Archive for 1月, 2006

  今天买到绳子了。不是在前天说的那家书店,而是在往书店路上的一间体育用品商店买的。那家店货品之齐全堪比郊外大型商场。


  因为大部分客人都是来看滑雪用品的,店员也都集中在那边接洽。但我还是害怕有人来招呼我,毕竟客人不算多。于是,一看到店员要往这边来,我就赶紧装作已经选好的样子走到别处。


  我要的是既柔软又坚韧的绳子。后来在户外用品部买到,白色,相当结实。虽然不清楚是什么质地,但我想,吊一个人是绰绰有余了。应该不至于会突然断掉。


  保险起见,我买了3条。准备踩点的时候带上一条。


  还有22天。

 宮沢賢治がよく通ったという岩手県水沢市の旧緯度観測所の古い本館が、解体の直前に一転して保存される方向となった。代表作「銀河鉄道の夜」の構想を育んだとも考えられている建物だ。保存を訴える全国の賢治ファンの声を受けて、水沢市では市有にする方針という。

 今の国立天文台水沢観測所の敷地内にある木造2階建ての旧本館は、1921年、大正10年に建築された。その年に、賢治は現在の花巻市の農学校に教諭として赴任した。それ以後、地球の自転軸のふらつきなどを調べる観測所に、しばしばでかけた。

 「その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ」。童話「風の又三郎」の原型とされる「風野又三郎」の一節だ。詩「晴天恣意」の下書きの一つには「水沢緯度観測所にて」という副題が記されている。

 先日の夜、その旧本館を訪ねた。小さな望楼付きの洋風の建物は、雪明かりの中で、大きな黒い影のように立っていた。半月が浮かび、星はあまり見えない。

 「銀河鉄道の夜」の初稿ができたのは、観測所に通っていた24年ごろだった。22年には愛する妹トシが亡くなっている。それまでそこに居た人が永遠に居なくなる。その深い悲しみが、少年ジョバンニが友のカンパネルラを失う物語に投影しているように思われる。

 旧本館に近づくと、ガラス窓の奥に小さな赤い電球の明かりが見えた。闇の中の一点の光。それは、「銀河鉄道」が掲げるともしびのように、ぽうっと静かに息づいていた。

 行ったことはないが、いつかは訪ねてみたい。信越国境にある秋山郷も、そんな旅ごころを誘う場所の一つだろう。平家の落人伝説の残るその地が、豪雪で孤立している。

 「秋山には古(いにしへ)の風俗おのづから残れりと聞(きき)しゆゑ一度は尋(たづね)ばやとおもひ居りしに……米味噌醤油鰹節茶蝋燭(らふそく)までをも用意して……」。新潟の文人、鈴木牧之が秋山郷を訪ねたのは、江戸後期のことだった。この『北越雪譜』(岩波文庫)には、心引かれた地へ旅立つ思いや現地での見聞が記されている。

 牧之が秋山郷への旅で著した別の一冊『秋山記行』(東洋文庫)には、当時の集落を描いた絵が載っている。見ているうちに、先日見た一枚の写真が絵に重なってきた。それは、雪で孤立状態になった秋山郷を上空から撮影したものだった。

 絵の方では、かやぶきの家がわずかに点在している。写真の方の家は大きく数も多い。しかし厚い雪がその家々の屋根を覆っているので、昔の秋山郷のたたずまいがよみがえったかのように見えた。

 やはり江戸の後期に書かれた『信濃奇勝録』が、当時の人々の様子を伝えている。争ったり怒ったりすることなく、質朴で「太古の人の如し まことに世外の一世界なり」

 冬場には道が閉ざされてきた秋山郷は、隔絶の地であればこそ、うつろわない暮らしや文化を伝えてきた。しかし今では、人々の暮らしは周囲と行き来することで成り立っている。地上の道は閉ざされたが、牧之の時代には思い及ばなかった空の道も使って、一世界と世界とをつなぎ続けたい。

 きのう1月10日は「110番の日」だった。各地で、それにちなむ行事もあっただろうが、110番通報を巡って残念なことが報じられた。7人もの犠牲者が出た長崎県大村市のグループホーム「やすらぎの里さくら館」の火事で、2分間の「空白」があり、消防の出動が遅れたという。

 ホームからの火災の一報は、8日午前2時25分ごろ、県警本部に110番通報で入った。県警からの連絡で大村署が大村消防署に電話した。消防署側の説明では、受けた消防士は再確認を求め、いったん電話を切ったという。2分後に警察から電話を受け、34分に消防隊が出動した。

 消防署側では「1分1秒を争う状況では、あってはならないこと。大変申し訳ない」と話している。2分で、あるいは誰かを救えたかも知れないと思うと、やりきれない。この2日前に、消防署に「市内のホテルで火災」との虚偽通報があったというが、痛恨の足踏みとなった。

 この火事は高齢社会で急増するグループホームのもろい一面も浮かび上がらせた。「これまではケアの質ばかりを考え、防災は二の次だった」。長崎県内で三つの施設を運営する認知症高齢者グループホーム協議会長の渡辺登さんの言葉が重い。

 高齢者の施設で働く介護職員の一番のストレスは「夜勤時の不安」という介護労働安定センターのアンケートもあった。火を出さないことが基本だが、素早く火を感知する手だても整える必要があるだろう。

 110番と119番は、いざという時の「いのちの回線」だ。一時(いっとき)も途切れないでほしい。

  昨天写了人的阴暗心理,其实我没有想要伤害任何人。但我想,自己身上一定也有着神户事件中那种潜在的危害因素。


  走在路上,如果觉察到别人在笑话自己,心里就会恨不得杀了那家伙。我会使劲儿在心里揍他,踹他,努力摆脱那该死的笑脸、可怕的笑声,可是,无论怎么打怎么踢,被嘲笑的感觉总也不会从心头消失。


