「エダマメの次はオクラですね」とオクラブームを予言する。米テレビドラマに出てくるニューヨークのレストランでの会話である。オクラ料理をつくったシェフが「おいしいでしょう」と自慢する場面だ。

 欧米での枝豆人気はかなりのものだ。豆腐と同じように、健康志向にあった手軽なスナックとして普及してきた。オクラの方はどうか。まだ珍しい食材の域を出ないだろう。はたして枝豆に取って代わる日が来るものか。

 日本料理といえばすき焼き、天ぷらの時代があり、やがて豆腐やしょうゆのように素材への関心が高まった。そしてすしは予想をはるかに超えて広がった。スシ?バーが急増する英国では日本食の市場は90年代末から5年で2倍になったという。

 そんな流れの中で昨年、日本料理の英語本がロンドンで出版された。栗原はるみさんの『はるみのジャパニーズ?クッキング』である。グルマン世界料理本大賞のベスト料理本にも選ばれ、先日スウェーデンで授賞式があった。

 海外メディアもいろいろ取り上げた。「仏教で肉食が禁じられてきた日本だが、はるみは楽しく肉を使う」といった紋切り型の誤解はあるものの「深い伝統に根ざしながら、軽やかに現代風である」と賛辞も少なくない。もちろん「日本のカリスマ主婦」ふうの紹介もあった。

 かつお節がなければ日本料理は成立しない、といった力みがない。どこでも代用品は見つかるという考え方だ。日本料理の「神秘性?カリスマ性」をはぎとった「カリスマ主婦」という評が適切かもしれない。

 60年前の今ごろ、岡本喜八郎さんは21歳だった。4月、愛知?豊橋の陸軍予備士官学校でB29に爆撃される。地獄絵のような惨状の中で、仲間の青年たちが死ぬ。やがて米軍の上陸に水際で備える遊撃隊要員となり、対戦車肉迫攻撃の訓練に明け暮れた。

 終戦の日、放送を聞く。「唖然(あぜん)。ある日突然、戦争が始まり、ある日突然、戦争が終る。茫然(ぼうぜん)。……一体、何があって、戦争が終わったんだ」。後年、青年は映画監督?岡本喜八として、この一日を描いた「日本のいちばん長い日」を撮る。

 昨日、惜しくも亡くなった岡本さんの作品の幅は相当広かった。面白くて躍動的だが、その底には、体験に裏打ちされた戦争と国家への厳しい視線があった。政府や軍の動きを追った「いちばん長い日」にあきたらず、「肉弾」では、魚雷をくくりつけたドラム缶で敵艦を狙う青年に自分を重ねて描いた。

 「なかなか寝つけない晩に、きまって戦争の夢をみるんです」と語ったのは10年ほど前だ。自分が銃や手榴弾(しゅりゅうだん)を手に人を殺そうとしている。はっとして目覚める。ぶるぶるっと震え「ああ、殺さなくてよかった」と思う。

 還暦の時に書いた自伝は『鈍行列車キハ60』(佼成出版社)。「キハは……型式記号である。このキハのハは、ハチと読めない事もない」。特急や急行ではなく、鈍行という思いを、鶴見俊輔さんは「あの戦争でなくなった三百万人と一緒に動いている故に早くは走れないのだ」と評した。

 戦後が「還暦」を迎えた年に、岡本さんは「キハ81」となって旅立っていった。

 書店で赤ちゃんの名前事典をめくると、外国風の名前を特集した章がある。男の子なら「吐夢(トム)」、女の子では「花連(カレン)」などが挙がる。好ましく感じる親もいれば、感心しない人もいるだろう。


 愛知県の知多半島にある美浜町と南知多町ではいま、命名話に花が咲く。人の名ではない。合併後の市名を「南セントレア市」にするかどうか。両町は先月これを新市名として発表し、内外から猛反発を浴びた。ひとまず引っこめて、結論は今月末の住民アンケートに持ちこされた。

