Archive for 11月, 2005

 家の薬箱に、タミフルがある。今年初め、家族がインフルエンザにかかった折に処方された残りだ。淡い黄色の小さなカプセルがこれほどまでに世界の注目を浴びるとは思っていなかった。

 スイスのロシュ社が独占供給する薬である。新型インフルエンザが懸念される中、事実上ただ一つ有効な内服薬として各国が備蓄に乗り出し、テレビや新聞が連日取り上げている。

 英紙は、「効能も品質も同じ薬を量産するには3年かかる」というロシュ社の主張を伝えた。台湾では「わずか18日でタミフルの開発に成功」と報じられた。「特許など構わず、独自に作れ」と訴える声は途上国に多い。

 あおりで、中華料理の香辛料でおなじみの八角という実が、産地の中国で高騰している。タミフルの合成に必要なシキミ酸が八角から抽出されると報道され、秋から出荷が急増した。ただし八角をそのまま食べても予防には役立たない。

 前世紀で最悪のインフルエンザは、1918年のスペインかぜだ。世界の人口の半数が感染した。当時の本紙には「感冒猛烈、東京で死亡千三百」「薬の本場ドイツから輸入届かず」などの記事がみえる。実効散、消熱散、守妙といった名の薬の広告も目立つ。在庫不足で値上がりした薬があれば、副作用の訴えから細菌混入がわかって販売を禁止された薬もある。

 以来80余年、医学はめざましく進歩したはずなのに、世界的な大流行への備えはあまり進歩していないようにみえる。たった一社の一つの薬に、人類の命運を背負わせるような方策しかないのだろうか。

 「民主主義の強さを確認するものだ」。京都での記者会見で、ブッシュ米大統領は、先の総選挙での小泉自民党の圧勝について、そう述べた。「日本は改革すべきかどうかを問いかけ勝利した」に続くくだりだ。首相を祝福したいのは分かるが、やはり違和感がある。

 小泉首相が国民に問いかけたのは、「日本は改革すべきかどうか」というよりは「郵政民営化法案に賛成か反対か」だった。国民の関心がそう高くなかった、たった一つの法案への賛否を問う異例の総選挙だった。それを評して、なぜ「日本という国の改革を問うた」となるのだろうか。

 単に「改革が必要かどうか」なら必要と答えるのは当然で、何をどう改革するのかで国民の意見は分かれる。その議論が尽くされてはじめて、民主主義の強さが確認されるのではないか。

 この日、国会の信頼にまでも及びかねない事件が摘発された。酒販店でつくる「全国小売酒販組合中央会」の元事務局長を、警視庁が業務上横領容疑で逮捕した。この会の関連する政治団体では、多額の使途不明金が政界に流れたのではないかとの疑惑が浮上している。

 その政治団体の元幹部が述べたという。「業界生き残りの法律を金で買うという判断だった」。酒の販売の免許制度の見直しを巡る動きというが、そんな金の受け渡しが事実なら、絵に描いたような政治の腐敗ぶりだ。

 ブッシュ大統領はこうも述べた。「日本は自由と民主主義を広める良き友人だ」。米国も日本も、民主主義の強さを常に点検していないと、独善に陥ることになる。

 皇后さまは20日、71歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、宮内記者会の質問に文書で回答された。全文は以下の通り。



 ――戦後60年の節目にあたる今年、両陛下は激戦地サイパンを慰霊訪問されました。今後、戦争の記憶とどのように向き合い、継承していきたいとお考えですか。


ご回答


 陛下は戦後49年の年に硫黄島で、50年に広島、長崎、沖縄、東京で、戦没者の慰霊を行われましたが、その当時から、南太平洋の島々で戦時下に亡くなられた人々のことを、深くお心になさっていらっしゃいました。外地のことであり、なかなか実現に至りませんでしたが、戦後60年の今年、サイパン訪問への道が開かれ、年来の希望をお果たしになりました。



 サイパン陥落は、陛下が初等科5年生の時であり、その翌年に戦争が終りました。私は陛下の1年下で、この頃〈ころ〉の1歳の違いは大きく、陛下がかなり詳しく当時の南方の様子を記憶していらっしゃるのに対し、私はラバウル、パラオ、ペリリュウ等の地名や、南洋庁、制空権、玉砕等、わずかな言葉を覚えているに過ぎません。それでもサイパンが落ちた時の、周囲の大人たちの動揺は今も記憶にあり、恐らく陛下や私の世代が、当時戦争の報道に触れていた者の中で、最年少の層に当たるのではないかと思います。そのようなことから、私にとり戦争の記憶は、真向〈まむ〉かわぬまでも消し去ることの出来ないものであり、戦争をより深く体験した年上の方々が次第に少なくなられるにつれ、続く私どもの世代が、戦争と平和につき、更に考えを深めていかなければいけないとの思いを深くしています。


 戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ、今年8月15日の終戦記念日の式典は、この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も、一年一年年を加え、兄弟姉妹の世代ですら、もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います。


 経験の継承ということについては、戦争のことに限らず、だれもが自分の経験を身近な人に伝え、また、家族や社会にとって大切と思われる記憶についても、これを次世代に譲り渡していくことが大事だと考えています。今年の夏、陛下と清子〈さやこ〉と共に、満蒙開拓の引揚者が戦後那須の原野を開いて作った千振〈ちふり〉開拓地を訪ねた時には、ちょうど那須御用邸に秋篠宮と長女の眞子も来ており、戦中戦後のことに少しでも触れてほしく、同道いたしました。眞子は中学2年生で、まだ少し早いかと思いましたが、これ以前に母方の祖母で、自身、幼時に引揚げを経験した川嶋和代さんから、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を頂いて読んでいたことを知り、誘いました。初期に入植した方たちが、穏やかに遠い日々の経験を語って下さり、眞子がやや緊張して耳を傾けていた様子が、今も目に残っています。


