Archive for 2月, 2005

85 君が行き 日長(けなが)くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ


86 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを


87 ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く 我が黒髪に 霜の置くまでに


88 秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞(あさかすみ) いつへの方に 我が恋やまむ


ーー磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)


  ——この日本という国では、わが帝国のものとは比べようもないほどの速さで動き回る「戦車」によって、年に何千人もの命が奪われている。世界全体では、何万以上の命が毎年失われ続けているらしい。果たして彼らは、この大量の死を、永遠に続けるつもりなのだろうか……。

  もしも古代ローマ人が今現れたとしたら、こんな「未来社会の驚くべき蛮行」という報告を書くかも知れない。自動車事故による多くの死が永遠に続くかどうかは分からない。しかし、古代人なら驚くはずの膨大な死への恐れが、現代人では薄れつつあるのではないか。

  「戦車」が勝手に人の命を奪うはずもない。人が操る「戦車」が殺すのである。千葉県松尾町で、同窓会帰りの男女がひき逃げされ、4人もが亡くなった。痛ましい限りだが、この事件は、車を操る責任の重さと、車の凶器としての恐ろしさを、改めてみせつけた。

  「いつ人をひくことになるか分からないし、いつひかれるかも分からない」。こんな、古代にはない覚悟をしながら、現代人は暮らしている。いちいち口には出さず、のみ込んでいるが、死の影が消え去ることはない。

  養老孟司さんは『死の壁』(新潮新書)の中で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いへの答えとして、「二度と作れないものだから」と述べている。「蠅を叩き潰すのには、蠅叩きが一本あればいい。じゃあ、そうやって蠅叩きで潰した蠅を元に戻せますか」

  ひき逃げに限らず、元に戻せない人の命を、むやみに奪い去るような事件が続く。

  米国で最も親しまれている硬貨が、クオーターと呼ばれる25セント硬貨だ。少々大ぶりだが、自動販売機をはじめとして、ちょっとした買い物には欠かせない。

  50種類ものクオーターを発行する計画が6年前から進行している。50州が硬貨の裏にそれぞれ独自のデザインを考え、順次、米造幣局が発行していく。各州の歴史や特色を図案に取り入れることが条件だ。多くの州では、デザインを公募、最終的には知事が決める。

  ニューヨーク州だったら誰もが考えるのは「自由の女神」だろう。実際、4年前に発行されたクオーターでは、州の外形を背景に「自由の女神」が描かれた。そして「自由への玄関」の文字を浮き彫りにした。9?11テロの前のことだった。

  バイオリンとギターとトランペットを描き「音楽の遺産」と銘打ったのはカントリーミュージックの故郷テネシー州だ。一方、ジャズの都ニューオーリンズをかかえるルイジアナ州もトランペットを欠かすわけにはいかない。州鳥のペリカンを加えた図案になった。

  99年に始まり、08年までの10年計画で進んでいる。憲法を批准し、合衆国に加わった順番で発行されるからハワイ州が最後だ。もちろん硬貨は州外でも通用する。「無難なデザインが多すぎる」という批評はあるが、話題づくりには成功した。推進する米造幣局は「クオーターでアメリカの歴史と地理、そして多様性を学ぼう」と呼びかけている。

  確かに偽造硬貨騒ぎに関心が集まるよりは、はるかに建設的で、いかにもアメリカらしい「多様化」の試みである。

  海の底には、富士山やキリマンジャロに勝るとも劣らないような大きな孤立した山が、数多く潜んでいるという。千メートル以上の山を、海山と呼ぶ。ある共通する分野の人の名前がつけられた海山の集団もある。

  ハワイの北の太平洋には、音楽家海山列がある。バッハ海山から、ベートーベン、チャイコフスキー、ラベル、マーラー海山までがそろっている。アラスカ沖には、数学者海山列もある。「海山は深海という夜空に輝く星座である」と言った人もいる(『生きている深海底』平凡社)。

  海山が輝く星ならば、海溝は沈黙の闇だろうか。世界で最も深いマリアナ海溝の闇の中で、「生きた化石」とされる生物が見つかった。アメーバに近い「有孔虫(ゆうこうちゅう)」の仲間で、8億~10億年前からその姿を変えていないという。深さ1万メートルを超す闇が、この原始的な生物の「避難所」だったとの見方もあった。

