Archive for 1月, 2006

 大雪にもかかわらず、この年末年始は、高速道路の混雑がひどくなかった。渋滞が昨冬より4割減り、長くても30キロほどだった。料金自動払いの車が増えたほか、多くの運転者がピークを避けたらしい。

 中日本高速道路によると、これまで最長の渋滞は1995年暮れ、名神と東名にまたがった154キロである。帰省ラッシュに雪が重なり、琵琶湖の東から浜名湖の西まで延々とつながった。バブル景気のころは東北道や九州道でも、進まない車列が100キロに及んだ。

 さかのぼれば、自動車などなかった紀元前から、渋滞は都市を悩ませてきた。首都大学東京の大口敬?准教授らの研究では、ローマ帝国は馬車の渋滞に苦慮している。一時カエサルは日中に都心へ乗り入れることを禁止した。その分、夜間の交通量が増え、哲学者キケロは夜の馬車騒音を嘆いた。

 水の都ベネチアでは、ゴンドラの渋滞が問題になった。水路の混雑や事故を減らすため、政府は16世紀、ゴンドラの大きさや形を定めた。車検制度と同じ考え方である。

 石油危機の1970年代、米国では2人以上が乗る車専用の車線が設けられた。相乗りで朝夕の渋滞を緩和する狙いだが、意外に不評だった。車は個人の足と信じる人たちが、同乗を嫌ったようだ。

 渋滞を防ぐため、日本の学界では、高速道路を乗り入れ予約制にしたらどうかという研究も進んでいる。限度に達したら乗り入れを止める。「道路網が整い、100キロ級の渋滞はもう起きない」という楽観論も聞くが、渋滞解消の努力はたゆみなく続けてほしい。

 「三八(さんぱち)豪雪」と呼ばれる歴史的な雪害がある。昭和38年、1963年の1月、北陸など日本海側で記録的な大雪が降り続き、交通がマヒした。

 当時、金沢大学の教官だった作家、古井由吉さんは、雪下ろしでの「際限もない反復」作業を小説「雪の下の蟹」に書いている。「全身が快く汗ばんでいる。久しぶりのことだった。血行が健やかになってゆき、神経がやさしい獣のようにまどろんでいた」(筑摩現代文学大系)。

 雪下ろしが「私」に解放感をもたらすという印象的な場面だが、現実の世界での作業は重く厳しい。時には人の命が失われるほどだ。暮れから日本列島の各地で、雪の記録が更新されている。106地点で、12月の積雪記録を書き換えたという。鹿児島は88年ぶりで、世界自然遺産に登録されている屋久島の縄文杉の枝が雪の重みで折れた。

 寒さの方も記録的だ。12月の気温は、北日本と沖縄を除く各地で1946年に地域の平均気温の統計を取り始めてから最も低かった。

 この寒さが今後どうなるのかは分からない。しかし猛暑の夏と酷寒の冬が、これ以上幅を利かすようなら、日本のくっきりと分かれた四季が「二季」になりはしないだろうか。春と秋という穏やかな季節が、強烈な夏と冬にのみ込まれなければいいのだが。

 この冬の大雪の影響は新聞社にも及んでいる。出来る限り、いつも通りに新聞をお届けしようと、原稿の締め切り時間を通常より繰り上げて、印刷や発送にかかっている。窓の外に雪はないが、雪の国を思いながら執筆する昨今だ。

  重读《完全自杀手册》自缢一节。书上还有我从前留下的红色重点线。


  书里说自缢用的绳子“应该尽可能柔软适身”。还警告说太锋利的绳子可能会割破喉咙。谁都能想象脖子如何被拖车用的钢丝拦腰切断。那不是我想要的。虽然死了以后斩首也好如何都可以,但在失去意识之前我并不愿意遭受那样的折磨。而且,要是用那种锋利的东西,光是想想脖子,就可能在最后关头失去勇气。


  所以,我要用柔软坚韧的绳子万无一失地死去。


  书里说跪在地上也能成功。可我觉得那样就必须自己有意识地将体重加诸于绳上,没有异常强烈的求死之心是办不到的。特别是对我这种无用之人,肯定行不通。

  绳子应该挂在足够让双脚离开地面的高度。


  还有26天。

  下午三点左右,电话预约酒店。


  我还像之前致电诊所一样,把要说的话写在了纸上。订房手续之类,昨天买的书上已经写得比较清楚了。问题只在于我还是第一次一个人住酒店,当然也就是第一次订房。想到也许他们会问我一些没有准备的问题,心里很害怕。于是,这一次也把要说的话反复练了好多次。


  为了确保正确拨号,我先按了第一次号码,看数字显示在液晶屏上,信号响起之前马上挂断。接着,按重拨键确认号码无误。最后,再按重拨键第三次拨号,这一次,我决不会像以前致电诊所时似的中途挂断了。因为我已经告诉自己,这相当于步向死亡的仪式。