 ――両陛下はご病気を抱えながら公務に励まれ、皇太子妃雅子さまは療養からまもなく丸2年が経ちます。昨年5月には皇太子さまの「人格否定発言」があり、以後皇室についてのさまざまな報道がなされ、両陛下や皇太子さま、秋篠宮さま、紀宮さまはそれぞれ記者会見や文書で考えを示されました。公務のあり方や世代間の考え方の違いといった問題や、現在進められている皇位継承をめぐる議論に国民は注目しています。ご一家のご様子についてとともに、皇后さまは皇室の現状とその将来についてどう感じ、どう願っておられるかをお聞かせください。


ご回答


 陛下は、引き続き月1度ホルモン療法を受けていらっしゃいます。少し副作用があり、以前よりお疲れになりやすく、また、発汗がおありになります。また、この療法を始めるにあたり、担当医から筋肉が次第に弱まる可能性も示唆されており、陛下は御手術前と変わらず、今も早朝の散策に加え、御公務で宮殿にいかれる時もできるだけお歩きになっていらっしゃいます。宮殿で行われる認証式は夜分になることが多いのですが、そのような時も、暗い池端の道を、大抵は徒歩でお帰りになります


 先々週には、東宮が一家して葉山の御用邸に訪ねて来てくれ、うれしく、一緒によい時を過ごしました。雨がちで気の毒でしたが、晴れ間を見て浜にも出、敬宮〈としのみや〉は楽しそうに砂で遊びました。東宮妃が段々と元気になっている様子で、本当にうれしく思います


 現在のもつ皇室の問題については、陛下が昨年のお誕生日の会見で詳しくお話しになっており、新たに私がつけ加えることはありません。できるだけ静かな環境をつくり、東宮妃の回復を見守っていきたいと思います。


 ――紀宮さまの嫁がれる日が近づきました。初めて女のお子様を授かった喜びの日から、今日までの36年の歩みを振り返り、心に浮かぶことや紀宮さまへの思いを、とっておきのエピソードを交えてお聞かせください。そして皇族の立場を離れられる紀宮さまに対して、どのような言葉を贈られますか


ご回答


 清子は昭和44年4月18日の夜分、予定より2週間程早く生まれてまいりました。その日の朝、目に映った窓外の若葉が透き通るように美しく、今日は何か特別によいことがあるのかしら、と不思議な気持ちで見入っていたことを思い出します。


 自然のお好きな陛下のお傍〈そば〉で、2人の兄同様、清子も東宮御所の庭で自然に親しみ、その恵みの中で育ちました。小さな蟻〈あり〉や油虫の動きを飽きることなく眺めていたり、ある朝突然庭に出現した、白いフェアリー リング(妖精の輪と呼ばれるきのこの環状の群生)に喜び、その周りを楽しそうにスキップでまわっていたり、その時々の幼く可愛い姿を懐かしく思います。


 内親王としての生活には、多くの恩恵と共に、相応の困難もあり、清子はその一つ一つに、いつも真面目に対応しておりました。制約をまぬがれぬ生活ではありましたが、自分でこれは可能かもしれないと判断した事には、慎重に、しかしかなり果敢に挑戦し、控え目ながら、闊達〈かったつ〉に自分独自の生き方を築いてきたように思います。穏やかで、辛抱強く、何事も自分の責任において行い、人をそしることの少ない性格でした。


 今ふり返り、清子が内親王としての役割を果たし終えることの出来た陰に、公務を持つ私を補い、その不在の折には親代りとなり、又は若い姉のようにして清子を支えてくれた、大勢の人々の存在があったことを思わずにはいられません。私にとっても、その一人一人が懐かしい御用掛(ごようがかり)や出仕〈しゅっし〉の人々、更に清子の成長を見守り、力を貸して下さった多くの方々に心からお礼を申し上げたいと思います。


 清子の嫁ぐ日が近づくこの頃、子どもたちでにぎやかだった東宮御所の過去の日々が、さまざまに思い起こされます。


 浩宮(東宮)は優しく、よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。年齢の割に若く見える、と浩宮が言ってくれた夜、「本当は年相応だからね」と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません。そして清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした。これは現在も変わらず、陛下は清子のことをお話になる時、「うちのドンマインさんは ???」などとおっしゃることもあります。あののどかな「ドンマーイン」を、これからどれ程懐かしく思うことでしょう。質問にあった「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝、心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが、私の母がそうであったように、私も何も言えないかもしれません。


 *おことわり ( )は原文にあるルビや注釈。〈 〉は本紙によるルビ。原文の漢数字は洋数字に置き換えました

 ――これまでに、誕生日に合わせて宮内記者会の質問に答えていただいてきましたが、これが最後になります。天皇家の長女として特別な立場で過ごされ、喜びや悲しみなど様々あったと思います。36年間を振り返り、心に残ることを、とっておきのエピソードを含めてお聞かせください。


ご回答


 36年間、大きな病を得たり事故にあったりすることなく元気に今日まで過ごすことができたことは、とても幸いでした。特殊な立場にあって人生を過ごしたことは、恵まれていた面も困難であった面も両方があったと思いますが、温かい家庭の中で、純粋に「子供」として過ごすことができ、多くの人々の支えを得られたことは、前の時代からは想像もつかないほど幸せなことであり、そのような中で生活できたことを深く感謝しております。一つ二つの心に残る思い出をエピソードとともに取り出してお話しするのは大変難しいことですが、やはり私にとって本当に大きかったと思えるのは、この36年を両陛下のお側(そば)で、そのお姿を拝見しながら育つことができたことではなかったかと思います。


