくだりがある。「アルカイダだけでなくイラクも攻めればいい」。9?11同時多発テロの翌日の国家安全保障会議の場で、ラムズフェルド国防長官が述べたという。

 「この発言は、ひとりだけの意見ではなかった……ウォルフォウィッツ国防副長官も、テロリズムに対する戦争の第一ラウンドでイラクを主要攻撃目標にするという方針を唱えていた」。その副長官を、ブッシュ大統領が次の世界銀行総裁に指名するという。

 この政権にタカ派的性格をもたらした新保守主義者(ネオコン)の代表格で、結局は見つからなかったイラクの大量破壊兵器の存在を主張していた。それなのに、イラク戦争での「論功行賞」のように国際機関のトップに据えようというのである。

 貧困問題で、国連のアナン事務総長の特別顧問を務めるサックス?コロンビア大教授は「大変な驚きであり、不適切な指名だ」と述べたと伝えられる。日本は世界銀行への主な資金供与国の一つだが、小泉首相はブッシュ氏との電話会談で指名を支持したという。

 やはり電話で小泉さんがいち早く支持を表明し、その一体ぶりが鮮明になったイラク戦争の開戦から間もなく2年になる。おびただしい人の命が失われたが戦闘はやまない。米軍による「誤射」も続いた。

 「先制攻撃そのものが、とてつもない誤射だった」。ネオコン主導の戦争が、歴史にこう記されない保証はない。

 バロン西といえば、戦前を知る世代には懐かしい名前かもしれない。本名を西竹一(たけいち)という。男爵(バロン)の家に生まれ、昭和の初め、ロサンゼルス五輪で馬術の金メダルに輝く。軍人として、満州から転じた硫黄島で戦死した。

 「五輪の英雄バロン西、出てきなさい。君を失うのは惜しい」。米軍が名指しで投降を呼びかけたが、西氏は抗戦を貫いた。そんな逸話が残る。後の創作とみる説もある。戦死公報によると、西氏が亡くなったのは60年前のきょう3月17日だった。

 ひ孫にあたる丹羽満彦君(17)は先週末、初めて硫黄島に渡った。黒いネクタイにカメラを2台携え、遺族ら約110人と島を巡った。日米で2万7千人もの将兵が散った島は、歩いてみると驚くほど小さかった。曽祖父(そうそふ)を描いた本は何冊も読んだが、「暗く深い塹壕(ざんごう)や血のしみこんだ浜を歩いて初めて生身の姿 を実感できた」と話す。

 満彦君が登った摺鉢(すりばち)山では60年前、日米の若者が死闘を展開した。山頂にはためく星条旗をとらえた写真は米国では今も名高い。士気を高める効果があるのだろう。同時多発テロ級の大難があると、遺族の集会や篤志を募るビラにあの写真がきまって登場する。

 「硫黄島に寄せる日米の思いは対照的です」と言うのは西氏の長男、西泰徳さん(77)。満彦君の祖父である。「私たちには死を悼む島でも、米国民には勝ち得た栄光を祝う島のようです」

 満彦君はこの秋、米国の大学に進む。平和な時代であれば曽祖父が晩年まで楽しんだはずの馬術を、自分も米国で始めたいと考えている。

 天動説で知られるプトレマイオスは、2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍した。地理学者でもあり、本人の作かどうかは不明だが、「プトレマイオスの世界図」が残されている。そこでは、はるか東方のマレー半島はクリューセー(黄金半島)と記されている(『ジパング伝説』中公新書)。

 マレー半島に沿うマラッカ海峡で、日本人などが乗るタグボート「韋駄天(いだてん)」が海賊に襲われた。浅くて狭い海峡は、以前から海賊の被害が多発している。暮れの大地震と大津波の後は、なりを潜めていたというが、犯行を再開したのだろうか。

 海峡に面した町?マラッカの丘には、日本で布教したフランシスコ?ザビエルの遺骸(いがい)が、一時安置されていたという。大佛次郎は、この丘からの町と海峡の眺めを、終戦直後に「帰郷」で書いた。

 日本人の画家に、土地の歴史を語らせ ている。「王朝があって、そこへポルトガル人が攻め込んで来て城を作ったのを、和蘭陀(オランダ)人が来て占領し、その後で英国が手を入れたんですね。それから今度は、日本人が来て……この後は、また、どこの国が来るんでしょうかね。黒子(ほくろ)のように小さい土地だけれど」

 インドネシアとマレーシア?シンガポールを隔てるこの海の要衝は、列強の侵略が交錯する場だった。その奪い合いも終わって久しいのに、昔ながらに海賊が横行している。津波の対策と同様に、東南アジア全体の目と手で、安全の道を探ってはどうか。

 「黄金半島」の周りを、海賊たちの「黄金の海」にしておく時代ではないだろう。

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