  “您好,**酒店。谢谢您的来电”第三次拨号后,电话那头传来酒店服务员礼貌而职业的声音。我呆了一呆,慢慢地告诉他我想要订房。对方问我入住日期,我说大约是这个月18 19号。幸好那天房子还空着。接着,他又问了我入住人数、抵达时间、是否开车来以及我的姓名、电话等,我则按照写好的东西尽量冷静地一一回答。最后,他又说了些如要变更预定请提前致电联系等职业套话。这之后,他没有挂断,我于是也耗着,直到想起这种情况下应该我先挂电话,这才放下。


  踩点的准备工作就算完成了。剩下的这段时间我可以去准备绳子。


  还有27天。


 今日から仕事始めの人も多いことだろう。ひっそりとした通りにゲタの音が響く三が日も悪くなかったが、街や職場に活気が戻るのはうれしい。戻ってきてほしくないのは交通渋滞と排ガスだが、車の動きも本格化する。

 昨日、車が絡んだ記事が目にとまった。昨年1年間の全国の交通事故の死者数が、7千人を下回ったという。1956年、昭和31年以来というから、ほぼ半世紀ぶりだ。

 「交通戦争」といわれた70年前後には年々1万数千人が死亡していたから、おおむね半減したことになる。罰則の強化や、警察、消防、地域の人たちが力を尽くしてきたことの効果が表れてきたのだろうか。しかし減ったとはいえ、昨年は6871人もの命が失われた。その家族や周囲の人たちの悲嘆は、はかりしれない。負傷者も100万人を大きく上回って、約115万6千人にのぼっている。

 運転者が、「凶器」を操っているという自覚を持って交通ルールを厳しく守るのは当然だ。その上で、人が常に車に襲われかねないような今の道や街を、そうならない形に変えてゆけないものだろうか。

 例えば、市街地では、歩道の無い道路は原則として人と自転車の専用にする。行き場を失った車をどうするのかは、地域の意向を尊重しつつ知恵を絞る。そのくらいの発想の転換を試みる時ではないか。

 政府は、年間の死者5千人以下を目標に掲げているという。死者の数値目標とは、やはりかなしい。「ひとりでも減らし、減らし続ける」を掲げて、人と車との新しい関係を探ってゆきたい。

 手元に届いた年賀状の多くには、戌(いぬ)の字や犬の姿が様々にあしらわれていた。その中で、前の戌年よりも目についたのは、愛犬の写真を印刷したものだった。生後16年、14歳などの添え書きもあり、この長寿?高齢の世を飼い主と共に歩んでいるさまが浮かんだ。

 人間とのつきあいが長い生き物だ。民俗学者の南方熊楠が、大正の頃に、こんな寿命にまつわるルーマニアの伝説を記している。

 天の神が生き物たちを召集し、その寿命と暮らし方とを定めたという。人間は、世界の王として君臨し30歳と決められたが、短いと不満をもった。次に、常に重荷を負って50歳と宣告されたロバが、「どうか20年差し引いていただきたい」と言うのを聞いた人間が、その20年をもらい受けた。

 次に犬が呼ばれた。主人である人間の家や財産を守って40年と聞いて震え上がり、半分にして下さいというので、また人間がそれをもらう。さらには、60歳とされたサルの半分も得て、人の寿命は100歳と決まった(『日本の名随筆』作品社)。

 この伝説には、人間は、ロバや犬たちの寿命をもらった分、その動物の苦労も背負ったとも記されている。あたっているかどうかはともかく、とりあえずは、友人たちと愛犬の健勝を祈った。

 この前の戌年だった94年は、細川、羽田の両政権が倒れ、「自社さ」の村山政権ができた。政治の上では変化の多い年だったが今回はどうだろう。年が改まり、秋には首相が代わるとされているようだが、「犬が西向きゃ尾は東」ほどに当たり前にゆくのかどうか。

 この時代を考えるために、時代をさかのぼってみる。そんな思いもあって、ルネサンスにゆかりの深いイタリアの地へ、短い旅をした。

 ローマ発の列車で半島を横切り、バスに乗り換えて着いたのが古都ウルビーノだ。早朝、小高い丘から眺めると、古い城壁の下に霧がわいていた。

 16世紀の初頭、この地にはレオナルド?ダビンチや、「君主論」のマキャベリも来たことがあるという。ふたりは、共同で大きな川の流れを変える計画も立てていた(R?マスターズ『ダ?ヴィンチとマキアヴェッリ』朝日選書)。ふたりの巡り合わせの妙を思いながら、フィレンツェを経由して、レオナルドの生地のビンチへ行った。

 「生家の跡」といわれている石造りの家は、オリーブの木の立ち並ぶ丘にあった。前は小さな谷で、視界は大きく開けている。夜空の広がりや闇にきらめく星々が、やがてルネサンスの巨人となるレオナルド少年の心を大きく羽ばたかせたのだろうと想像した。

 ルネサンスは、清新な機運を広く引き起こした。丘を吹き渡る風の中で、その言葉の意味が「再生」だったことを改めて思った。最近、日本では、長く信頼してきたものが崩れている。安全や安心の土台も大きく揺さぶられている。世界を見ても、力の強い者の強弁がまかり通る場面が続く。人間が、苦難を重ねて築いてきた大事なものが壊されてしまうのではないか。

