黒人で初めてアカデミー主演女優賞を獲得した。ハル?ベリーにその名誉は一生ついてまわるだろう。3年前の贈呈式での受賞の弁はとまらなくなり、終了を促されたほどだった。「待って! 74年分の時間がほしいんです」。黒人受賞者が出なかった長い過去に言及したのが印象深かった。
今年は彼女を思いがけない賞が待っていた。失敗作「キャット?ウーマン」の主演が「評価」され、ゴールデン?ラズベリー賞の最悪女優賞に選ばれた。パロディー版アカデミー賞である。
先週末、贈呈式に現れた彼女は「ここに来たいと熱望したことは決してないが、とにかくありがとう」とあいさつし、あえて式に出席した理由を語った。「子どもの頃、母に言われた。良き敗者になることができなければ、良き勝者になることもできない、と」
最悪男優賞、最悪助演男優賞、最悪共演賞にはマイケル?ムーア監督「華氏911」に出演した米政権中枢の面々、ブッシュ、ラムズフェルド、ライス各氏が選ばれた。現職大統領としては初めてという「栄誉」だったが、贈呈式に彼らの姿を見ることはできなかった。
最悪女優賞をめぐるベリーの言葉はなかなか味わい深い。「アカデミー賞をもらう前に転んでも誰も気にしない。起きあがってほこりを払い、またゲームに戻ればいい。受賞後だと災難。頂点からどん底への落下だから」
華やかな本番のアカデミー賞にはない苦みがにじみ出る。ベリーはこう言って会場を後にしたそうだ。「あなたたちに二度と会わずにすみますように」
周三 2 3月 2005
3月1日
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周三 2 3月 2005
2月28日
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そのむかし元号は頻繁に変更された。皇位が代わった時だけではない。天災や兵乱の年、吉祥の動物が献上された年にも改元されている。大化から平成まで平均で5年、短いと2カ月で変わった。
一番長いのは昭和だが、最初の昭和元年はごく短かった。暮れの25日に大正天皇が亡くなって昭和の世となり、1週間後にはもう昭和2年が始まる。元年の短さが最近、裁判で争点になった。
怪しい一味が東京都板橋区内の女性宅に忍び込んだ。通帳と印鑑を盗み、女性が1926年の6月1日生まれであることも割り出した。暦の換算表でも見たのか、一味は偽造した保険証に「昭和1年6月1日」生まれと書き込む。実在しない日付である。銀行に現れたのはそれらしい年格好の女性。窓口で保険証を見せ、定期預金600万円を引き出して逃げた。
被害女性は裁判を起こしたが、銀行は非を認めない。法廷では「昭和改元の詔書」も持ち出された。先週言い渡された地裁判決で、軍配は女性の側にあがった。「昭和1年がほとんどないことは社会常識のはず。行員は怪しい生年月日に気づくべきだった」と。
作家の佐野洋氏に『元号裁判』という小説がある(文春文庫)。大正15年12月24日に生まれた主人公が、あと1日遅ければ「昭和の子」になれたのに、とつぶやく場面がある。実際に時代の境目に生を受けた人たちにも、格別の思いがあるのだろう。
今年は昭和なら80年である。大正だと94年、明治では138年にあたる。「なりすまし犯」ならずとも西暦との換算には悩まされる。
周三 2 3月 2005
2月27日
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最近の言葉から。「ジャンケンから、日本社会が見えてきます」とウィーン大日本学科のセップ?リンハルト教授。ジャンケンの「三すくみの思想」に着目、「相互依存的で、絶対的な勝者や敗者をつくらない。平等思想の表れとも考えられます」。大阪府の山片蟠桃(やまがたばんとう)賞を受けた。
作家で僧侶の玄侑宗(げんゆうそう)久(きゅう)さんはよく逆立ちをする。「元気になるには言語機能を休ませないとだめです。生命体の本質は変化。固定化、つまり言語化できない状態にしなければ……(逆立ちで)あれこれ考えると倒れますから」
英国放送協会(BBC)に管理強化などの改革の波が寄せている。グレイド経営委員長は「BBCがBBCと認められるために譲れぬ一線がある。BBCの核心は公共の利益であり、政治的、商業的影響から完全に独立しているべきだという一線だ」
86年刊の『ミカドの肖像』で、西武グループが旧皇族の土地を次々に買収する様を描いた作家?猪瀬直樹さん。「鬼の亡霊に衝(つ)き動かされた歪(ゆが)んだビジネスはいずれ破綻(はたん)が待っている、その思いが筆を走らせた」