 物心ついた頃から、いわゆる両親が共働きの生活の中にあり、国内外の旅でいらっしゃらないことが多かったということは、周囲にお世話をしてくれる人がいても、やはり時に寂しく感じることもありました。しかし、私には兄弟があり、また子供なりに両親のお務めの大切さを感じ取っていたためもあるのでしょうか、こういうものだと考えていた部分もあったように思います。考えてみますと、当時両陛下の外国ご訪問は全て各国元首が国賓として訪日したその答礼として行われていたものであり、しかも昭和天皇の外国ご訪問が難しかったため、皇太子の立場でありながら天皇としての対応を相手国に求めるご名代という極めて難しいお立場の旅でした。1回のご訪問につきイラン?エチオピア?インド?ネパールというように遠く離れた国々をまわらなければならないため、ご訪問が1ヶ月に及ぶことも、年に2回のご訪問が組まれることもあり、一度日程が決まれば、それを取りやめることは許されませんでした。同時に、国内においても日本各地の重要な行事へのご出席要望は強く、またその折には両殿下のご希望により、同年代の若い人たちとのご懇談が各地で行われるなどしていましたので、本当に大変な中でご出産と育児に当たられたのだと思います。幼い間は、もちろん両陛下のそうしたご苦労は何も分からずに、極めてのんびりと与えられた環境の中で過ごしておりましたし、両陛下は、皇族としての在り方を言い聞かせたり諭したりして教えることはなさらずに、子供時代には子供らしく自然に育つことを大事にしてくださいましたので、果たして私がいつごろ自分の特殊な環境に自覚を持つようになったのか、今思い出してもはっきりと覚えておりません。ただ、当時皇太子同妃両殿下でいらっしゃった両陛下の、お立場に対する厳しいご自覚や国民の上を思い、平和を願われるお姿、そして昭和天皇や香淳皇后に対する深い敬愛のお気持ちなどは、日常の様々なところに反映され、自然に皇族であることの意味を私に教えたように思います。何よりありがたかったのは、お忙しく制約も多かったはずのご生活の中で、両陛下がいつも明るくいてくださり、子供たちにとって、笑いがあふれる御所の日々を思い出に持つことができたことでした。


 自分の皇族としての役割や公務について、初めて具体的に深く考えるようになった時期は、高校に入った頃ではなかったかと思います。その頃には、既に成人を迎えておられた皇太子殿下はもちろんのこと、秋篠宮殿下も公務を始められ、まだ時間はあるものの、自分自身の成年皇族としての役割について漠然とした意識を持つようになっていました。日本では皇族の子供たちは、基本的に成人になるまでいわゆる公務に携わることはなく、成人してから急に公務に入るようになるため、ごく自然に様々な公務をこなされる兄宮二人のお姿を拝見しつつ、内親王としての自覚はあっても具体的な皇族としての仕事に触れたことのない私には、成人してからの全てが大変不安な時期でもありました。そのような折に両陛下とご一緒に出席した高校総合体育大会は、大変印象深いものでございました。それは、兄宮二人と同様、私にとってこれが成人するまでに両陛下と地方におけるご公務でご一緒できる唯一の機会であったからです。幼い頃からご両親陛下と離れて過ごされ、他の皇族より早い18歳で成人を迎えご公務におつきになった陛下のお時代を顧みますと、そのような機会を頂けるだけでも大きな恩恵であったと思います。しかし当時は、この機会に両陛下のお仕事の全てを吸収しなければというような、今思いますと少し笑ってしまいそうなほど、かなり切羽詰まった感じを抱きつつ高校総体に臨んだことを記憶しております。結局、高校3年間の毎年を高校総体にご一緒させていただきましたが、2年目には皇后さまがご手術後でご欠席になられたため、陛下と二人だけの旅となり、それもまた忘れがたい体験でございました。もちろん、高校総体だけで、当時皇太子同妃両殿下でいらした両陛下の日々のお務めに寄せるご姿勢が全てわかったわけではありませんでしたし、何よりも両陛下のお仕事の全般すらつかめていない時代でございましたが、ご訪問の先々で両陛下が人々に対されるご様子や細やかなお心配り、暑さの中、身じろぎもされず式典に臨まれるお姿などより、本当に多くのことを学ばせていただいたように感じております。振り返りますと、皇族としての公務はもちろんのこと宮中行事にも宮中祭祀(さいし)にも出席することのなかったこの頃は、両陛下がお忙しい日々のご公務を欠くことなくお務めになる傍らで、私たち子供たちの話に耳を傾けられ、朝には皇后さまがお弁当を作ってくださり、学校に出掛けるときにはお見送りくださるという日常が、どんなに恵まれていたかということにすら気が付いてはいなかったものです。


 昭和64年1月、昭和天皇が崩御されました。私にとって、身近な親族を失う初めての悲しみを体験しただけでなく、昭和天皇の最後の日々を心を尽くして見送られ、お後に残していかれた様々な事柄を丁寧に片づけられ、新しい御代(みよ)を引き継がれる、という両陛下の一連のご様子が深く心に残りました。そしてまだ未成年ではありましたが御大喪、ついで即位礼、大嘗祭に参列し、昭和から平成への移り変わりの儀式すべてを目の当たりにできたことは本当に貴重な体験でした。


 皇族としての最初の地方公務は、兵庫県で行われた進水式出席であり、初めて言葉を述べたのは、陛下(当時の皇太子殿下)の名代として出席した豊かな海づくり大会(茨城県)においてで、どちらも成人になる少し前のことでした。以来、様々なお仕事をさせていただきました。皇族の務めの分野は多岐に渡るので、その意味での大変さはありますが、幼い頃から両陛下が、私たち子供たちをなるべく様々な世界に触れさせてくださったことも、務めを果たす上の心強い土台になってくれました。軽井沢など私的な旅の折々に、障害児の施設につれていっていただき、子供たちと一緒に自由に遊ばせていただいたこと、沖縄豆記者の子供たちとの交流にご一緒させていただいたこと、海外の日系移住者やハンセン病の歴史を話してくださったこと、また、伊勢神宮、熱田神宮、熊野大社を始め各地の神社参拝のため、皇后さまと二人だけの旅を行ったことなどが、子供の記憶としてではありますが私の意識にとどまり、後々、公務や宮中祭祀などに当たる折の備えになってくれたのではないかと感じております。


 国内外の務めや宮中の行事を果たす中には、失敗も後悔もあり、未熟なために力が尽くせなかったと思ったことも多々ありました。また、以前にも述べましたが、目に見える「成果」という形ではかることのできない皇族の仕事においては、自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され、いつも行事に出席することだけに終始してしまわないよう自分に言い聞かせてきたように思います。どの公務も、それぞれを通して様々な世界に触れ、そこにかかわる人々の努力や願いを知る機会を得たことは新鮮な喜びと学びの時でした。また、第一回目から携わることになったボランティアフェスティバルや海洋文学大賞を始め、幾つかの行事が育ち、また実り多く継続されていく過程に立ち会うことができたのは幸せであり、そうしたものは、訪問しご縁があった国々と同様、この先も心のどこかに掛かるものとしてあり続けるのだろうと思います。