  「ここはどこだろう?……私がしゃべろうとすると、ネモ艦長は手振りでそれをとどめ、(海底に)落ちている白い石を拾って、黒い玄武岩のそばに進みより、その上に『アトランティス』と、ただ一語書き記した」

  ジュール?ベルヌ作「海底二万リーグ」(『世界SF全集』早川書房)の一節だ。「アトランティス大陸」の水没伝説のように、未知の海底は謎に満ちた闇でもあった。

  海底には、泥や砂が、ゆっくりだが絶え間なく積もり続けているという。陸上では、人間の手や浸食で消えてしまう記憶が、深海の底では残る。小さな有孔虫にも、地球の太古の記憶が刻まれている。

  〈大空に延び傾ける冬木かな 虚子〉。昨日、東京の空には雲がほとんどなく、木々は、目にしみるような青を背に立っていた。

  冬木には、天に向かってのびようとする勢いが感じられる。道に並ぶ木々を見ながら、その勢いは、葉を失ったことで得られるのではないかと思った。

  葉は枝から上向きに出ていても、葉の先の方は下を向いていることがよくある。葉先を、いわば下向きの矢印とすれば、葉を落としきった木には、それが全く無い。かわりに、多くが天を指してのびている枝や枝先という無数の上向きの印が強調される。それが、のびる勢いを感じさせる。

  「大きな枝から、また大きな枝が手を伸ばし、更に小枝が四方にこまやかに散らばり、となりのけやきと絡みあつてゐる。それらの梢の先々は、どこで終つてゐるのか、見究めがつかぬほどに、遠いところで消えてゐる」(「冬木立の中で」『結城信一全集』未知谷)。葉に隠れていた所があらわになり、枝の向きや傾きが目で追える。

  一本のサクラに近づく。細い枝の先をたどると、そこには芽がいくつもついていた。まだ小さくて堅い。しかし、内側から外の世界へ出てゆこうとする気配は十分にある。芽は、葉や枝ほどには目につかないが、枝と同じく、空に向かってのびようとする矢印のようにも思われた。

  〈斧(をの)入れて香におどろくや冬木立 蕪村〉。冷たい風に揺れながら空を掃いているような木々の姿は、ものさびしくもある。しかし、その内には新しい息吹が宿り、近づく時を待っている。今日は立春。

  フランス語教育が充実していることで知られる暁星学園でフランス人教師に囲まれて11年間学んだ。東京大学の仏文に進み、卒業後もデカルトやパスカルを研究、助教授になった。

  1950年、戦後第1回のフランス政府給費留学生に選ばれた森有正は、フランス語に不安はないはずだった。本人もある程度自信をもっていたが、同時に「心の底には一種の形容するのがむつかしい恐怖の念がありました」と述懐している(『森有正エッセー集成3』ちくま学芸文庫)。

  日本で学んできたものが根本から揺るがされるのではないかという恐れは、的中した。生きたフランス語や社会、文化に接しているうち、「最初の自信めいたものは跡かたもなく消えてしまいました」。彼の苦闘が始まる。それは哲学者として思索を深めていく過程でもあった。結局、76年の死までフランスにとどまった。

  在仏日本人に「パリ症候群」があとを絶たないという。あこがれのパリで暮らし始めたものの、うまく適応できず、精神的トラブルを起こしてしまう人たちだ。90年代にパリ在住の精神科医太田博昭さんが命名した。最近、仏紙も話題にしたという。

  「フランスはあまりに遠し」という時代ではもはやない。だが、どんなに身近になってもパリには「有史以来、日本人が異文化と接触した時のあらゆる幻想が、凝縮されて盛り込まれている」と太田さん(『パリ症候群』トラベルジャーナル)。

  「症候群」に苦しみつつ、あえて深みにはまることで新しい地平を開いたのが森有正だったといえよう。

  「不便でも自然の中で暮らす方がいい」。そう語っていたジャック?モイヤーさんは昨年1月、74歳で亡くなった。長年、三宅島で暮らし、海洋生物の研究や自然保護に取り組んできた人だ。

