あなたの学校では卒業式に何を歌いますか。音楽之友社が、全国の音楽教諭230人に尋ねたら、意外な結果が出た。定番のはずの「蛍の光」が3位で、「仰げば尊し」は10位にも入らなかった。
1位は「旅立ちの日に」という曲である。耳にしたことがあるだろうか。今から14年前、埼玉県秩父市にある市立中学校の音楽室で生まれた。作詞者は当時校長だった小嶋登さん(74)。一晩で書き上げ、翌朝、音楽の先生に作曲を頼んだ。
小嶋さんを訪ねた。「3年生を送る出し物として、教師全員が壇上で歌った曲です。その年限りの歌のつもりでした」。その年の3月で小嶋さんは定年退職したが、歌は残った。翌年、卒業シーズンを前に音楽雑誌が譜面を載せる。曲は全国の小中高校で演奏され、わかりやすい歌詞が生徒たちの心をつかんだ。「懐かしい友の声/ふとよみがえる/意味もないいさかいに/泣いたあのとき」
どこか、若者の抑圧感を歌った故尾崎豊さんを思わせる。武田鉄矢さんの「贈る言葉」にも近い。でも小嶋さんは「夢や憧(あこが)れを詠んだ若山牧水の世界です」と話す。
「蛍の光」や「仰げば尊し」は明治の初めに発表された唱歌である。刻苦勉励して国に尽くせ、師恩に報いて身を立てよ。歌詞には当時の教育観が色濃くにじむ。
「文語調のあの歌詞がいまの子どもたちにはどうも難解なようです」と小嶋さん。昔と違って卒業式の歌は生徒たちの好みで決まるところが多い。官製の名歌を脇に押しやって、教職40年の思いを込めた歌が今月、列島の各地に響きわたる。
周二 8 3月 2005
3月6日
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周二 8 3月 2005
3月5日
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「火の車を、いよいよやる」「なんだい、それは」「居酒屋」「だれが店へ出んの?」「おれ」「そいつあ、だめだ」。葬式帰りの電車の中で、「だめ」と言ったのは小林秀雄、言われたのは草野心平である(『草野心平全集』筑摩書房)。
戦後の52年、心平は東京で「火の車」を開く。「思ひ立つたのも生活が火の車だからだつた」。焼き鳥などが自慢の店だったが、店に立つ本人はじめ文壇などの酒豪が押しかけ、けんかもしょっちゅうで数年でつぶれた。
けたはずれの火の車状態なのに、つぶれない風を装っているのが日本という国だ。その財政を平均的サラリーマンの家計に見立てた記事があった。月収は52万円でローン返済が20万円だ。出費がかさみ、新たに月々37万円の借金をしている。ローン残高は約7090万円にもなる。
国がつぶれないのは国債を出し続けているからだが、とてつもない負担で将来の世代がつぶれかねない。むだな工事のほか減らせるところはいくらでもあるはずだが、新年度予算案は衆院を通ってしまった。
国の主な収入である税金の徴収は公平だろうか。消費者金融大手の「武富士」の創業者の長男が1600億円を超える贈与の申告漏れを指摘された。宇都宮、長野、松山の各市の一般会計予算を大きく上回る額である。
「きのうもきょうも火の車。道はどろんこ。だけんど燃える。夢の炎」。店主作の「火の車の歌」だ。ここでの騒乱からは、詩精神の炎があがった。国会が十分に機能せず、財政の乱脈が続けば、国民に襲いかかる炎があがる。
周二 8 3月 2005
3月4日
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ゆるい坂道に白い手袋が一つ落ちていた。人さし指が空を向いている。落ちた手袋は、妙に気にかかる。今は持ち主を失ってしまったものが、手の形を残しつつ何事かを語りかけてくる。
貧しい男の子が雪道に落ちている真っ赤な手袋を見つけ、抱くようにして病気の姉に持ち帰る童話は、小川未明の「赤い手袋」である。手袋といえば、新美南吉の「手袋を買ひに」も印象深い。
母狐(ぎつね)が、子狐の片方の手を人間の手に変える。店で、陰からその手を出して買うように教える。狐の手を出すと捕まる、人間は怖いからと。しかし子狐は狐の方を出してしまう。ところが店の人は手袋を売ってくれた。人間はちっとも怖くないと子狐から聞いた母狐がつぶやく。「ほんとうに人間はいいものかしら」
現実の世界では、防寒以外にも手袋の使い道は多い。大勢の人を指揮するような立場の人たちにも使われてきた。