  我一定和酒鬼蔷薇有着一样阴暗的心理。既不想伤害谁,也不想被人伤害,可是,只要我活着就有可能伤害到别人,自己也会受伤。比如那次,就因为自己的一点欲望玷污了医生。对这样的自己,我实在忍无可忍了。


  说来说去,死仍然是唯一希望。


  还有23天。


  今天本来想去买绳子,下起雨来只好作罢。因为五金店、百货店都不算近,颇要走一段。


  附近其实也有一间杂货店,只是店面太小,肯定是一进门就要被伙计招呼。在宽阔些的商店,客人不招呼,店员一般是不会主动过来的。而且,在大店也不会被人缠住“买这个干什么啊?”之类的问个没完吧。


  雨水滴滴答答地落着,我开始审视自己。心底深处最阴暗的角落连我自己都不甚明了,或者根本就不应该触碰。那些了解了自己本性的人,大概不是虐杀猫狗就是残杀小学生去了。我想,如果说每个人心中都有阴暗面,那么肯定绝大多数人都尚未察觉。


  而我,已经无法逃脱阴暗的束缚。


  还有24天。

  今天收拾行装。我只打算带些必需品,譬如鸭绒外套,因为那里多少会有些积雪,而我要必须走很长的路。找衣服的时候,居然翻出了白线手套,想到往树枝上挂绳子的时候可能会需要,就一并塞进包里。此外还带了住两晚需要的换洗内裤。


  真不想去那么远的地方,甚至连门都不想出。但这个房子里既没有足够高的天花,也没有方便垫脚的位置,肯定吊不死。所以,无论如何都得去那个地方,算了,不过是搭趟电车、新干线罢了。


  还有25天。

 山下寿明さんは自力では起き上がれない。言葉を話すこともできない。食べものは、おなかに小さな穴をあけて直接胃に入れている。

 東京都世田谷区にある重症心身障害児の通所施設「あけぼの学園」でも今週、成人式が開かれる。今年お祝いする2人のうち、1人が山下さんだ。この20年間に、山下さんは知的な成長を確実にしてきた。だれも教えていないのに、テレビを見たいときにはテレビに視線を向けて声を出すようになった。ビデオが終わりそうになると、声を出して家族を呼ぶ。

 初めて会う人には、ニコッと笑顔を見せる。そのあと、家族に向かって、頭を上下に動かし、目をパチパチさせる。「よその人にちゃんと気を使ったよ」という合図だ。

 その一方で、からだはしだいに動きにくくなっている。おさないころは腹ばいや背ばいで移動していたのに、いまはできない。たんがつまりやすいのも心配だ。母親の絹子さんは「ここまで生きてくれたことに感謝しています。育てることは大変ですが、私の生きがいになっています」と語る。

 やはり、あけぼの学園に通っている岩城明子さんが成人式を迎えたのは6年前だった。赤い晴れ着を着て、ちょっとはにかむ当時の写真を母親の節子さんに見せてもらった。節子さんは「あなたはもう大人なのよ、と声をかけると、にっこり笑って応えてくれた。本当に大人に見えました」と話す。

 あけぼの学園の成人式では、話すことができない子どもに代わって、ともに歩んだ20年を親が語る。その言葉が毎年、積み重なっていく。

 旧約聖書のイザヤ書に、こんな一節がある。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(新共同訳)。赤ちゃんがさらわれた仙台市の光ケ丘スペルマン病院の「光ケ丘」の由来だという。スペルマンは、1955年の病院創設に力を尽くした枢機卿の名前だ。

 「光ケ丘」には「苦しみを通して喜びを見い出すの意味がこめられています」と、病院のホームページにはある。幸いにして無事に戻ったが、小さな命が引きずり込まれた闇は深かった。

 身代金を要求した脅迫文は漢字カタカナ交じりで、手書きだったという。カタカナには、文に覆面を施すような不気味なところがある。ひらがなでは、どこかに日ごろの書き癖が出るとでも考えたのだろうか。

 「何ニシロ 警察ノ臭イガスレバ スベテ中止」「赤チャンヲドンドン返セナクナッテ行ク」と冷酷に書く。一方で、「本当ニイイ赤チャンダト思イマス」などと揺さぶる。計画は周到に立てたつもりだろうが、やはり逃げ切れるものではなかった。

 病院の管理面では教訓を残した。無防備な多くの命を守る手だてが十分ではなかった。人の出入りを、より厳しくチェックする必要があるが、監視カメラだけでも、万一の時に犯人を速やかに追う手がかりになる。

 事件が大きく報道された後に報道協定が結ばれた。取材や報道を控えるのはメディアの根幹にかかわるが、協定がなければ結果は違っていたのかも知れない。生後10日余りの命が、50時間の闇を抜けて、両親のあたたかい光に包まれた。

 長さが一定で改行のないこのコラムでは、句読点の置き方に制約がある。字数があふれて削るテンもあれば、半端な位置のマルに手を焼く日もある。句点も読点も、一筋縄ではいかない。

 どの道にも専門家はいるもので、たとえば群馬県高崎市の元高校教諭、大類(おおるい)雅敏さんは句読法を研究して40年になる。『句読点活用辞典』など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。

 大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コンマ、ピリオド、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品である。

 大類さんが句読点にひかれたのは20代後半、権田直助という幕末の学者の著作に接してからだ。権田は神官にして医家で尊皇の志士でもあった。政治犯として幽閉された明治初年、句読研究に没頭し、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」と主張した。生家の跡が埼玉県毛呂山(もろやま)町にある。

 句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。

 幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。