  米カンザス州出身で1950年代に来日して以来、三宅島の魅力にとりつかれ、やがて住みついてしまった。住民に慕われ、子どもたちの野外学習にも熱心だった。96年には「朝日 海への貢献賞」の「ふれあい学習賞」が贈られた。

  全島避難で東京都北区の都営アパートに移ったが、昨冬、自室で遺体が発見された。自ら命を絶ったらしい。モイヤーさんのようについに帰島を果たすことなく島外で亡くなった人は約200人にのぼる。

  一足先に帰島した集団もいる。国の天然記念物で島のシンボルともいえるアカコッコをはじめ多くの鳥類だ。噴火直後は激減したとみられていたが、2年後の調査では大幅に回復していた。近くの神津島に避難していたらしい。昨年は、一時帰島した住民が家の庭に小鳥たちが集まっているのを見て「もう大丈夫」と話し合ったという。

  三宅島の名物の一つに太鼓がある。長い伝統を誇る「神着木遣(かみつききやり)太鼓」である。世界各地で演奏活動をする「鼓童」が伝授を受け、演目に取り入れたことで広く知られるようになった。都内などで開催されてきた「島民ふれあい集会」ではしばしば木遣太鼓が登場、涙ぐみながら聴き入る人も少なくなかった。太鼓の音が島に復活するのはいつの日か。

  4年半の空白を取り戻す。容易ではないだろうが、着実に進んでほしい。

  英語では、bullet(弾丸)と、ballot(投票用紙)は、見た目も、発音も似ている。英紙ガーディアンは、イラクの国民議会選挙の社説の見出しを「弾丸と投票用紙」と付けていた。

  確かに、武装勢力は「投票する者には弾丸を」という意味のことを言っていた。すぐ近くで迫撃砲による攻撃と銃撃戦があった投票所に来た高齢の女性が言ったという。「私たちはイラクの将来のために犠牲になる」。選挙という仕組みに、これまでにない形を付け加えた今度の選挙とは何だったのか。名前を付けるとしたら、どう呼んだらいいのだろう。

  まず「命がけ選挙」ではあった。実際、多くの人たちが、テロ攻撃によって命を奪われた。武装勢力側も命がけで選挙を阻止しようとし、一部は自爆テロに走った。守る側も含め、異様な「武装選挙」だった。

  選挙を推進する側からは「一里塚選挙」ないし「試金石選挙」だった。米軍の占領からイラク国民の自治へと至る道筋の中で、選挙ができる段階にまでたどり着いたことを確認する。そして世界へと訴える。選挙後「際立った成功」と語ったブッシュ米大統領にとっては、肝心要の「アピール選挙」だった。

  「目隠し選挙」でもあった。これほど世界の注目を集めた選挙を、世界のほとんどのメディアが、現場で見て伝えることができなかった。投票するかどうかが、宗教上の立場であらかじめ分けられた点では、総選挙ではなく「半選挙」だった。

  今後も気がかりだが、「内戦予備選挙」などという名だけは付いてほしくない。

  最近の言葉から。「戦後60年」の年が明けた。終戦の年に生まれた作家、池澤夏樹さんが述べる。「いちばん大事なのは、この六十年間、日本は戦争をしなかったということだ。明治維新の後で、これほど長く続いた平和はなかった」。

  詩人の長田弘さんは、言葉の力について記す。「何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です」。

  阪神大震災からは10年がたった。あの日生まれた、神戸の小学4年生菅原翔平君に、父の敏郎さんはこう伝えたいという。「たくさんの命が消えたあの日、多くの人の助けで、君は生を授かった。この先どんな困難があっても、立ち向かっていかなければならない」。

  「この10年間」について、国際経済学者ポール?クルーグマンさんが述べる。「『自由な市場』『自由な資本移動』こそ最良だと言われ続けてきた。私たちは今この熱病から目を覚まし、忘れていたものを思い出すべきだ」。

  ブッシュ米大統領が2期目の就任演説をした。「我が国の自由が生き残るかどうかは他国に自由が広がるかどうかにかかっている……我々は必要とあれば武力を行使し、我々自身と友好国を守る……米国の決意を試すという愚かな選択をした者たちは、決意の固さを思い知らされた」。

  大津波がスリランカを襲った日、南部の都市ゴールで、女の赤ちゃんが生まれた。「エンジェラシェハニ」と名付けられた。天使の意味という。