巨大な西武グループを長く指揮してきた堤義明?コクド前会長が、株の虚偽記載などの容疑で逮捕された。元コクド役員は「専制君主の終焉(しゅうえん)」と述べた。この「専制君主」が君臨し指揮する時には、常に「先代」という、目には見えない手袋をしていたように思われる。創始者である父?康次郎氏の遺訓の指し示す方へ、自らの手を動かしていたのかも知れない。
先代によって「三十にして立つ」の頃に社長に据えられたこの人も「心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」の70歳となった。今は、ひとまず手袋を脱いで、検察が「矩を踰えた」とする事柄と向き合ってほしい。
周二 8 3月 2005
3月3日
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「国民の皆さん。私は先般、日曜日に独立記念館を訪れました」。ソウルで盧武鉉(ノムヒョン)?韓国大統領が1日に行った演説の一節だ。記念館はソウルからかなり南の天安市にある。
以前、そこを訪ねたことがある。朝鮮民族の歴史や、支配する日本に抵抗して独立するまでを、七つのパビリオンに展示していた。開館から1年足らずで800万人が来たと係員は言った。人々は「日本の侵略館」に殺到しており、入り口には100メートル近い行列ができていた。
大統領は、その記念館に行き、ソウルでは、日本に抵抗する「3?1運動」に身を投じて命を落とした「韓国のジャンヌ?ダルク」とも呼ばれる柳寛順(ユガンスン)の記念館で演説した。日本支配の時代を強く思い起こさせる場所をたどっての演説だった。
それもあってか、日本に対して歴史の清算や謝罪をこれまでにない厳しい口調で求めたという。演説の要旨からは、そう受け取れる。しかし演説の細部を見て、少し違う印象を受けた。
演説の中程では、日韓関係が相当な進展をしてきたと述べた。過去の村山首相の「痛切な反省と謝罪」や、金大中大統領と小渕首相の「未来志向」の関係構築の確認に触れ、日韓は「運命共同体」とも言った。
そして「日本の知性に再び訴えます」と述べた。ここでは訴える相手を、政府とも国民ともしていない。「真の自己反省の土台の上で両国の感情的なわだかまりを晴らし、傷を癒やすことを率先しなければならない」と続けた。日本への厳しい言葉の裏に、大統領の悲痛な思いがこもっているように思われた。
周二 8 3月 2005
转译:《自杀日记》47
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“即刻去死!”又是一封这样的邮件。我没有再像以前那样冲动,真的就想要去死。只是随意地接收了。这样冷静,连我自己都感到难以理解。鄙视、疏远、还有一些明知道要后悔的事,都默默接受了。有什么要紧呢?我本来就不配活在这世上。
以前割腕的伤口已经长出了新肉。疮痂脱落,呈现出古怪难看的肤色。明天去诊所的时候,一定要把伤痕遮住。
还有54天。
周一 7 3月 2005
如果那天,他知道自己只余十年的生命,他会不会更眷恋地在长长楼道徘徊,轻抚自己战斗了半辈子的地方?
名字、年龄、伴随经历,寥寥数语。伫立良久,才能想起的十年前那个瘦削高大、有些落寞萧索的身影。
没有更多的记忆了。
愿他一路平安。
周六 5 3月 2005
大学流水账2
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酝酿了一天,终于找到继续写这个题目的情绪了。
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据这些天做的调查,几乎可以肯定:94级报到那一天,我们是每人交了180左右,领到了13件日用品。也就是后来说的垄断啦、黑心棉啦之类的东西。但是,非常幸运的是,我们没有享受到黑心棉。只在一年后,很惊讶地看着93级的师姐晾出形状奇怪的被子。像褡裢一样,中间是薄的、稀的、透亮的。看得见经纬。两端鼓囊囊,都是碎棉絮。可是,无论是她们的被子,还是我们的被子,大部分人都盖了4年(也有人需要盖5年:)。好吧,把这13件新生用品数完,结束9月2日的记事。
凉席一张;褥子一张;床单一张;被子一床;被套一床;枕头一个;枕巾一条;蚊帐一顶;夏装运动服一套;冬装运动服一套;塑料桶一个;塑料盆一个;热水瓶一个。
最后,综合商店热情赠送广大新生每人一双球鞋,欢迎大家凭票领取。
9月3日—-9月10日
