天声人语


 とかく税金は集めにくい。使い方への批判もあふれる。ならば、住民に使い道を選んでもらえば、いいじゃないか。  


 こんなアイデアを条例で実現させた市がある。千葉県市川市だ。住民は自分が払う市民税の1%分を、市内のNPOや住民団体に提供できる。応援したい団体をひとつ選び、市役所に通知すれば、市の補助金として届けられる。名づけて「納税者が選ぶ市民活動団体支援制度」。ハンガリーの税制をまねて、今春から日本で初めて導入した。  


 「1%」の受け手には、81の団体が並んでいる。福祉ボランティア養成、少年野球教室、ミュージカル公演など、やりたい事業はさまざまだ。マージャン入門講座なんてのもある。今月から各団体が市の公報や街頭で「清き1%を」と呼びかける。住民は5月上旬までに応援先を決めていく。  


 46万人余りが住み、市民税は1%でも3億円になる。だが、いわゆる千葉都民が多く、地元への関心は極端に低い。市は「税の提供先を決めるのは10人に1人、総額で3千万円くらい」と控えめに見込む。6月の最終結果は、開けてみてのお楽しみだ。  


 似たような制度は他の自治体でも検討中だが、異論もある。「税を納めない低所得者の意向が無視され、法の下の平等に反する」「1%は減税するのが筋だ」などだ。


 ポーランドの古都クラクフは、中世の町並みを今もなお色濃く残している。後にローマ法王ヨハネ?パウロ2世となるカロル?ボイチワは、クラクフ郊外の町バドビツェで生まれた。

 近くには、後に強制収容所がつくられたアウシュビッツがある。数年前、クラクフを流れるビスワ川のほとりに立って、三つの町の位置関係と法王の人生に、運命的なつながりを感じた。

 ナチス?ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった時、カロルは哲学科の学生だった。独軍によって大学は閉鎖される。ドイツで強制労働をさせられる国外追放を避けるため、クラクフ郊外の石切り場で働いた。

 「聞いてごらん。ハンマーが規則正しく石を打つ音を……ある想いが私の内で育って行く。仕事の真の価値は、人間の内面にあるのではないだろうかと」。自作の詩について、法王は後年、「当時の異常な体験がなかなか適切に表現されている」と自伝『怒涛に立つ』(エンデルレ書店)で述べている。

 やがて地下活動で神学を学び、司祭になり、クラクフ大司教を務めた。法王としては、故国で民主化を求める「連帯」を励まし、教会が封印してきたことを謝罪し、イラク戦争に反対した。歴史と平和についての明確な発言と行動が際だっていた。

 10年前、バチカンで法王と握手する機会があった。若き日にハンマーを握ったかもしれない手には、厚みがあった。「戦争は人間のしわざです。戦争は死そのものです」。81年に広島で発した言葉が、その手から伝わってくるようだった。

 新球団?楽天イーグルスの試合をきのう、本拠地の仙台で見た。新装の球場ではトランペットなど鳴り物を使った応援は禁止である。そのぶんバットの音が客席まで心地よく響いた。

 王者西武を相手に楽天が快勝した。産業界の浮き沈みを思わせるような試合展開だった。銀行を辞めてネット事業にこぎ出した起業家が、先代の遺訓にしがみつく鉄道王を倒す。新と旧の対決に場内がわいた。

 職業野球が生まれた昭和の初め、大半の球団が新聞社か鉄道会社を母体にしていた。戦後は映画や自動車などの業種が乗り出す。菓子や飲料に続き、金融や民放も参入した。その間に不動産やスーパーなどが退場した。

 米国時間の3日には、大リーグも開幕する。あちらの球団は、オーナーがめまぐるしく代わる。かつては、銀行家やビール王など野球好きの富豪が球団を買った。それが次々、ディズニーなど有名企業の手に渡った。近年は、球団を債権のように扱う投資家たちが買収戦に忙しい。ひいきチームの所有者がだれか、長年のファンでも混乱する。

 お隣の韓国でもきのう、プロ野球が幕を開けた。昨年は兵役逃れの不正で大揺れだった。中南米や台湾などでもプロ野球は盛んだが、ジャイアンツやタイガース、イーグルスといった球団名は世界各地にある。名前を決める際、本場の米国流にならうところが多いのだろう。

 プロ球団が仙台を拠点にするのは28年ぶりだという。産業の栄枯盛衰は世のならいだが、景気や株価に左右されず、この地にしっかりと根をおろしてくれたらと願う。

 「私の生涯は波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語(メルヘン)である」。アンデルセンは、自伝『わが生涯の物語』(岩波文庫)を、こう書き出している。ちょうど200年前の1805年4月2日に、その生涯は始まった。

 「みにくいアヒルの子」「人魚姫」「マッチ売りの少女」「絵のない絵本」。世界中の子どもだけではなく、大人になってしまった子どもの心にも生き続ける物語を数多く残した。

 貧しい少年時代に始まり、童話作家として広く世に認められるまで、確かに「波瀾に富んだ」道を歩んだ。しかし「幸福な一生」と「美しい物語」には、すぐにはうなずけない思いがある。

 アンデルセンの作品が持ち続けてきた大きな魅力の底の方には、深い孤独が感じられる。生家には複雑な人間関係があり、俳優への夢は挫折する。みにくいアヒルの子や、マッチを売る少女の際だった孤立感が、幼い頃の作者と重なって見える。

