Archive for 2月, 2005

 「戦争に負けたから堕(お)ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」。終戦直後に、旧来の道徳観を否定して注目を浴びた坂口安吾の「堕落論」の一節である。

 安吾は、50年前の2月17日に、脳出血のため、群馬県桐生市の自宅で急死した。48歳で、妻と幼い長男が残された。

 死の2日前まで、高知県に居た。『中央公論』の「安吾新日本風土記」取材のためで、15日の夜遅くに帰宅した。同行した編集部員が、後に「書かれなかつた安吾風土記」を書いた。「短気とうつり気があまりにも有名だつた」作家との旅を懸念したが「故人に対して誠に申しわけない危惧(きぐ)」だったという。

 しかし最後の晩には、訳のわからないことで怒鳴られる。帰途、その理由を聞くと「いや悪かつた。絶対に気にしないでくれ……高知が自分によくつかめなくてあせつていたんだ……俺には悪いくせがあつて、そういう場合、その場で一番親しい人に当つてしまう……許してくれ」。「一番親しい人」だった妻から同誌への寄稿文には、子煩悩で、しばしば荒れる無頼派作家の姿がある。

 高知から帰京した日、桐生への列車を待つ間、浅草のお好み焼き屋に行っている。ここでは、鉄板に手をついたことがあった。「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり 安吾」。その時の音が聞こえてきそうな色紙が残る。

 安吾は、「あちらこちら命がけ」とも書いている。もし今現れて、戦後60年を迎えた日本に「命がけ」で手をついたとしたら、どんな音がするだろうか。

  日前,与某人谈起大学旧事,争执甚多。原来记忆正一点点地褪去。于是,立意先将流水账记于此,留待日后慢慢整理。也请阿元等旧友一同帮我填补时间。


  1994年


  9月2日报到。


  是爸爸的同学请警卫员开吉普车送我到校的。那是我第一次坐小车,也是唯一一次坐吉普。报到在大礼堂。很破落的一个地方,感觉上大部分窗玻璃都是破的。礼堂尽头,好像是个舞台,上面还飘着褪色的、落满灰尘的、看起来破破烂烂的幕布。现在想起来,小天狼星倒向的帷幔大抵就是那个样子了吧。后来知道有一个很贴切响亮的名字:风雨礼堂。我的理解是:风雨飘摇的礼堂。报到要排很多队,交很多钱。妈妈在一边等我。后来听小龙说,他报到的时候郑铁排在她后面,于是就认识了。我当时却没有和任何一个人交谈。完成了各项手续,郭老师高兴地跟我说:你是我们B班的。欢迎你!我很忐忑。


  接下来,一个师姐带我去宿舍。后来我知道她姓杨,92级,是系学习部长。只是我还没有适应大学里的称呼方式,那天之后很长时间,我都只敢并坚持叫她“姐姐”。现在想起来,直到她毕业,我都没有胆量正面跟她说话,也就没有了叫她“师姐”的机会。我的宿舍在4楼,411。进屋的时候,只见石灰水惨淡地涂抹在灰灰黄黄的墙壁上,天花清晰可辨每一块砖头。房里有两根日光灯管垂吊下来,四张架子床,七张桌子,七把椅子。师姐告诉我,尽头那张靠窗的桌子最好,可以安静看书。最好的床位也是靠窗的两个上床。不过很可惜,已经都被人占了。其实我没听进去,只是吃惊的看着这个床板林立的房间。真的,床板们几乎都不在床上。那之前,我一直以为自己已经有一年的住校经验,一定能很快适应。却在搬第一块床板的时候,我知道自己估计错了。


  师姐看我选了床位就下去接其他的新生了。吴叔叔让妈妈不用担心,说我一定能弄好的,他已经送了两个儿子上大学了。于是,妈妈给我留下500块钱生活费,回去了。后来妈妈写信来,说那天很不忍心走,但是怕耽误吴叔叔的事情,只好走了。再以后,妈妈跟外婆提起我的宿舍,会说:又破又脏,还不如当年她读卫校的宿舍。又说,我报名的礼堂,就像爸爸住的宿舍,又大又黑。我不清楚他们的宿舍怎样。在室友们都住进来以后,我已经适应了这里就是我的宿舍。却也一直很诧异:爸爸的宿舍那么那么大吗?那得住几百人啊。