 両陛下のお姿から学んだことは、悲しみの折にもありました。事実に基づかない多くの批判にさらされ、平成5年ご誕辰(たんしん)の朝、皇后さまは耐え難いお疲れとお悲しみの中で倒れられ、言葉を失われました。言葉が出ないというどれほどにか辛く不安な状態の中で、皇后さまはご公務を続けられ、変わらずに人々と接しておられました。当時のことは私にとり、まだ言葉でまとめられない思いがございますが、振り返ると、暗い井戸の中にいたようなあの日々のこと自体よりも、誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすらに生きておられた皇后さまのご様子が浮かび、胸が痛みます。


 私が日ごろからとても強く感じているのは、皇后さまの人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようと思うお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、そうした多くは、誰に頼ることなくご自身で癒やされるしかないものもあったと思いますし、口にはされませんが、未だに癒えない傷みも持っておられるのではないかと感じられることもあります。そのようなことを経てこられても、皇后さまが常に人々に対して開けたお心と信頼感を失われないことを、時に不思議にも感じていました。近年、ご公務の先々で、あるいは葉山などのご静養先で、お迎えする人々とお話になっているお姿を拝見しながら、以前皇后さまが「人は一人一人自分の人生を生きているので、他人がそれを充分に理解したり、手助けしたりできない部分を芯(しん)に持って生活していると思う。???そうした部分に立ち入るというのではなくて、そうやって皆が生きているのだという、そういう事実をいつも心にとめて人にお会いするようにしています。誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互いに認め合いながら、懐かしみ合い、励まし合っていくことができれば???」とおっしゃったお言葉がよく心に浮かびます。沈黙の中で過去の全てを受け入れてこられた皇后さまのお心は、娘である私にもはかりがたく、一通りの言葉で表すべきものではないのでしょう。でも、どのような人の傍らにあっても穏やかに温かくおられる皇后さまのお心の中に、このお言葉がいつも息づいていることを私は感じております。36年という両陛下のお側で過ごさせていただいた月日をもってしても、どれだけ両陛下のお立場の厳しさやお務めの現実を理解できたかはわかりません。他に替わるもののないお立場の孤独を思うときもありますが、大変な日々の中で、陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿、皇后さまが喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は、私がこの立場を離れた後も、ずっと私の心に残り、これからの日々を支える大きな力になってくれると思います。そうした両陛下との日々に恵まれた幸せを、今深く感謝しております。

 天皇、皇后両陛下は25日、来月7日からのアイルランド立ち寄りとノルウェー公式訪問を前に、皇居宮殿で記者会見された。会見のやり取りは以下の通り。(地名 人物名などの固有名詞については宮内庁の表記による)

 天皇陛下 兵庫県で大きな列車事故があり、多くの人々が亡くなり、また、多くの人々がけがをされました。本当に心を痛めております。遺族の人々のご心痛はいかほどかと察しております。けがをされた人々が良い治療を受け、回復されることを切に願っております。


両陛下に伺います。今回、ノルウェーとアイルランドは共に20年ぶりのご訪問と聞いております。両国に対する印象とともに、今回のご訪問で楽しみにされていること、また3年ぶりの海外旅行を前にした現在のご体調をお聞かせ下さい。


 天皇陛下 回答については不十分な点があるといけないと思いまして書いてきましたので、それを読みながらお話したいと思っております。私がノルウェーを訪れたのは2回あります。最初は1953年、英国女王の戴冠式(たいかんしき)にあたって、戴冠式後、欧州諸国を回ったときのことです。もう今から52年がたちました。オスロの王宮にホーコン7世国王とオラフ皇太子をお訪ねし、その後、離宮で午餐(ごさん)を頂きました。ホーコン7世国王は100年前、ノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消したときに、デンマークの王族から迎えられて国王になられた方です。私がお会いしたときはすでに在位期間50年近くに及んでいました。第1次世界大戦前から国王でいらしたわけであり、在位中の様々なご経験を伺わなかったことを残念に思っております。なお、オラフ皇太子に初めてお目にかかったのは、英国女王の戴冠式のときで、皇太子妃もご一緒でした。皇太子は昭和天皇より2つ年下という、19歳の私とは親子の年齢差があるにもかかわらず、いつも丁重に接してくださったことが印象に残っています。このときお会いした皇太子妃は、その後、ノルウェーを訪問したときには病院にお入りになり、お亡くなりになったことを残念に思ってます。


 この後、オスロから飛行機で西に飛び、スタヴァンゲル ハウゲスンド間を船で渡り、そこからイエイロまでフィヨルドや木の生えていない高原を見ながら自動車で旅し、ノルウェーの自然景観を味わいました。平和条約発効の1年後に戦争の痛手を大きく受けた日本から訪れた者にとって、ノルウェーで訪れた各地が豊かで美しく感じられたことが印象に残っています。2度目は20年前のことになりますが、オラフ国王が日本を国賓としてご訪問になったことに対する答訪として、当時、皇太子であった私が、皇太子妃とともに昭和天皇の名代として訪問したときのことです。このときはデンマークの訪問を終えた週末に、当時のハラルド皇太子ご夫妻とベルゲン方面のフィヨルドを船で回り、楽しい一時を過ごしました。オックスフォード大学に留学中の現在の皇太子も招いて下さり、本当に心のこもったお持てなしを頂きました。その後のオスロの公式訪問では、高齢のオラフ国王が皇太子ご夫妻とともにほとんどの行事にご一緒していただきました。