9月3日下午5点多,我和于蓝在第三饭堂的小卖部在学校见到了第一部电话。我们轮流给家里打了第一通电话。我还记得那时电话费是6毛钱/分钟。其实,我对6毛钱还没有很确切的概念,却很清楚长途电话=贵这个常识。那天,只讲了不到一分钟,除了价钱,更因为我马上就要哭出来了。我没想到自己会哭,却在听到妈妈声音的那一霎那,鼻子酸了。但是我不要让妈妈知道我要哭了,不要!于是,强忍着应答了几句,便挂了电话。
查阅94年的日历,9月2日是周五。也就是说,我们过了周六和周日,才等来新生介绍的一周。
是的,那时候没有双休,所以周六才是周末。当时,广外的学生不需要军训。这是我的第一个不满。军训生活,是我对大学的所有期望中很重要的一个部分。纯体力付出、挥汗如雨、集体主义……竟然没有!好吧,那就新生介绍。所谓新生介绍,就是各种各样的报告和会议。大多数报告和会议都是在电影厅进行的。记得那天,好不容易找到了电影厅,站在门口,我想:啊,这就是大学的阶梯教室啊。真大!各种各样的领导讲过什么,我已经忘得一干二净。只记得一次会议上,某位领导(好像是李huadeng吧,那时他好像还是学生处长。)警告大家不要随便走出校门,尤其是北门。最重要的是不要去北门外的一家大排挡,叫做“食最鲜”。说那里人员混杂,有很多陈田农民,容易起矛盾。我当时坐在很靠主席台的位置,第一次听到“大排挡”这样的名词。心想:好一个大排挡,居然要这样被提及,可不是活广告吗?后来我知道,这家大排挡的名气早已远不需要学校领导来介绍了。为了说明那里的危险性,这位领导介绍了最近一次的斗殴事件,大意如下:“食最鲜”分里外两间。这天,里面靠窗的一桌坐了我校的一些男同学,窗外是一桌社会人员。不知出于什么原因,一个靠窗的男生把筷子扔了出去,结果偏巧不巧,落在了外面一桌的菜上。于是,这桌社会人员勃然……11年前听来的故事了,不知有多少是我在后来想象的。因为后来每一次去“食最鲜”都试图找出那扇扔出筷子的窗户,在什么位置,才会使扔的人真的是无心扔出呢?
除了开会,大多数时间我们都呆在宿舍。9月3日,新生报到的第二日,我们就在宿舍见到了辅导员。他对我们说他是我们的辅导员,有什么需要就对他说。可是辅导员是什么呢?我费了很大的劲也没想明白。“相当于班主任嘛?”我问他。“不完全是。……”他的回答很长,可是我没听懂。只有一点很明白,那就是他是我们这些天见到的第一个也是唯一一个与我们有关的老师(学校人员?)。所以,我、ookyoo、陈san这三个外校生马上向他提出了我们的困难:要补英语。以后几天,他经常来女生宿舍了解大家的生活及思想。我们的问题始终没有变过。大约一年以后,我才知道那几天的谈话有多可笑。我们始终没有听懂他的意思,而他也始终没有想要帮我们解决有关学习的问题。双方完全在讲着不相干的话。结果是,我们让他失望了。这应该是我在大学里的第一堂课吧,—-要领会老师的意思。这个辅导员姓刘,他来学生宿舍的目的,一为了解新生的生活,二是要发展新的学生干部。可是,谁会在开学第一周想要成为干部呢?我甚至愚钝到搞不清什么学生干部、学生会、团委、校团委、广播站、《与你同行》、校报还有马列园地之间到底有什么关系?而这几个名词一再出现在刘介绍的先进人物事迹中。所以,我们的回答始终是“谦虚”的:刘老师,我们还差得很远。我们还要补习英语,因为我们高中三年都没有学过英语了。您能告诉我们怎么办吗?能给我们专门补课吗?如此三番,估计他的鼻子都要被气歪了。可我们真是无心的。
新生介绍最后一天下午,是班会。我又一次见到了郭老师,我们的班主任及精读老师。应该是精读老师兼班主任。实在班主任那时是个很副很副的工作,我完全记不得除了这一次班会,她做过什么。或者,后来她做的,都被我归到她作为精读老师的身份里去了吧。在第一年那样想家的日子里,郭老师的确给了我们温暖的感觉。
班会的重要议题:上大学的心情和计划。老师给每个人发了一篇文章,大意是一个穷苦的大学生如何发奋图强的故事。让大家看完了以后,谈谈自己的感想。发言是按座位顺序,从最靠窗的一列开始。我们有一个很戏剧性的开头。是芬,她讲述了自己上大学之前,家里人是怎样为自己凑学费,并表决心一定要努力学习,回报大家。讲到激动处,哭出声来。我想应该有不少人陪哭吧。至少我当时的心情就很沉重,眼泪在打转。郭老师大概没想到这个局面,请她坐下,安慰并鼓励了一番,就请下一位同学起来了。是etsu。好etsu,语出惊人:我觉得没有必要这样。钱嘛,花了挣回来就是了。我以后一定能挣回更多的钱。一直沉默的教室更安静了,可以感觉到空气中都是惊愕。刚才还都在低着暗自伤神的头纷纷抬了起来,看着etsu。她玩弄着发梢,非常坦然,没有一丝羞怯。这是这个班级留给我的最初的记忆,我爱94b。