  妈妈走了以后,我把自己的床板放好,把行李放到床上。就出去了。我不想收拾。妈妈再三交代要放好的500块钱,装进信封,锁入了抽屉。然后,拿着妈妈给我买日用品的5张10元想去买东西。那是中午,我好像没碰到什么人。走到楼下,路上只匆匆走过两三个看起来很大的男生。我不知道该往那边走。犹豫了很长一段时间,决定向右,顺着来的路走,看看有没有电话。我已经开始想家了。走了大约100米吧。也就是走到“生活服务部”门前的公告栏那里,我再也走不下去了。我觉得自己走了好几个小时,看看表,却不到5分钟。我低喊:这怎么可能?我向前看,看不到将有电话的迹象。于是决定回头,向另一个方向去找。走在路上的时候,很胆怯,觉得路过的人都知道我是新来的。我不要让他们知道我不认识路。这样想着,又过了好长时间。过了一个小桥,穿过两排大树,来到一个锈迹斑斑的铁门面前。我觉得自己已经走了足够远了。铁门里面有一片空地,空地左边是一片平房,右边是三栋四层小楼。我猜不着那些平房是什么,也不敢妄猜这三栋小楼是不是宿舍。这里仍然空无一人。我没敢跨入铁门,又回头了。


  回到宿舍,看到ookyoo来了。她也正在无所适从。后来,不知为什么,她陪我去吃东西了。ookyoo是我的高中同学,其实之前我和她不熟。却在那一天产生了相互依赖的感情。是ookyoo带我到小黑店,还是我带ookyoo到小黑店,真的记不清了。小黑店正名叫“冰室”,我们都觉得这个名字有些可笑。已经很久没见过这个称呼了。


  然而,真正有趣的是,几个月以后,ookyoo在这一天的表现成了大家她被取笑的话柄。因为她一个人走进宿舍。房门开着,里面很暗,看不见人。床上都拉着床帘。她手里拿着行李,却看不见一张空着的床、一张空着的桌子。桌子上都立着高高的书架,让小小的房间显得更拥挤。突然,传来一声莫名其妙的女声,她听不懂说什么,也不知道声音从哪里发出。又传来了第二声。貌似强悍的ookyoo正式被吓到了。据她说,好像是放下行李,就跟我出来了。其实,她是住进了一间已经住了六个二年级学生的宿舍。其中,有五个女生是学越南语的。那个学期,她们刚开始学发音。那个让人汗毛倒竖的女声就是宿舍里最漂亮的一个女孩在读字母。呵呵,可怜的ookyoo,第一天就落了把柄。


  记忆中,我要了一碗康师傅红烧牛肉面(高中常蹭乐乐的吃,就记住了),ookyoo要了一瓶酸奶。ookyoo看着我吃,我却吃不下。那间小店很黑,我们坐在不靠窗的一边,谁也说不出话来。我清晰地记得,那是下午两点半。我俩想:这一天怎么还不过去?


  回到宿舍,室友们已经到了。有人在搞卫生。我不知道该做些什么,讪讪的。一个穿着时髦,踩着米色松糕凉鞋的女孩一边擦门一边对我说:你也买了这样的口杯啊?看,我的也一样,我的衣架也是紫色的。我们都喜欢紫色。我叫花。我好像没回答什么实质性的内容,我不知怎样和不认识的人说话。只是告诉了她我的名字。那以前,我没见过穿高跟鞋的高中生,尤其是松糕凉鞋。所以,那一刻,我有些敬畏。很快就从她面前溜了。


  再后来,好像于蓝一家浩浩荡荡地来了。她的宿舍是一间只住两个人的小屋,在走廊的尽头。孤零零的,却让我觉得很安静。于蓝也是我的高中同学,是ookyoo的好朋友。她一家大张旗鼓的洗地铺床,我和ookyoo过去,跟她爸妈问了好。我记得自己像看见亲人似的,很想帮忙、搭话。却始终插不上手。


  关于开学第一天的事情,我只记得这么多了。那天,宿舍好像有一个人始终没有露面。我也记不得是怎么跟其他人认识的。晚饭怎么吃的、夜里怎么睡的我都记不得了。


  那天晚上,我睡了吗?