 今年は日本との国交が樹立して100周年になります。これを記念して、両国間の理解を深める様々な行事が行われると聞いております。この記念の年にノルウェーを訪問することをうれしく思っております。この度の訪問を通して、両国の相互理解と友好関係の増進に資するよう努めたいと思っております。この度初めて訪れるトロンハイムはホーコン7世の戴冠式が行われた所であり、歴史を顧みつつノルウェーの理解を深めてまいりたいと考えています。国王陛下には今月初めに手術をお受けになり、ご療養中ですが、今回の訪問中にお会いすることができるほどご回復になっていると聞き、うれしく思っております。王妃陛下にはご心痛のこととお察ししてますが、先日お会いしたホーコン摂政殿下とともに行事にお出になり、再びお目にかかれることを楽しみにしております。


 アイルランドを訪れたのは2回あります。ただ、1回目は1953年に英国女王戴冠式に参列したのちに欧州諸国を巡り、米国へ向かう飛行中の給油のためシャノン空港に着陸したときです。2回目はヒラリー大統領が国賓として日本をご訪問になったことに対する答訪として、当時、皇太子であった私が皇太子妃とともに、昭和天皇の名代として訪問したときです。スペイン訪問を終えて、非公式にアイルランド西部で週末を過ごし、週が明けてからダブリンでヒラリー大統領にお目にかかるなど公式行事に臨みました。アイルランドで印象に残っていることは様々ありますが、訪れた所では、西部の木もないバレンの厳しい自然景観やハイキングの居城があった緑のタラの丘などは、印象に残っています。この度のアイルランド訪問は時差調節を兼ねた非公式の訪問ですが、先日、日本でお会いしたマッカリース大統領閣下と夫君に再びお会いすることをうれしく思っております。この前の訪問は3月の初めでしたが、この度は5月の初めであり、緑豊かなアイルランドを味わえることを楽しみにしております。


 皇后さま 私もこれまで記憶に頼ってお話しておりましたけれども、70になりましたので、今回からは書いたものに頼ってお話をさせて頂きます。前回の北欧4か国の訪問からすでに20年が経ち、この度、再びノルウェーを訪問するにあたり、改めて往事のことを懐かしく思い出しております。先の訪問の折り、当時の国王オラフ陛下は、そのころまだ東宮、東宮妃であった陛下と私をオスロ空港で迎えて下さり、滞在の全期間を通じて手厚く持てなして下さいました。ちょうど、昭和天皇に近いお年ごろの国王陛下にお連れ頂いて、フログナー公園でヴィーゲランの彫刻を見た夏の一時がそのとき、とりわけ印象深かったモノリッテンという作品の記憶とともに、忘れられない思い出となって私の心に残っております。


 このときの訪問ではオスロでの公式行事に先立ち、4か国訪問のちょうど中日にあたる週末を西海岸のベルゲンで過ごしましたが、当時、皇太子でいらした現国王陛下が妃殿下とともにオスロからいらして下さり、美しいソグネフィヨルドの航海を楽しませて下さいました。途中、小さな島に立ち寄ったときに、ちょうどその島で公演があったのか、もしかしたら私どものために計画して下さったのか、役者さんの一団がバイキングの服装で私ども一行を襲ってくれました。素晴らしい経験でした。


 ご夫妻はその後の公式日程においても、国王陛下とともに常に私どもに付き添って下さり、こうした訪問を成功に導くための大きな助けとなって下さいました。皇室、王室間のきずなに加え、厳しいけれども、美しいノルウェーの自然やその懐ではぐくまれた文化や芸術、国民性とも思われるノルウェーの人々の堅実な生活態度にも心をひかれてまいりました。先述したヴィーゲランを知ったのは前回の訪問のときでしたが、グリークやビヨルンソンの名を知ったのは、中学、高校時代のことでした。グリークの「最後の春」や「子守歌」などのピアノの小曲、「シンネエヴェソルバッケン」という美しい響きの題を持つ日向丘の少女の物語などを、私はそのころ特にノルウェーの作曲家や作家のものとは意識せず、世界の音楽、世界の文学として愛好し、やがてその魅力ある曲想や文体をノルウェーのものとして認識していったのだと思います。


 1970年の大阪万博でノルウェーは他の北欧の国々と合同でスカンジナビア館を出展いたしましたが、このときすでに今回の愛知万博のテーマである環境問題への認識を強く打ち出しており、ほぼ全館を使って公害への警告をしていたことが思い出されます。このころから北海の油田のことがよく話題に上るようになりましたが、最近になり、この油田のその後の開発に関し、当時のノルウェー政府が経済の過度の石油依存を回避するよう努力していたことを知り、感銘を受けました。ここ10年、20年を振り返っても、オスロ合意やスリランカ、スーダンのおける和平交渉などでノルウェーの国際平和への貢献は世界に知られており、20世紀の初期、赤十字や難民救済の事業に貢献し、ノーベル平和賞を受けたナンセンの理想が、今のノルウェーの国民の間に確かに受け継がれ、すでにこの国の国柄のようにもなっていることを感じます。


 ノルウェーと同じくアイルランドの訪問も20年ぶりのことで、当時を思い起こしますと、様々な美しい思い出がよみがえり、懐かしい気持ちで一杯になります。私の学生時代、聖心でも雙葉でもアイルランドの修道女のお姿を見る機会は多く、直接お教えを受ける機会は少なかったのですが、どなたも魅力的で美しく、今、そのお一人お一人をお名前とともに、思い出します。高校2年のとき、一生にただ一度の経験ですが、劇の主役に選ばれ、聖パトリックの布教が始まる異境時代末期にタラの居城から先ほど陛下がおっしゃったタラです…タラの居城からアイルランドを統べていた族長の王子の役をいたしました。


 前回のアイルランドの訪問のとき、このタラの地を陛下とご一緒に訪ね、かつてここで美しいハープの音が響いたと言われるその時代に思いをはせました。国花であるシャムロックを…国花は国の花…シャムロックを土地の子どもたちが摘んで見せてくれたことを思い出します。この聖パトリックの布教とそれに続く時代に作られたと思われる異教とキリスト教の両要素を持つ伝承の物語や、さらに古い、ケルトの諸種族の興亡の中で生まれたと言われる常世の国や妖精の伝説には心ひかれるものがあり、アイルランドの血をひく小泉八雲が日本の各地の伝承に関心を示したことは、この観点からも興味深いことに思われます。