 セントレアという新奇な言葉に接して、まず浮かんだのは南太平洋ニューカレドニアの島々、でなければ花のカトレアの変種かと思った。セントラルとエアポートを足した造語で、知多沖にできた新空港の愛称だという。まだ全国には浸透していない。

 地元ではセントレアはなお有力候補である。南知多、美南(みなん)など漢字の11案と人気を競う。斎藤宏一?美浜町長はあくまでセントレアを推す。「豊田はトヨタになり、松下はパナソニックになって飛躍した。斬新な名前で世界にPRしなければ、これからは市町村も経営できない」

 カタカナ市名の先駆けは山梨県の南アルプス市だが、ここではさほどの反発は起きなかった。合併した6町村に、もともと同じアルプス山麓(さんろく)の自治体という意識があり、提案された市名がとっぴな印象を与えなかったらしい。

 明治安田生命の調査によると、去年生まれた赤ちゃんで最も多かった名は、男が「蓮(れん)」、女は「さくら」と「美咲(みさき)」である。上位にカタカナの名前は見あたらない。

 税務署の前を通ると、確定申告を促す看板が立っていた。そばのボードにはこうある。「この社会あなたの税がいきている」

 常にそうならいいが、税金のでたらめな使われ方が問題になることが絶えない。税金が絡むかどうかは分からないが、自民党内部の金の使い方に疑問を投げかけるような証言が、東京地裁であった。

 旧橋本派の元会計責任者が、盆暮れの時期に党から計1億2千万円を受け取っていたと述べた。そしてこの金について、党の事務局長が「収支報告書に記載しなくていい」と言ったとした。事実なのだろうか。

 自民党などには、元はといえば国民の税金である政党交付金が毎年渡っている。一番多いのが自民党で、ざっと150億円にもなる。金には色がついていないから、交付金の一部が派閥に渡り、記載されずに使われたとは、もちろん言えない。しかし、党の運用する「公金」の使い方に疑いがあってはなるまい。

 昨年の場合、自民党の助成申請の代表者は、当然ながら小泉総裁だった。会計責任者は幹事長で、その職務代行者が「記載しなくていい」と言ったとされた党事務局長だ。総裁には、この交付金が、常に厳正に使われてきたのかどうかを改めて調べて、納税者に説明する務めがあるのではないか。

 法廷では、旧橋本派のパーティー券の売り上げ1億数千万円を裏金にした、という証言もあった。この党が、巨額の税金をつぎ込むに足るのかどうか。それを判断するためにも、党総裁、元首相らは、国民に向かって「確定申告」をしてほしい。

 「戦争に負けたから堕(お)ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」。終戦直後に、旧来の道徳観を否定して注目を浴びた坂口安吾の「堕落論」の一節である。

 安吾は、50年前の2月17日に、脳出血のため、群馬県桐生市の自宅で急死した。48歳で、妻と幼い長男が残された。

 死の2日前まで、高知県に居た。『中央公論』の「安吾新日本風土記」取材のためで、15日の夜遅くに帰宅した。同行した編集部員が、後に「書かれなかつた安吾風土記」を書いた。「短気とうつり気があまりにも有名だつた」作家との旅を懸念したが「故人に対して誠に申しわけない危惧(きぐ)」だったという。

 しかし最後の晩には、訳のわからないことで怒鳴られる。帰途、その理由を聞くと「いや悪かつた。絶対に気にしないでくれ……高知が自分によくつかめなくてあせつていたんだ……俺には悪いくせがあつて、そういう場合、その場で一番親しい人に当つてしまう……許してくれ」。「一番親しい人」だった妻から同誌への寄稿文には、子煩悩で、しばしば荒れる無頼派作家の姿がある。

 高知から帰京した日、桐生への列車を待つ間、浅草のお好み焼き屋に行っている。ここでは、鉄板に手をついたことがあった。「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり 安吾」。その時の音が聞こえてきそうな色紙が残る。