 空を飛ぶ車を想像する。行き先を言うと、自動的に連れて行ってくれる。誰もが子どものころに考えそうな夢だ。いかにも子どもらしい夢、と一言ですますこともできるかもしれない。

 小学校の卒業文集に収められた「夢」と題する作文である。読み進みながら奇妙な違和感をおぼえたのは、陰惨な事件の後だからだろうか。「夢」を書き残して卒業した母校の小学校へ行って教職員を殺傷、逮捕された少年の中で夢はどうしぼんでいったのか。

 作文では、未来と現在とが混じりあっている。空飛ぶ車、お手伝いロボット、スーパー高性能チップ——。これから「できるかもしれない」ものと、既に「あるかもしれない」ものとが同列に「夢」として描かれる。かなわぬものが「夢」なのだという感覚がうかがえない。科学の発達ですべてが便利で手軽になる、なりつつあることへの楽観も読み取れる。

 夢と現実とが地続きであると思っていたのが、あるとき深い溝があることに気づいた。事件に直接はつながらないにしても、そんな苦い経験があったのではないか。この少年に限らず若い世代が共有する「夢と現実」ではないか。

 谷川俊太郎さんに「くり返す」という詩がある。「後悔をくり返すことができる/だがくり返すことはできない/人の命をくり返すことはできない/けれどくり返さねばならない/人の命は大事だとくり返さねばならない/命はくり返せないとくり返さねばならない」

 谷川さんの呼びかけを心に、悪夢をくり返さないための手だてを考えていかねばなるまい。

 美しい古都と廃虚と。ドレスデンという地名は、いつも二つの映像が重なり合って複雑な感慨をもたらす。「エルベのフィレンツェ」と美しさをたたえられたドイツの古都が連合国軍の空爆で一夜にして瓦礫(がれき)の街になったのは、60年前の2月13日だった。

 爆撃直後のドレスデンを列車で通過した17歳の青年が、後に語っている。「若くて事態をよくわかってはいなかった。しかし焼けこげた遺体が積み上げられている光景に衝撃を受けた」「以前のドレスデンを知っていたから、変わりようはよくわかった」

 後のノーベル賞作家ギュンター?グラス氏である。しかし彼を真に震撼(しんかん)させたのは、戦後初めて見た強制収容所の写真であり、ナチスのユダヤ人迫害だった。反ナチスを貫く戦後の彼の歩みを決める経験だった。

 「ドイツ人の罪」を考え、語り、書きつづけたグラス氏だが、同時にドイツ人の犠牲者にも言及する必要がある、と考えてもいる。英美術誌のインタビューでこう語る。「私たちドイツ人が始めた。まず、英国の都市を爆撃した。しかし、ドレスデンへの爆撃もまた罪だ」

 ドレスデンでは13日、「追悼と和解」の式典が催された。一方、「ドレスデン空爆は爆弾によるホロコーストだ」と主張する国家民主党などネオナチと称される極右グループは街頭デモをした。戦後最大規模といわれる。

 ナチスドイツの罪を重く背負いながら「ドレスデン」を問うグラス氏と、ナチスを擁護しつつ「ドレスデン」を非難する勢力との距離があまりに遠いことはいうまでもない。

 「とても偉大な人物とはいえない。あまりお金もうけもできなかったし、名前が新聞に出たこともない」平凡なセールスマンの物語が、半世紀以上にわたって世界の多くの人々を魅了してきた。

 1949年初演の「セールスマンの死」で知られる米国の劇作家アーサー?ミラーが89歳で亡くなった。劇の主人公と違って決して平凡とはいえない波乱の生涯だった。新聞をにぎわしたこともたびたびだった。

 まず、女優のマリリン?モンローとの結婚と離婚がある。「鳥小屋の中の見知らぬ鳥」のような彼女に魅せられ一緒になった。しかし、5年ほどで破綻(はたん)した。彼女を「神経症」と薬物依存から救い出すことができなかった、と後に明かす。

 一生つきまとったのは「アメリカとの闘い」だったといえよう。とりわけ50年代の「赤狩り」、マッカーシズムの時代には渦中に巻き込まれた。非米委員会に呼び出され、知っているコミュニスト作家の名前を挙げるように強要された。拒否し、罰金刑を受けた。

 「セールスマンの死」では、息子の将来に夢を託しつつ自分もささやかな成功者になろうと身を削った男が夢破れ、死を選ぶ。「アメリカの夢」が「アメリカの悲劇」に転じる物語だ。米国社会への苦い批評が込められる。9?11テロ後、米国に広がった息苦しい体制にも「市民の権利が脅かされる」と批評を怠らなかった。