 同じく前回の訪問のときにトリニティー大学で美しい詩の朗読を聞かせて頂きました。その1つはアイルランドの盲目の詩人、ラフタリの「カウンティー メイヨー」の詩で、1回を原文のゲイル語で2回目を英訳で読んで下さいました。私はこれまで多くの詩を読んできたわけではないのですが、このラフタリの詩のように、これまでにいくつかの心打つアイルランドの詩に出会えたことは幸運でした。「2つの川の出会うところ」のようなアイルランドの歌についても、同様のことが申せます。そして一方では、こうした心ひかれる詩や歌を通して私はアイルランドが国として経てきた苦難の歴史多数の国民が国外移住を余儀なくされた大ききんのことや、独立を求めた詩人たちの蜂起(ほうき)の歴史―についても少しずつ知る機会を持つようになり、自分の中のアイルランド像を膨らませてきたように思います。


 この度の訪問ではそれぞれの国の首都に加え、ノルウェーでは古都トロンハイムを、アイルランドではグレンダ ロッホを訪問いたします。オスロでは国王陛下がご病後にもかかわらず、私的な夕食会に出席されるということで、大層うれしく楽しみにしております。王妃陛下もさぞ、ご心労でいらしたこととお察しいたします。またアイルランドでは日本にいらしたとき、私がヘルペスを煩ってお会いできなかったマッカリース大統領とも、今回このような形でお会いする機会を持てることを幸せに思います。訪問するどちらの国おいても旧知の方々を始めとし、各所でその国の大勢の方々をお会いすることを今から楽しみにしております。


 天皇陛下 体調についての質問がありましたけれども、この前お話ししたのと同じような状況であり、今度の訪問には大丈夫だと思っております。心配している方もあると思いますが、安心して頂きたいと願っています。


 皇后さま 体調についての質問にお答えしますと、体調についてはまだご治療を受けていらっしゃる陛下にお疲れが出ませんよう念じております。私ももうひところのように若くはないので少し心配ですが、よく注意し、つつがなく務めを果たしたいと思います。


天皇陛下に伺います。昨年5月、皇太子殿下が欧州訪問前の会見でされた妃殿下をめぐる、いわゆる「人格否定」発言が発端となり、皇室の方々の外国訪問の在り方が話題となりました。両陛下は皇太子同妃時代から現在に至るまで、多くの国々を訪問され、国際親善に努めてこられましたが、皇室の方々の外国訪問のあるべき姿、果たすべき役割をどのようにお考えでしょうか。


天皇陛下 私どもは皇太子、皇太子妃として多くの国々を訪問しましたが、ほとんどの外国訪問は日本に国賓をお迎えした国に対する答訪であり、その多くは昭和天皇の名代という立場での訪問でした。これは当初は天皇の外国訪問の間の国事行為の臨時代行に関する法律がなかったためでしたが、法律制定後、昭和天皇、香淳皇后の欧州ご訪問と米国ご訪問が実現したのちも、両陛下のご高齢の問題があり、再び、昭和天皇の名代としての外国訪問が始まりました。昭和天皇、香淳皇后の欧州ご訪問までには国賓を迎えたほとんどの国々に対し、私どもは答訪を終えていましたが、その後は国賓の数も多くなり、昭和の終わりには相当数の未答訪国が残っていました。平成になってからは国賓に対する答訪はなくなり、私どもの外国訪問は、政府が訪問国を検討し、決定するということになりました。


 このように天皇の外国訪問の形も時代に伴って変遷を経、現在の私どもの外国訪問は、この度と同様にほとんどすべて、国際親善のための訪問となっています。国際親善の基は、人と人との相互理解であり、その上に立って友好関係が築かれていくものと考えています。国と国との関係は、経済情勢など良いときも悪いときもありますが、人と人との関係は国と国との関係を越えて続いていくものと思います。この度の訪問が訪問国の人々と日本の人々との相互理解と友好関係を深める上に、少しでも役に立てばうれしいことです。


――両陛下に伺います。今回のノルウェーで、即位後、王室のある欧州の国々をすべて訪問されることになります。各国の王室では一つの例として、男女平等に王位を継承できる動きが広がるなど、時代とともに変化してきています。今後の皇室を考えていく上で、これまでの欧州の各王室とのご交際の中から参考になることなどがありましたらお聞かせ下さい。


天皇陛下 私が欧州の各王室の方々と知り合うようになったのは今から50年以上前、私の19歳のときに、英国女王の戴冠式に参列した機会でした。戴冠式には国王や大統領は出席しませんが、皇太子や王族などそれぞれの国から名代が参列します。その中には後年、度々お会いする、当時の皇太子、王弟でいらしたノルウェー国王、ベルギー国王、ルクセンブルク大公もいらっしゃいました。戴冠式参列後、欧州諸国を訪ね、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンで国王や女王にお目にかかりました。特にベルギーでは、お住まいのラーケン宮に2晩泊めて頂き、私より3つ年上のボードワン国王の手厚いお持てなしを頂きました。そのようなことから、その後も欧州やアフリカを訪問する機会には、当時、皇太子妃であった皇后とともに時差調節も兼ねてラーケン宮に泊めて頂き、何回か両陛下とお話する機会を持ちました。あるときは国王、王妃両陛下がオランダのベアトリックス女王ご夫妻をご一緒に招いて下さり、楽しい一夜を過ごしたこともありました。


 各国で王室の制度は異なっており、スウェーデンのように近年に至って日本に最も近い憲法を持ち、国王が国政にほとんどかかわることのなくなった国もあれば、隣のノルウェーのように毎週、国王主宰の下に、閣議が開かれる国もあります。そのスウェーデンも私が初めて訪問したときには、現国王の祖父にあたられるグスタフ6世の下で、閣議が開かれていたということを聞いております。このように国によって、制度も王室の在り方も異なり、また歴史に伴う変遷も見られますが、国民の幸せを願い、力を尽くしていくという点では、日本の皇室も欧州の王室も一致しており、様々なことで共感を覚えます。私は日本の皇室については過去の日本を振り返り、私どもがこれまでに経験してきたことをもとに、国民と心を共にすることを念頭に置きつつ、望ましい在り方を求めていきたいと思っています。