 安吾は、「あちらこちら命がけ」とも書いている。もし今現れて、戦後60年を迎えた日本に「命がけ」で手をついたとしたら、どんな音がするだろうか。

  日前,与某人谈起大学旧事,争执甚多。原来记忆正一点点地褪去。于是,立意先将流水账记于此,留待日后慢慢整理。也请阿元等旧友一同帮我填补时间。


  1994年


  9月2日报到。


  是爸爸的同学请警卫员开吉普车送我到校的。那是我第一次坐小车,也是唯一一次坐吉普。报到在大礼堂。很破落的一个地方,感觉上大部分窗玻璃都是破的。礼堂尽头,好像是个舞台,上面还飘着褪色的、落满灰尘的、看起来破破烂烂的幕布。现在想起来,小天狼星倒向的帷幔大抵就是那个样子了吧。后来知道有一个很贴切响亮的名字:风雨礼堂。我的理解是:风雨飘摇的礼堂。报到要排很多队,交很多钱。妈妈在一边等我。后来听小龙说,他报到的时候郑铁排在她后面,于是就认识了。我当时却没有和任何一个人交谈。完成了各项手续,郭老师高兴地跟我说:你是我们B班的。欢迎你!我很忐忑。


  接下来,一个师姐带我去宿舍。后来我知道她姓杨,92级,是系学习部长。只是我还没有适应大学里的称呼方式,那天之后很长时间,我都只敢并坚持叫她“姐姐”。现在想起来,直到她毕业,我都没有胆量正面跟她说话,也就没有了叫她“师姐”的机会。我的宿舍在4楼,411。进屋的时候,只见石灰水惨淡地涂抹在灰灰黄黄的墙壁上,天花清晰可辨每一块砖头。房里有两根日光灯管垂吊下来,四张架子床,七张桌子,七把椅子。师姐告诉我,尽头那张靠窗的桌子最好,可以安静看书。最好的床位也是靠窗的两个上床。不过很可惜,已经都被人占了。其实我没听进去,只是吃惊的看着这个床板林立的房间。真的,床板们几乎都不在床上。那之前,我一直以为自己已经有一年的住校经验,一定能很快适应。却在搬第一块床板的时候,我知道自己估计错了。


  师姐看我选了床位就下去接其他的新生了。吴叔叔让妈妈不用担心,说我一定能弄好的,他已经送了两个儿子上大学了。于是,妈妈给我留下500块钱生活费,回去了。后来妈妈写信来,说那天很不忍心走,但是怕耽误吴叔叔的事情,只好走了。再以后,妈妈跟外婆提起我的宿舍,会说:又破又脏,还不如当年她读卫校的宿舍。又说,我报名的礼堂,就像爸爸住的宿舍,又大又黑。我不清楚他们的宿舍怎样。在室友们都住进来以后,我已经适应了这里就是我的宿舍。却也一直很诧异:爸爸的宿舍那么那么大吗?那得住几百人啊。


  妈妈走了以后,我把自己的床板放好,把行李放到床上。就出去了。我不想收拾。妈妈再三交代要放好的500块钱,装进信封,锁入了抽屉。然后,拿着妈妈给我买日用品的5张10元想去买东西。那是中午,我好像没碰到什么人。走到楼下,路上只匆匆走过两三个看起来很大的男生。我不知道该往那边走。犹豫了很长一段时间,决定向右,顺着来的路走,看看有没有电话。我已经开始想家了。走了大约100米吧。也就是走到“生活服务部”门前的公告栏那里,我再也走不下去了。我觉得自己走了好几个小时,看看表,却不到5分钟。我低喊:这怎么可能?我向前看,看不到将有电话的迹象。于是决定回头,向另一个方向去找。走在路上的时候,很胆怯,觉得路过的人都知道我是新来的。我不要让他们知道我不认识路。这样想着,又过了好长时间。过了一个小桥,穿过两排大树,来到一个锈迹斑斑的铁门面前。我觉得自己已经走了足够远了。铁门里面有一片空地,空地左边是一片平房,右边是三栋四层小楼。我猜不着那些平房是什么,也不敢妄猜这三栋小楼是不是宿舍。这里仍然空无一人。我没敢跨入铁门,又回头了。