 平凡な人間の夢と挫折を描いて演劇史を画する名作を残した非凡な作家だった。ニューヨークの劇場街は11日夜、入り口の明かりを暗くして死を悼んだ。

 今から1万年ほど前のことである。海の水がにわかに増え、海水面が上昇した。東京湾では、この「海進」によって、今より50キロも内陸まで海面下となった(『利根川と淀川』中公新書)。

 関東地方の貝塚の分布から推定した海岸線は、さいたま市よりも更に奥に達している。貝塚は、太古の暮らしぶりを伝えるだけではなく、海のありかを示すタイムカプセルでもある。

 埼玉県に隣接する東京の北区でも、いくつもの貝塚がみつかっている。その北区の住宅地の近くで、貝塚とは別の、とんでもないタイムカプセルが掘り出された。温泉の掘削で地下1500メートルまで掘り進むと、ガスが噴き出した。引火して激しく燃え上がり、なかなか消えなかった。

 関東南部には「ガス田地域」があり、深く掘ると天然ガスの溶けた地下水が噴き出る。ガスは、一帯が海だった頃のプランクトンや海藻などが起源という。

 このごろ、市街地で温泉を掘り当てようとする動きが目に付く。地盤沈下への懸念も聞く。東京都は来年度から、温泉付きマンションでの温泉使用に制限を設けるという。1日1所帯0?5立方メートル以下で、浴槽約2杯分だ。「限られた資源なので、湯水のごとくには使えないことを周知したい」

 ガス噴出や火災が市街地で起こるようでは住民はたまらない。噴き上げる炎と消火活動は、油田火災を連想させた。「町中(まちなか)温泉」掘りは、よほど慎重にしないと、大やけどをする。悠久のタイムカプセルから一気に現代に引っ張り出された太古の生き物たちが、身をもってそれを示した。

  瞬間最高視聴率は57?7%だった。その時、おそらく数千万の眼の追うボールが、北朝鮮ゴールに飛び込んだ。日本チームは最後まで粘り、よくやった。

  やがて、勝ち負けとは別の感慨が浮かんだ。それは、北朝鮮チームのメンバーとして戦ったJリーガーの姿から来るようだった。日頃は日本のチームの一員として戦い、ここでは日本代表と戦う。この「よじれ」を背負いながら走ったふたりに、国や国籍と人間との複雑な関係が重なって見えた。

  ふと、穐吉(あきよし)敏子作の「ロング?イエロー?ロード」を聴きたくなった。中国東北部(旧満州)に生まれ、戦後帰国する。ジャズピアノを究めようと単身渡米して約半世紀がたつ。「ジャズにとって、もともと異物」と述懐する「東洋人」のひとりとして、ジャズと日本とを結ぶ活動を続け、今年朝日賞を受賞した。

  曲名は、どこまでも続く黄色っぽい中国の道からヒントを得たという。日本の童謡を思わせる一節もあり、軽快な中にも懐かしさを感じさせる。「東洋人」が米国で歩んできて、これからも歩み続ける道をも意味しているという。穐吉さんは『ジャズと生きる』(岩波新書)で、米国での人種偏見についても記しているが、乗り越えて自らの道をつかんだ。

  在日のJリーガーのひとりの後援会は、8割が日本人だという。57?7%の中には、試合を国籍にかかわらずに楽しんだ人も多いのではないか。

  サッカーにしろ音楽にしろ、その魅力の根っこには、生まれた国や国籍を超えて訴えかけてくる、個人のひたむきな姿がある。

  エルサレムの「嘆きの壁」に行ったのは、10年ほど前のことである。ユダヤ教の聖地の古い壁を前に多くの人が祈っていた。キッパという丸い小さな帽子を借りて頭に載せ、壁に手で触れつつ思った。ユダヤ、キリスト、イスラム教の聖地が入り組むエルサレムという小さな一つの椅子(いす)に、どうすれば反目する人々を座らせられるのかと。

  「嘆きの壁」に近いイスラム教の聖地に、当時イスラエルの野党党首だったシャロン氏が行き、大きな衝突になったのは4年半近く前だ。以来、イスラエル軍の攻撃やパレスチナ側の自爆テロが続いてきた。イスラエル側は、分離壁も築いた。