皇后さま 欧州の王室に限らず、アジアや中東の王室も含め、各国王室とのご交際からはこれまでたくさんの事を学んでまいりました。それらの事は、私の考え方や生き方にある種の幅を加えてきたと思いますが、こうした恩恵にも増して、私がいつも自分の大きな喜びとし、大切にしてきたのは、世界各地の王室の方々の長年にわたるご友情そのものではないかと思っております。今、親しい王室の方々の多くが、現代の激しく移り変わる社会の中で王制がそれぞれの国の好ましい発展にどのように寄与していけるかを真剣に考えておられます。こうした意味で私どもは離ればなれに暮らしていても、同じ目標に向かって生きており、その同じ志の中でお互いを支え合い、励まし合っているように感じております


 今の質問にあった「皇室の今後にとり、参考になること」と申しますのが、皇室制度や組織のことを指しているとすると、私の答えは少し外れたお答えをしてしまったかもしれませんが、私にとっての王室、皇室間のお付き合いについての気持ちのみを述べさせて頂きました。各国の王室や皇室がそれぞれの社会において成熟し、国民の中により深く内在し、国の安定に寄与していくことができ、お互いにさらにふさわしい同志として友情の質を高め合って行くことができればと願っています。


――天皇陛下にお伺いいたします。ご存じの通り、世界の人々は天皇、皇后両陛下、及び皇族の方々の日々のお過ごしされておられる生活環境に対し、非常に高い関心を持っています。しかしながら現在の状況、つまり我々外国メディアは天皇、皇后両陛下、及び皇族の方々の外国ご訪問の際の記者会見のみ参加できる機会しか与えられておりません。外国メディアと接する機会を更に多く増やされるというお考えはいかがでしょうか。


天皇陛下 皇室の活動について事実に基づいた正しい報道がなされることは極めて大切なことだと思います。ただ、メディアとの関係については、国によって様々な習慣や考え方があり、この問題はそれらを踏まえて宮内庁が扱っていますので私からこれ以上触れることは控えたいと思います。


――天皇陛下にお伺いいたします。読売新聞の調査によると学生の過半数は国歌斉唱と国旗掲揚には興味がありません。去年の秋には天皇陛下ご自身が国歌斉唱と国旗掲揚についてご発言を述べられましたが、学校で国歌斉唱と国旗掲揚を強制させることはどうお考えでしょうか。


 天皇陛下 世界の国々が国旗、国歌を持っており、国旗、国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います。国旗、国歌は国を象徴するものと考えられ、それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません。オリンピックでは優勝選手が日章旗を持って、ウイニングランをする姿が見られます。選手の喜びの表情の中には強制された姿はありません。国旗、国歌については国民1人ひとりの中で考えられていくことが望ましいと考えます。


――20年ぶりのノルウェー、アイルランドのご訪問と思いますが、先ほどのお話の中にもありましたが、アイルランドのタラの丘を訪問されたときはちょっとハプニングなどもあったかと思うのですが、そういった前回の思い出で特に両陛下でお話になっていることがあれば、また、この間、ノルウェーのホーコン摂政殿下がお見えになったときに今回のご訪問について何か具体的にお話になったことがあれば教えて下さい。


天皇陛下 今、タラの話が出ましたけれど、今日の質問のお答えにも二人ともタラを挙げたようにそれぞれタラへの訪問は思い出深いものがありました。ただ、あのときは雨の後だったと思いますけれども、そこで転んでしまったので、それが今のハプニングということになったんではないかと思います。ノルウェーの皇太子殿下とのお話ということですが、まず、やはり国王陛下のご健康のお話を伺いました。それから皇太子殿下がどのようなことを今なさっているかということもお話を伺いました。先ほど、ノルウェーでは国王が閣議を主宰するということに触れましたけれども、これもそのときの話で出たことで、帰るとすぐに閣議に出なければいけないということを言ってらっしゃいました。


 昼過ぎに街の食堂に入る。牛肉を使った料理を探す。いつもは、めん類が多いが、あえて牛を選ぶ。この日は、ハンバーグ定食だけらしい。620円で食券を買う。

 とろりとした褐色のソースのかかった一角を、はしで崩して一口含む。甘みと塩気が程良くて、なかなかうまい。温かいご飯とも合う。もしここで、店主が「いい味でしょ。アメリカ産ですよ」と言ったとしたらと想像する。味そのものは変わらなくても味わいの方はぐらつきそうだ。

 米国産の牛肉の日本への輸入が、年内にも再開される見通しだという。牛海綿状脳症(BSE)の原因物質がたまりにくい月齢20カ月以下の牛に限ったうえで、脳や脊髄(せきずい)などの危険部位を取り除くことが条件だ。

 これを受けて、米農務長官は2日、輸入の対象を「30カ月以下」に拡大するように求める方針を表明した。輸入さえ認めさせれば、あとは交渉次第でなんとでもなるというような強引さを感じさせる。

 農務長官に知らせたいのが、米国産牛肉の輸入についての本社の世論調査の結果だ。「輸入再開に反対」が約3分の2を占めた。「再開されても食べたくない」も同じく3分の2あった。米国産に不信感を持つ人がこれほど多い。様子見といった人もいるだろう。しかし、うまければ、安ければどこのものでもいいというところから一歩踏み出しつつある日本の消費者の姿が読みとれないだろうか。

 「輸入再開、それっ拡大」が通るとは思えない。牛は、幾つかある肉の一つであり、米国は、数ある産地の一つに過ぎないのだから。

 アガサ?クリスティーの推理小説『蒼ざめた馬』(早川書房)には、犯行に使われる毒物としてタリウムが出てくる。登場人物のひとりが言う。「タリウムは味もしないし、水に溶けるし、簡単に手にはいる。大事なのはただ一点、絶対に毒殺を疑われないようにすることです」