  回到宿舍,看到ookyoo来了。她也正在无所适从。后来,不知为什么,她陪我去吃东西了。ookyoo是我的高中同学,其实之前我和她不熟。却在那一天产生了相互依赖的感情。是ookyoo带我到小黑店,还是我带ookyoo到小黑店,真的记不清了。小黑店正名叫“冰室”,我们都觉得这个名字有些可笑。已经很久没见过这个称呼了。


  然而,真正有趣的是,几个月以后,ookyoo在这一天的表现成了大家她被取笑的话柄。因为她一个人走进宿舍。房门开着,里面很暗,看不见人。床上都拉着床帘。她手里拿着行李,却看不见一张空着的床、一张空着的桌子。桌子上都立着高高的书架,让小小的房间显得更拥挤。突然,传来一声莫名其妙的女声,她听不懂说什么,也不知道声音从哪里发出。又传来了第二声。貌似强悍的ookyoo正式被吓到了。据她说,好像是放下行李,就跟我出来了。其实,她是住进了一间已经住了六个二年级学生的宿舍。其中,有五个女生是学越南语的。那个学期,她们刚开始学发音。那个让人汗毛倒竖的女声就是宿舍里最漂亮的一个女孩在读字母。呵呵,可怜的ookyoo,第一天就落了把柄。


  记忆中,我要了一碗康师傅红烧牛肉面(高中常蹭乐乐的吃,就记住了),ookyoo要了一瓶酸奶。ookyoo看着我吃,我却吃不下。那间小店很黑,我们坐在不靠窗的一边,谁也说不出话来。我清晰地记得,那是下午两点半。我俩想:这一天怎么还不过去?


  回到宿舍,室友们已经到了。有人在搞卫生。我不知道该做些什么,讪讪的。一个穿着时髦,踩着米色松糕凉鞋的女孩一边擦门一边对我说:你也买了这样的口杯啊?看,我的也一样,我的衣架也是紫色的。我们都喜欢紫色。我叫花。我好像没回答什么实质性的内容,我不知怎样和不认识的人说话。只是告诉了她我的名字。那以前,我没见过穿高跟鞋的高中生,尤其是松糕凉鞋。所以,那一刻,我有些敬畏。很快就从她面前溜了。


  再后来,好像于蓝一家浩浩荡荡地来了。她的宿舍是一间只住两个人的小屋,在走廊的尽头。孤零零的,却让我觉得很安静。于蓝也是我的高中同学,是ookyoo的好朋友。她一家大张旗鼓的洗地铺床,我和ookyoo过去,跟她爸妈问了好。我记得自己像看见亲人似的,很想帮忙、搭话。却始终插不上手。


  关于开学第一天的事情,我只记得这么多了。那天,宿舍好像有一个人始终没有露面。我也记不得是怎么跟其他人认识的。晚饭怎么吃的、夜里怎么睡的我都记不得了。


  那天晚上,我睡了吗?

 空を飛ぶ車を想像する。行き先を言うと、自動的に連れて行ってくれる。誰もが子どものころに考えそうな夢だ。いかにも子どもらしい夢、と一言ですますこともできるかもしれない。

 小学校の卒業文集に収められた「夢」と題する作文である。読み進みながら奇妙な違和感をおぼえたのは、陰惨な事件の後だからだろうか。「夢」を書き残して卒業した母校の小学校へ行って教職員を殺傷、逮捕された少年の中で夢はどうしぼんでいったのか。

 作文では、未来と現在とが混じりあっている。空飛ぶ車、お手伝いロボット、スーパー高性能チップ——。これから「できるかもしれない」ものと、既に「あるかもしれない」ものとが同列に「夢」として描かれる。かなわぬものが「夢」なのだという感覚がうかがえない。科学の発達ですべてが便利で手軽になる、なりつつあることへの楽観も読み取れる。