長野でスペシャルオリンピックス開幕。他人との意思疎通が苦手な選手たちの心のケアを5頭の犬が担う。「吃音(きつおん)に苦しんだ子供のころ、飼い犬に救われました。犬は人間を差別しません」と国際セラピードッグ協会代表の大木トオルさん。
寝台特急「あさかぜ」と「さくら」が終着へ。ブルートレイン乗車歴20年のJR西日本車掌?尾田勝志さん。「よくがんばった、お疲れさんって言って、さすってあげたいね」
周六 26 2月 2005
2月26日
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公園の一角に、梅の木が十数本植えられている。品種が様々なのか、開花の時期がまちまちだ。桜の方は、町中で見るかぎりは時をおかずに咲きそろう。それが本格的な春の到来と重なって華やかさを生み、同時に、その終わりを惜しむ思いを誘うのだが。
もう十日近く前に花が開いた白梅の隣の1本は、まだつぼみが堅い。一方で、白と紅の2本が重なり合うように咲いている。少し離れてながめると、紅白の無数のあられをパッと宙に散らしたようだ。
黒っぽいよじれた幹から下方に伸びている枝の先の花に近づく。いつもなら、そこまでは見ることのない花の中をのぞき込みながら「梅の雄蘂(おしべ)」という短編を思い起こす。
「彼等は一本一本が白金の弓のやうに身を反つてゐた。小さい花粉の頭を雌蘂に向つて振り上げてゐた……彼は花をかざして青空を見た。雄蘂の弓が新月のやうに青空へ矢を放つた」(『川端康成全集』新潮社)。
青い空の方を見上げると、高い小枝の先に鳥が1羽とまっていた。体はスズメぐらいで、花の中に小さなくちばしをしきりに突っ込んでいる。中では、身を弓のように反らした雄蘂が小刻みに震えているのだろう。鳥の体の一部は緑がかっているが、ウグイスではないようだ。
改めて十数本の梅をながめやる。咲いているもの、つぼみのままのものが、寒さの残る中で、静かに、それぞれの時を刻んでいる。落ち着いた雰囲気が漂う。それは、咲きそろわずに、ゆったりとした継走のようにして花を付けてゆく姿から醸し出されているようだった。
周六 26 2月 2005
2月25日
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本名は、赤羽丑之助である。とはいっても、小説の主人公なのである。獅子文六は、東京?兜町を舞台に、「ギューちゃん」こと丑之助が活躍する『大番』を書いた。加東大介の主演で映画にもなった。
株や相場での金言が出てくる。「もうは、まだなり。まだは、もうなり」。売り時、買い時の難しさのことだろう。こんなのもある。「人の行く裏に道あり花の山」
生き馬の目を抜くとも言われてきた株の世界で、ニッポン放送株を巡って激しい攻防が続いている。時間外取引という策で株を手にしたライブドアに対し、ニッポン放送?フジテレビ側は、株を倍増させてライブドアを振り切ろうとする策に出た。新しい大量の株で相手の株を一気に薄める作戦のようだ。
昨日の市場では、3社の株は共に下がった。「生き物」とも「化け物」ともいわれるこの世界だ。今後の展開は分からないが、メディアの行方にかかわることでもあり、気にかかる。
米国の伝説的な相場師で、1929年の金融大恐慌を予言したともいうギャンは、取引に際して、旧約聖書の「伝道の書」の一節を念頭に置いていた。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(『W?D?ギャン著作集』日本経済新聞社)。
インターネット対ラジオ?テレビという構図のせいか、今回の攻防は、これまでになかったもののように見える。しかし「花の山」を巡る争いと見るならば、何ひとつ新しいものはないのかも知れない。
周六 26 2月 2005
2月24日
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子育てに悩みのない親は、まずいないだろう。古今東西、この難問に絡んだ寓話(ぐうわ)や警句は多い。
子は「親の鏡」、あるいは「親の背を見て育つ」ともいう。イソップには、真っすぐに歩くお手本を見せようとして、横歩きしてしまう親ガニの話がある。ゴーゴリは「自分のつらが曲がっているのに、鏡を責めてなんになる」と書いた。「子どもは眠っているときが一番美しい」と、キルケゴールは記している。