 静岡県の高校の16歳の女子生徒が、タリウムを使って母親を殺害しようとしたとして逮捕された。容疑は否認した。女子生徒は、インターネットに公開している自分の日記で、「蒼ざめた馬」に触れていたという。

 警察の調べでは、問題のタリウムは、近所の薬局で「化学の実験に使う」と言って買ったという。極めて毒性の強いタリウムが、なぜ簡単に女子生徒の手に渡ったのだろうか。

 法律では、18歳未満の相手に売ることは禁じられている。女子生徒は、住所、氏名は偽ることなく所定の用紙に書いていたという。目的や年齢を、しっかりと確認する手だてが必要なのではないか。

 警察は、女子生徒の部屋から、英国人のグレアム?ヤングの生涯をつづった日本語訳本を押収した。タリウムなどの劇物を使って、義母や同僚を次々に毒殺した人物だ。女子生徒は、日記に「尊敬する人の伝記」と書いていたという。

 訳本を読んでみた。しかし、幼いころからヒトラーに夢中になり、後に殺人を繰り返したような男が、なぜ「尊敬する人」になったのかは、やはり分からなかった。いわば古めかしい存在である毒薬と、真新しいネットの世界を前にしながら、女子生徒は日々何を思っていたのだろうか。

 作家よしもとばななさんは、アルバイト先で見たバナナの花に魅せられ、筆名に選んだ。「あんなに大きく変なものがこの世にあるなんてそれだけで嬉(うれ)しい」。バナナに寄せる恋情を『パイナツプリン』(角川書店)に書いている。

 いつか熱帯植物園でバナナの花を見たことがある。花は巨大な苞葉(ほうよう)に覆われ、その紅色が目をひく。夜にだけ開き、芳潤な蜜を求めてコウモリが飛来するという。

 花を目にする機会はあまりないが、実ならだれもが知っている。ことし発表された総務省の家計調査で、初めてバナナがくだものの年間購入量の第1位に躍り出た。長らくミカンが1位で、リンゴが2位、バナナは3位だった。

 フルーツの王者となったのを機に、日本バナナ輸入組合は好調の秘密を調べてみた。大半の果物は食後のデザートという脇役なのに、バナナは朝食や間食の主役として消費が伸びていた。ナイフがいらず、栄養源として価格も手頃なことが人気の理由とわかった。

 かつてはメロンと並ぶ高級果実だった。輸入が始まったのは1903年で、台湾産の「仙人」という品種70キロ分が神戸港に運び込まれた。大変な珍品で、庶民の口には入らなかった。戦後も、1963年に輸入が自由化されるまで、子どもが風邪で寝込んだおりでもないと買えないぜいたく品だった。

 そんなバナナも風邪をひく。業界用語で、産地の気温異常や倉庫での温度管理のミスで低温にさらされ、果皮が黒ずんだ状態をいう。家庭でうっかり冷蔵庫に入れられるのも、熱帯育ちには酷な仕打ちである。

 自民党の「新憲法草案」と、在日米軍再編の「中間報告」が相次ぎ発表された。日本の未来を大きく左右しかねない二つの方針は、「軍」を軸にして絡み合っている。

 草案は、自衛隊を「自衛軍」とした。今の憲法には、軍の暴走によって泥沼の戦争になってしまったという思いが込められている。戦後60年たったとはいえ、「軍」への改変に抵抗を覚える人は少なくないはずだ。

 「中間報告」の方は、自衛隊と米軍との「融合」を打ち出した。米軍は究極のところは米国の国益のために存在している。もしも「軍」同士になって「融合」した場合には、米政府の戦略に今以上に左右されないか。

 折しも米国では、チェイニー副大統領の首席補佐官?リビー氏が、イラクの大量破壊兵器(WMD)をめぐる情報に絡んで、偽証罪などで起訴された。補佐官は副大統領とともに「イラクがWMDを持っている」などと主張して、開戦を強硬に推進した。

 パウエル国務長官が、開戦前の国連でWMDの存在について演説した際は、補佐官が中心になって報告を長官に提出した。結局WMDは見つからず、パウエル氏は今秋、この演説を「人生の汚点」だと述べた。ブッシュ政権にとっても大きな「汚点」だが、開戦をいちはやく支持した小泉首相はどう受けとめたのだろうか。

 内閣が改造された。小泉氏にとっては最後の内閣かも知れないが、日本や世界の歩みに、終わりはない。日米関係も重要だが、世界はさらに大きく、重い。やみくもに、「軍」や「融合」の方に傾いてはなるまい。

 フランスの19世紀の作家ビクトル?ユーゴーに「死刑囚最後の日」という小説がある。死刑判決を受けてから断頭台にのぼるまでの男の苦悩を克明につづり、死刑廃止を訴えた。

 同じ19世紀に、ハンガリー出身の画家ムンカーチ?ミハーイは「死刑囚監房」で、処刑を前にした房の様を描いた。うつむいた死刑囚や妻子の脇に、銃剣を持つ看守が立つ。20年ほど前、この絵にまつわる記事で、「権力を表す看守の銃剣の切っ先が光る」と書いた。

 しばらくして、読者から便りをいただいた。そうした役目を果たしてきたか、その周囲にいる人のようだった。「最後の時には、権力対罪人ではなく、お互いに人間と人間として接しているのです」という内容だったと記憶する。法に基づくとはいえ、命令によって人の命を絶えさせなければならない現場の厳しさと、それに向き合う人たちに思いを致した。

 小泉改造内閣で法相に就任した杉浦正健氏が、死刑執行について、命令書には「サインしない」と記者会見で述べた。以前、左藤恵法相が僧職という立場から署名を拒否したことがあったが、杉浦氏は弁護士資格をもち、衆院の法務委員長も務めた。しかし、約1時間後には「個人の心情だった」と撤回した。

 信念に基づく発言かともみえたのだが、すぐにひっくり返ったのはなぜなのか。犯罪被害者や、命令を受ける立場の人たちの思いも大きく揺さぶられただろう。

 命令にサインするかどうかを判断するのは法務大臣だが、それを委ねているのは国民だ。法相の悩みと無関係ではない。