 夢と現実とが地続きであると思っていたのが、あるとき深い溝があることに気づいた。事件に直接はつながらないにしても、そんな苦い経験があったのではないか。この少年に限らず若い世代が共有する「夢と現実」ではないか。

 谷川俊太郎さんに「くり返す」という詩がある。「後悔をくり返すことができる/だがくり返すことはできない/人の命をくり返すことはできない/けれどくり返さねばならない/人の命は大事だとくり返さねばならない/命はくり返せないとくり返さねばならない」

 谷川さんの呼びかけを心に、悪夢をくり返さないための手だてを考えていかねばなるまい。

 美しい古都と廃虚と。ドレスデンという地名は、いつも二つの映像が重なり合って複雑な感慨をもたらす。「エルベのフィレンツェ」と美しさをたたえられたドイツの古都が連合国軍の空爆で一夜にして瓦礫(がれき)の街になったのは、60年前の2月13日だった。

 爆撃直後のドレスデンを列車で通過した17歳の青年が、後に語っている。「若くて事態をよくわかってはいなかった。しかし焼けこげた遺体が積み上げられている光景に衝撃を受けた」「以前のドレスデンを知っていたから、変わりようはよくわかった」

 後のノーベル賞作家ギュンター?グラス氏である。しかし彼を真に震撼(しんかん)させたのは、戦後初めて見た強制収容所の写真であり、ナチスのユダヤ人迫害だった。反ナチスを貫く戦後の彼の歩みを決める経験だった。

 「ドイツ人の罪」を考え、語り、書きつづけたグラス氏だが、同時にドイツ人の犠牲者にも言及する必要がある、と考えてもいる。英美術誌のインタビューでこう語る。「私たちドイツ人が始めた。まず、英国の都市を爆撃した。しかし、ドレスデンへの爆撃もまた罪だ」

 ドレスデンでは13日、「追悼と和解」の式典が催された。一方、「ドレスデン空爆は爆弾によるホロコーストだ」と主張する国家民主党などネオナチと称される極右グループは街頭デモをした。戦後最大規模といわれる。

 ナチスドイツの罪を重く背負いながら「ドレスデン」を問うグラス氏と、ナチスを擁護しつつ「ドレスデン」を非難する勢力との距離があまりに遠いことはいうまでもない。

 「とても偉大な人物とはいえない。あまりお金もうけもできなかったし、名前が新聞に出たこともない」平凡なセールスマンの物語が、半世紀以上にわたって世界の多くの人々を魅了してきた。

 1949年初演の「セールスマンの死」で知られる米国の劇作家アーサー?ミラーが89歳で亡くなった。劇の主人公と違って決して平凡とはいえない波乱の生涯だった。新聞をにぎわしたこともたびたびだった。

 まず、女優のマリリン?モンローとの結婚と離婚がある。「鳥小屋の中の見知らぬ鳥」のような彼女に魅せられ一緒になった。しかし、5年ほどで破綻(はたん)した。彼女を「神経症」と薬物依存から救い出すことができなかった、と後に明かす。

 一生つきまとったのは「アメリカとの闘い」だったといえよう。とりわけ50年代の「赤狩り」、マッカーシズムの時代には渦中に巻き込まれた。非米委員会に呼び出され、知っているコミュニスト作家の名前を挙げるように強要された。拒否し、罰金刑を受けた。

 「セールスマンの死」では、息子の将来に夢を託しつつ自分もささやかな成功者になろうと身を削った男が夢破れ、死を選ぶ。「アメリカの夢」が「アメリカの悲劇」に転じる物語だ。米国社会への苦い批評が込められる。9?11テロ後、米国に広がった息苦しい体制にも「市民の権利が脅かされる」と批評を怠らなかった。

 平凡な人間の夢と挫折を描いて演劇史を画する名作を残した非凡な作家だった。ニューヨークの劇場街は11日夜、入り口の明かりを暗くして死を悼んだ。

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