我们是中国第一批缴费大学生,所以大部分家庭都没有做好花大价钱送孩子上大学的准备。我相信每个同学的2500元学费后都有父母的辛酸故事,但事情也的确像etsu说的一样,我们终会展开父母的愁颜。
接着,郭老师开始扮演精读老师的角色。说了一些关于日语学习的话,然后让我们买书。《日语语音》,8元一本。老师说:同学们把钱交齐,请班干部去教材课领书。下周一上课就要用。我们都傻了:还没有养成随身带钱的习惯啊。哪怕是8块钱。班里开始有些骚动。这时候,教室后方传来一个响亮的声音:我先把大家的钱交了吧。是ookyoo,我惊呆了。转头看着她。大家也都看着她。只见她站起来,大步走向讲台:老师,22个人,应该是176元吧。哇,那天的ookyoo真是高大伟岸!简直帅死了!当然,我们ookyoo也同时以最快的速度占领了第二个话柄:富婆啊!(林kun语)嘿嘿!ookyoo委屈死了:我只是没敢把没存的生活费放在宿舍而已。
就这样,开学第一周过去了。我开始熟悉学校的路。
周六 5 3月 2005
转译:《自杀日记》46
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今天去踩点了。休诊。没关系,本来也只是想确认一下地方而已。我把电话簿的广告上写的地址抄在纸上,慢慢走着去。大约三站路吧。虽然离车站有些远,不过路不绕,没费什么力气就找到了。门面不大,玻璃门里下着百叶窗,所以看不见里面。从外表看来,里面应该不大。周二还要来一趟。
离开时,转身的瞬间看到了自己在路边的车窗里映出的身影。哈着背,了无生气;单眼皮;厚嘴唇;塌鼻梁;显然是个丑陋的无可救药的家伙。连我自己都认为那是副全世界最丑的嘴脸。
还有55天。
周五 4 3月 2005
转译:《自杀日记》45
Posted by yanmin under 乱谈
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我越来越坐立不安。周二去诊所,跟医生说失眠,他就会给我安眠药吗?不给怎么办?
已经有好多年没和人面对面认真地聊了。一个朋友都没有过,也从不曾跟老师对谈。老师问我什么,我只会回答“是”、“不是”。
和爸爸也是几乎不说话的。尤其是自己搬出来住以后,面都不见了。其实那样对大家都好。
要么就是跟人说话的时候,紧张万分,大冷天也能出一身汗。不是抢话,就是跑题,总之谈不起来。还会被人笑话。
所谓交谈,真是吓人。
还有56天。
周三 2 3月 2005
3月2日
Posted by yanmin under 天声人语
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朝方の冷え込みは、まだ厳しいものの、晴れた日の陽光には春めいた柔らかさがこもる。「弥生(やよひ)ついたち、はつ燕(つばめ)、/海のあなたの静けき國の/便(たより)もてきぬ、うれしき文を……弥生来にけり、如月(きさらぎ)は/風もろともに、けふ去りぬ」。この「燕の歌」の作者?ダヌンチオは、イタリアの詩人?作家だ。
日本での「弥生来にけり」の実感は、シェークスピアの「花くらべ」の方に近いかもしれない。「燕も来ぬに水仙花、/大寒こさむ三月の/風にもめげぬ凛々(りり)しさよ。/またはジゥノウのまぶたより、/ヴイナス神の息よりも/なおらふたくもありながら、/菫(すみれ)の色のおぼつかな」
この2編を含む欧州の詩人29人の作を上田敏が訳した『海潮音』が出版されて今年で100年になる。「山のあなたの空遠く」のブッセ、「秋の日のヴオロンのためいき」のベルレーヌ、ボードレールらの詩句がきらめく。
「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」と書いたのは芥川龍之介だった。彼の妻の文(ふみ)が初節句に買ってもらった雛(ひな)人形が今、ふたりにゆかりの深い東京都墨田区の「すみだ郷土文化資料館」に展示されている(10日まで。月曜休館)。
箱書きは、明治34年3月だった。『海潮音』が出る4年前だが、1世紀もたっているとは思えないほど、保存状態が良い。五人囃子(ばやし)の細やかなしぐさからは、笛や鼓の音が響いてくるようだ。
龍之介と文の孫の芥川耿子(てるこ)さんが寄贈した。文が、60歳の節句に書いた色紙もある。〈古雛や顔はればれと六十年〉。雛祭りの明日、耿子さんが60歳になるという。