天声人语


 ——何人も、国籍を離脱する自由を侵されない。この憲法22条に着目したのが、井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」だった。農業問題に不満を持った東北の寒村が、日本国憲法をそっくりもらい日本から分離独立してしまおうという話だ。

 現実の世界では、国籍の離脱には相当の覚悟や準備が要るだろう。一方で、国際化を反映して、日本の国籍を求めて訴える人が続いている。

 両親が法律上の結婚をしているかどうかで子どもの国籍取得を区別する国籍法の規定は違憲とする判決を、東京地裁が出した。法の下の平等を定めた14条に違反する、と。

 訴えた男児は7歳、母はフィリピン人、父が日本人だ。「3人は、完全同居ではないものの内縁関係にあり、家族としての共同生活と評価できる」とした。「価値観が多様化している今、『父母が婚姻関係にある家族こそが正常で、内縁関係は正常ではない』などと言うことはできない」とも指摘した。国籍認定の幅を広げる判決だ。

 国籍法は84年に改定された。それまでは条件の一つは「父が日本国民」だった。「父または母が」となって20年ほどにしかならない。日本の社会と時代とを映す鏡のような法律だ。

 「私たちは国籍を、日本人でないことも、選べる。逆に言うと……日本人であることを選び直さなきゃだめなんですね」。井上さんが以前、「吉里吉里人」に込めた思いを本紙に語っていた。多くの日本人にとっては、生まれて以来の国籍は、空気のような存在だが、選び直すと考えれば、その重さが少しは実感できる。

 「大江(だいこう)に歌罷(や)めて 頭(こうべ)を掉(ふ)って東し……」。後に中国首相となる周恩来が「揚子江に歌うのをやめ、意を決して東の日本に向かい」と詠んで国を出たのは1917年、19歳の秋だった。

 翌春、東京高等師範学校を受験したが落ちる。気晴らしにでかけた日比谷公園で、ふたりの小学生の女の子が草花を植えながら遊んでいる姿に接して感動した。「中国人は口を開けば『東洋(日本)は襤褸(ぼろ)の邦』というが、よく考えれば、日本がどうして襤褸であろう」(『周恩来 十九歳の東京日記』小学館文庫)。

 故国で聞いた日本と直接触れた日本とは違っていた。この若い日の「発見」は長く心に残ったのではないか。

 中国で反日デモが広がっている。投石、飲食店の打ち壊し、暴行などの犯罪を治められないのでは反日の動きと国との関係も疑われる。今の日本の実像を知った上での暴走とも思えない。

 周首相は日中国交正常化の20年近く前に述べた。「最近の六十年の歴史では、中日両国の関係はよくありませんでした。しかし、これは過ぎ去ったことであり、また過ぎ去ったこととしなければなりません……われわれの子孫に、このような歴史の影響をうけさせてはなりません」(『新編 周恩来語録』秋元書房)。否定を避け相手を呼び込む。懐の深さと老練な術(すべ)を思わせる。

 そして続けた。「われわれ自身の内部から平和の種子を見出さねばなりません。その種子はあると思います」。過熱する中国だけではなく、「われわれ」の一方である日本の側も、改めてかみしめたい言葉だ。

 「悲しい出来事で洞窟(どうくつ)の存在を大人たちは初めて知った。もっと早く知っていれば防げたと悔やまれる」。鹿児島市の洞窟で死亡した生徒4人が通っていた中学校の校長先生が、朝会で述べたという。

 この洞窟が、第二次大戦での壕(ごう)だったとすれば、約60年もの年月が流れている。そのどこかで、大人の目が届き、惨事の現場にならないような手だてがとれなかったものか。

 4人とも13歳だった。心身ともに急成長する時期だ。日常から、一歩別の世界へ踏み出したくなる思いは、多くの人に覚えがあるだろう。洞窟は、奥には危険が潜んでいることを感じさせつつ、誘いかけてくる。太古の時代の祖先が、そんな場所ですごしていたというような、尾てい骨の記憶を呼び覚ます。

 校長は、こうも述べた。「チャレンジする気持ちは若者らしく、頼もしく感じる。冒険には危険がつきまとうことを認識した上で臨むことが必要です」

 チャレンジという言葉からは、十数年前のアメリカ映画「スタンド?バイ?ミー」を思い起こした。12歳の少年たち4人が、小さな冒険の旅へ出る。夜の闇や恐怖と戦いながら成長してゆく姿が、映画の題名になったベン?E?キングの歌とともに、見る者に強く訴えかけてきた。「夜の闇が あたりを包み/月明りしか 見えなくても/ぼくは 怖くない……君がそばに いてくれるなら……」(『スタンド?バイ?ミー メモリアル』)。

 つい先日まで、そばに元気で居た4人が、今は居ない。朝会での黙祷(もくとう)では、立ち上がれない生徒もいたという。

 春の交通安全運動が15日まで行われている。いつものこと、ではある。しかし、新1年生らしい子らが、ぴよぴよと聞こえてきそうな口ぶりと足取りで道を渡るのを見ると、特にこの時期は、車の運転は心を引き締めてと思う。

 交通ルールを守らなければ命が危ないと、幼い子に教え続けることは必要だ。運転する方にも、守らなければ、相手だけでなく自分の人生も危ういと思わせ続ける必要がある。しかし交通ルールを唱えるだけで万全とは言えない。

 事故を減らすには、事故が起こりにくい道をつくるという考え方もある。オランダが発祥という、人と車の共存をめざす道路「ボンエルフ」である。「生活の庭」と訳されるこの道では、たとえば車の速度を抑えるために、道の途中にハンプ(こぶ)と呼ばれる盛り上がりをつくる。

 このハンプに出合ったのは、オランダではなく、エジプトのカイロ郊外だった。突然ガクンと車体が持ち上がり、ドンと落ちた。しばらく行くとまた持ち上がる。スピードを出させないため、学校の近くなどにこうしたこぶをつくっていると聞いた。もし高速で乗り上げていたら、衝撃は相当あっただろう。

 日本にも、ハンプのある道ができている。事故が減った道がある一方で、学校の近くに作られたハンプにつまずいて転んだ人もいるという。

 事故対策には、万能薬は無い。表通りだけでなく、狭い路地をも疾走するような車に有効な「車外ブレーキ」を考案できないものか。季節ごとの安全運動ではなく、通年で取り組むべき差し迫った課題だ。

 京都に住む岡村美弥子さんは1日に3千歩しか歩けない。重さ2キロ以上のものは持ち運びできない。スーツケースなどは、一瞬たりとも持てない。階段は大の苦手だ。それでも毎年のように1人で海外に出かける。


 19世紀末、アイルランドにチャールズ?ボイコットという名の農地管理人がいた。強権ぶりに小作人たちが反発し、示し合わせて、彼の発する命令はおろか朝夕のあいさつも無視する作戦に出た。不参加とか不買の抗議行動を意味するボイコットはこれに由来する。


 東京都議会よりも多い136人もの議員がいる秋田県の市の名前は?


 話題になった頃ならともかく、今でもすぐに「大仙市」と答えられる人は県外では少ないだろう。


 東京では、2日続けて初夏を思わせる陽気となった。咲いたばかりと思っていた桜が、場所によっては散り始めた。


 戦艦大和が沖縄へ向けて出撃する日、吉田満少尉は遺書をしたためた。「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイ」


 「政治は国民のもの」。55年の自由民主党の結党大会で採択された「立党宣言」は、この言葉で始まっている。後に中曽根総裁のもとで編まれた『自由民主党党史』は、この一句を、リンカーン米大統領の「人民の人民による人民のための政治」を一語に集約したものと記した。


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