 「再生」は、時を超えて、今の時代のために発せられた警句のようだ。信頼というきずなを、再び結びたい。そう思いつつ、丘を下りた。

 正月の開館日を早めたと聞いて、昨日、東京?両国の江戸東京博物館にでかけた。冷たい雨が降ったが、館内は、家族連れや子どもたちでかなりのにぎわいをみせていた。

 江戸時代の浮世絵師?葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の展示(22日まで)に、人だかりができている。中でも、小舟と大波と富士山とを組み合わせて描いた「神奈川沖浪裏」の前で立ち止まる人が多かった。

 舟をのみ込まんばかりに逆巻く波のかなたに、雪を頂いた富士山が小さく見える。何かに襲いかかろうとする無数の手のような波頭の描写には、鬼気迫るものすら感じられる。

 北斎の絵は、印象派の画家のゴッホやモネに影響を及ぼした。ドビュッシーが、交響詩の「海」を作曲する際に、「神奈川沖浪裏」から啓示を受けていたという説もある。時空を超えて、強く呼びかける一枚だったのだろう。そう思って、しばらくたたずんでいると、「おたから、おたからーっ」という威勢のいいかけ声が聞こえてきた。

 寄席に見立てた一角があって、昔の物売りの声を聞かせる人が演じていた。この日は、七福神が描かれている昔の「宝船絵」が入館者に配られた。正月の江戸の町では、枕の下に敷いていい初夢を見るようにと、「宝船売り」が「おたからーっ」の声とともに売り歩いたという。縁起のよい初夢の筆頭には、富士山があげられた。

 この年が、どなたにとっても、穏やかで幸せの多い年でありますように。北斎が描いた数々の富士の姿を思い浮かべながら、「宝船」をかたわらにして、この文をつづった。

 今年も、残りわずかとなった。一枚だけになった古いカレンダーを見やりながら、新しいものを用意する。まだ見ぬ白い時間というような不思議な魅力が、来年のカレンダーにはある。

 JR東日本のカレンダーをめくってみた。1月の暦の上の写真は、広い雪原の向こうを列車が行く風景だ。かなたに雪を頂く山があって、厳しくも美しい北国の冬の写真だが、その列車の説明に「羽越本線 いなほ」とある。山形県での脱線転覆事故で、思いも寄らない巡り合わせになってしまった。

 痛ましい事故の現場では、昨日も捜索が続いた。改めて、犠牲者のご冥福を祈りたい。JRは事故が防げなかった原因を一日も早く究明し、再発防止の手を打ってほしい。

 大きな街の駅では、ふるさとに向かう帰省客や家族連れが目立ってきた。ふるさとの山や海は、遠くに暮らす人に呼びかけてくるようなところがある。暮れには、それが強まる。

 「海なりは/こうも 聞こえるのだ/そうら/まめで暮らしているか/もう そろそろ帰って来いよ。ってな。/不思議だというか」(『竹内瑛二郎詩集 海潮』秋田豆ほんこ)。竹内氏は、1904年に秋田市の港近くに生まれ、地元で長く教職にあった。

 子どもたちをうたった詩からは、教室での様子が目の前に浮かんでくる。「きょうもまた/せんせいといってくれるか/おう おう/子どもらよ」。この一年、地上の様々なところで多くの命が散らされた。何事もないことは何でもないことではなく、尊いことなのだと、思い知らされる暮れである。

 トリを焼く煙がもうもうとあがり、勢いよく通りに出てゆく。東京?吉祥寺の駅前で、井の頭公園に近い場所だ。この春に逝った歌手、高田渡さんの行きつけだった店の止まり木で、しばししのんだ。

 「鉄砲や戦車や飛行機に/興味をもっている方は/いつでも自衛隊におこし下さい/手とり足とり教えます」。「自衛隊に入ろう」は1967年、高田さんが都立高の定時制に通う頃に作られた。このデビュー曲が放送禁止になった。

 主義主張を正面からぶつける作風ではない。「あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄(やゆ)などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだった」と自著『バーボン?ストリート?ブルース』(山と渓谷社)に書いている。

 何度聴いてもしんみりするのが「すかんぽ」だ。「土堤の上で すかんぽは/レールの間に 生きていた/急行ごとに気を付けをし/人の旅するのを眺めていた」。酒場や小劇場で自作詩の朗読を続けたドイツの詩人、ヨアヒム?リンゲルナッツの「哀れな草」に緩やかな曲を付けた。弱い草だが「目もあり 心もあり 耳もある」と、語るように歌う。

 高田さんがドイツを訪ねるNHKのテレビ番組で、原詩に軽快な曲を付けて歌う現地の青年たちが出てきた。気を付けする草にはこっけい味があるから、明るく歌うのも分かるが、高田さんはその姿に、生きるものの愁いと根強さも見ていたのではないか。

 1月1日生まれで、存命なら明日が57歳の誕生日だった。その歌は、人々の心の中に流れ続けてゆくだろう。