  双方の首脳が久々に会談し、停戦を宣言した。会談が開かれたエジプト?シナイ半島のシャルムエルシェイクは、かつてイスラエルが占領していた時期もあった。北方のシナイ山で、モーゼが十戒を授かったといわれる。

  「殺してはならない」や「盗んではならない」の後に「隣人の家をむさぼってはならない」とある。しかし長い歴史の中で、この中東の地域も様々な国にむさぼられてきた。

  トルコ支配下のエルサレムを訪れた明治の作家?徳富蘆花は、「嘆きの壁」を「哀傷場」と記している。「風日に黒める石の面(おもて)に、希伯来(ヒブライ)字もてさまざまに猶太(ユダヤ)人等の情懐祈願を刻す……草花のさりげなく石垣に咲けるはあはれなり」。前世紀初頭、トルストイに会う旅の途中だった(「順礼紀行」『明治文学全集』)。

  停戦が、今世紀の最初の停戦ではなく、平和に帰結する「最後の停戦」になるようにと願う。

  アインシュタインに「生涯最大のあやまちをおかした」と後悔させたといわれるのが天文学者ハッブルである。1920年代に宇宙が膨張していることを確認し、当時は「静止宇宙」を想定していたアインシュタインの議論を見事に打ち砕いた。

  彼の名を冠したハッブル宇宙望遠鏡の短い生涯が終わりそうだ。近く寿命がくる部品を修理するかどうか論議されてきたが、7日発表の米予算教書に修理費は盛り込まれなかった。誘導して太平洋に落下させる「水葬」費用だけが盛り込まれた。

  大気に邪魔をされず、高度600キロの軌道から宇宙を観測する。天文学に革命をもたらすとの期待がかけられていた。しかしスペースシャトルの事故などもあって打ち上げは遅れに遅れた。90年に打ち上げられた後もトラブル続きだったが、順調に観測を始めてからは驚異の映像を送り続けた。

  星の誕生や死の現場を見せてくれた。とりわけ星が壮麗ともいえる大爆発を起こして死んでいく様は印象深い。130億光年先という宇宙の果ての銀河もとらえた。宇宙誕生まもないころの姿でもある。星が死んでつくる暗黒の穴、ブラックホールの存在も証明した。

  宇宙が刻々と変容を続けていることをまざまざと見せてくれたこの望遠鏡を三大望遠鏡の一つという人もいる。ガリレオの望遠鏡、ハッブルが宇宙の膨張を発見したウィルソン山の望遠鏡とともに、宇宙観を根本から変えた、と。

  ハッブル望遠鏡の使命はまだ終わっていない、と延命を訴える人もあきらめてはいない。その論議は米議会に移る。

  ゲーテの大作「ファウスト」の総行数は万を超え、12111行に及ぶ。読み通すのが難しい名作の一つだが、心に強く残るくだりは多い。

  ファウストが、悪魔のメフィストフェレスと賭けをして語る場面もそうだ。「己が或る『刹那(せつな)』に『まあ、待て、お前は実に美しいから』と云つたら、君は己を縛り上げてくれても好い。己はそれ切(きり)滅びても好い」(森鴎外訳 岩波文庫)。

  結局ファウストは、様々な遍歴を経た後、「刹那」に向かって「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びかけ、絶命する。メフィストは「この気の毒な奴は、最後の、悪い、空洞(うつろ)な刹那を取り留めて置かうと思つた……時計は止まつた」

  止まっていた時計が、60年ぶりに動き始めたかのような記事が載った。戦時中、情報工作員を養成していた「陸軍中野学校」の、たまたま焼却されなかった教科書が、卒業生の手元に秘蔵されていたという。「宣伝」の教科書に、メフィストフェレスが登場する。

  「『メフイスト』氏ノ手口ヲヨク研究シテ見ルト其ノ極意ハ『身ヲ磨(す)リ寄セテ行ク気持』デアル」。例えば前線での敵将兵への放送では、「貴方方ガ前線ニ出テ来タ愛国的ナ気持ハヨク解リマス」と、まず同情し、後に問う。「デスガ貴方方ノ努力ハ一体誰ノ利益ニナルノデセウカ」

  ゲーテのメフィストとは、役回りは異なっているようだが、この教えは、戦争の現実とは、どう擦れ合ったのだろうか。悪夢のような刹那を呼び止めてしまった時代を記録する、貴重な手がかりとして生かしたい。