皇太子さまの会見で引用されていたスウェーデンの教科書の中の詩「子ども」は、皮肉な警句のたぐいとは全く違ったものだった。子どもとの真摯(しんし)な向き合い方を、詩的な響きに乗せて、直截(ちょくせつ)に述べている。
「笑いものにされた子どもは ものを言わずにいることをおぼえる/皮肉にさらされた子どもは 鈍い良心のもちぬしとなる/しかし、激励をうけた子どもは 自信をおぼえる……友情を知る子どもは 親切をおぼえる/安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる」。皇太子家もまた、一組の親子として、子育てに真摯に向き合いたいとの思いが込められていると推測した。
先日、女性天皇を認めるかどうかなどを検討する「皇室典範に関する有識者会議」が発足した。議論の必要はあるのだろう。将来の国の姿にもかかわるのだから慎重に考えを巡らせてもらいたいと思う。そして同時に、あのいたいけな幼子の姿が思い浮かんでくる。結論によっては、その人の将来が左右されうるという厳しさに粛然とする。
この議論は重いが、ひとりの人生もまた、限りなく重い。
周六 26 2月 2005
2月23日
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おなじみのチョコレート菓子キットカットは1935年、英ヨークシャーの生まれである。第二次大戦中、チャーチル政権が「廉価で体によい」「ひとかじりで2時間行軍できる」と推奨し、国民的なおやつになった。
サッチャー政権下の80年代、その発売元をスイス企業ネスレが力ずくで買収する。「英国の味を守れ」と反対するデモが起き、チョコ戦争と呼ばれた。肥満対策を掲げるブレア政権は、もうチョコを食べるよう国民に薦めたりはしない。
そんなキットカットが今月、本場で久しぶりに話題を呼んでいる。英紙やBBCが相次いで「わが国伝統のチョコが日本で受験生のお守りとして大人気」と報じたからだ。「かつて日本の受験生は縁起をかついでカツ丼を食べたものだが、キットカットがそれに取って代わった」。若干、大げさではある。
ネスレジャパンは、受験生に好評なのはだじゃれのおかげと言う。何年か前、九州の受験生が「キットカットできっと勝つとお」と言い始めた。ネットに乗ってたちまち全国区の流行になった。
ここ一番の試験でお守りにすがるのは、日本の受験生だけではない。米国ではうさぎの足、インドでは象の顔をした神、トルコでは青い目玉の魔よけが有名だ。どれも土俗的な信仰や伝承を感じさせる。
これらに比べると、日本で流行している受験のお守りは世俗的である。キットカットのほかに、カールを食べて試験に受かーる。キシリトールガムできっちり通る。伊予柑(いよかん)食べればいい予感。本番前の食べすぎにはくれぐれもご用心を。
周六 26 2月 2005
2月22日
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「それは生前われわれに最も身近なものであり、最も愛すべきものであった」。アメリカの地方紙に、「現金の死亡広告」が載ったのは、ざっと40年前である。
クレジットカードの「ダイナースクラブ」を創設したひとりの出身地の新聞で、この「広告」には、こんなくだりもある。「数千年の昔、物々交換の申し子として生まれ、交易の養子となり成育した『現金』は本日……死亡した」(『日本ダイナースクラブ 30』)。
実際には、現金は死ななかった。しかし、その後に世界に広まる「キャッシュレス」や「プラスチックマネー」の時代を予告していた。数年前、偽造したクレジットカードによる犯罪が急増したが、最近では、金融機関のキャッシュカードの不正使用が大きな社会問題になっている。
先日、偽造カードで預貯金を引き出されるなどした被害者が、被害金などを返還するよう銀行などに集団で要求した。1千万円以上の退職金がゼロになったり、十数分で400万円が消えたりと、被害者は金銭の損害と心の痛手を同時に受けた。
欧米では被害者の責任限度額を設けている国があるという。金融機関のみならず、人も金も国境を越えて行き来する時代だ。預貯金者の保護で内外格差があってはなるまい。
「それは生前われわれの身近なものであった。いつでも、どこでも、いくらでもという便利さでスピード時代の申し子となった。しかし、その便利さが命取りになり本日……」。銀行や国の対応次第では、いつの日か、こんな「広告」が出ないとも限らない。