 彼は、繰り返し外国への旅に出た。帰る時に「デンマークを思うと、私を待ちかまえている悪意に身の毛もよだつ思いだった」と記す。異国での孤独感は旅の味わいを深め、故国での孤独は心の傷を深めたのだろうか。

 しかし、その深い孤独感は、たぐいまれな叙情の才と出会う。双方が絡み合ってつむぎだされたのが、読み捨てることのできない恐ろしさを備えた「美しい物語」ではなかったか。その幸運な出会いと営みとを「幸福な一生」と呼んだのかもしれない。人生に孤独の影が寄り添う限り、読まれ続けてゆくだろう。

 スマトラ島沖の地震では、住民が各地でパニックに陥ったと報じられた。地震後、津波を恐れた人たちが焦って高台を目指し混乱したという。

 パニックは、時には群衆による圧死などの惨害をもたらす。しかし、人々のパニックへの傾きを、単純に「不合理な行動」とは言えない。

 冷戦の頃、戦域核兵器の配備がとりざたされていたオランダで、住民がパニックに陥ったという。きっかけは、空軍基地に原爆が投下された場合を想定したラジオ番組だった。「いつか核攻撃があるかもしれない」という現実の不安と、仮定の世界のラジオ番組とが重なってしまったのだが、人々が混乱するのはむしろ自然で、無理からぬものだったと思う。

 スマトラの場合も、大津波襲来への不安はかなり大きかっただろう。地震の起き方によっては、それも十分ありえたのだから、ひたすら海から逃げようとしたのは理にかなっている。問題は、正確な情報の速やかな伝達と、住民への的確な指示があったかどうかだ。

 今回は、気象庁が素早く各国へ津波情報を発し、大津波の時の苦い経験が、情報の支援では生きた。しかしインドネシアなどでは、警報の発令と伝達や住民への指示に問題があったようだ。

 約700年前にスマトラに上陸したマルコ?ポーロが『東方見聞録』(東洋文庫)に記す。「皆さんをびっくりさせるに違いない異常な事態がある……この土地がはるか南方に位しているため、北極星も北斗七星も共に見えない」。はるか赤道直下の島々へ、情報だけでなく支援も厚く届けたい。

 小枝の先に、ほんのり白いものが見えた。濃い紅のつぼみがほどけて生まれたばかりの、ひとひらの桜だった。

 開花した範囲を示す曲線が日ごとに広がるこの時節に、新しい年度は始まる。今日からは、これまでとは違った土地や職場、学校で生活を始める人たちも多い。列島の各地で、様々な期待や希望、そして不安が行き交っている。

 「枕草子」に「あたらしうまゐりたる人々」というくだりがある。今日は、多くの「新しう参りたる人々」にとっても、それを受け入れる側の人にとっても、記憶に残る一日になるだろう。

 毎年4月1日ごろ、作家?山口瞳さんの文章が広告の形で新聞に載った時期がある。新社会人への、はなむけの言葉がつづられていた。当方は、すでに旧人の部類だったが、夜の止まり木で先輩に語りかけられているような懐かしさを覚えることがあった。

 「踏み込め、踏み込め! 失敗を怖れるな!」「此の世は積み重ねであるに過ぎない」「諸君! この人生、大変なんだ」「会社勤めで何がものを言うのかと問われるとき、僕は、いま、少しも逡巡することなく『それは誠意です』と答えている」

 これは、新人に向けた形をとってはいるが、勤め人全体への励ましとも読める。新しい年度の初めごとに、山口さんは自らの時間を巻き戻し、自省しながら世の「江分利満氏」を励ましていたように思われる。それが旧人の胸にも響いた。95年春は「一に忍耐、二に我慢、三四がなくて五に辛抱」。その夏に、山口さんは亡くなった。今年で10年になる。

 最近の言葉から。「島が壊れた。泣きたいよ」。福岡沖地震で多くの民家が崩れた玄界島で、漁協役員がもらした。漁期のさなかに事実上の全島避難が続き、漁業の島が呻吟(しんぎん)している。

 地下鉄サリン事件から10年たった。「私たち被害者はずっと置いてきぼりのまま、時間が止まっています」。出勤途中に事件に遭い、今も後遺症に苦しむ女性は、国による救済の乏しさを訴える。

 60年前の東京大空襲を、作家の早乙女勝元さんは12歳で経験した。皇居の安否には言及しながら、市民の被害を「其(そ)ノ他」で片付けた大本営発表にこだわる。「『死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ』とは、軍人勅諭の一節だが、民草と呼ばれた国民の命は、鳥の羽よりも軽かったのである」

 ハンセン病問題の検証会議が、隔離の実態を最終報告書にまとめた。「真理子よ そのお前は標本室にはいないのです 真理子よ 今どこにいるのです」。元患者で盲目の詩人、桜井哲夫さんは、堕胎手術で失った娘に詩で呼びかける。標本までもが、ひそかに処分されていた。

 「日本橋の上に高速道路なんぞ通したのは、どこのどいつだって、今だって思ってる」と話す写真家、富山治夫さん(70)は、東京?神田生まれ。江戸っ子の反骨が、ライフワークの社会戯評「現代語感」を支えた。

 『悲しき熱帯』で知られる文化人類学者のクロード?レヴィ=ストロースさん(96)が久々に仏メディアに登場した。今後の予定を問われて言った。「そんなこと、聞くもんじゃないよ。私はもう現代社会の一員ではないのだから」

 イスラム圏では遺体は土葬される。来世での再生を信じる教えからか、火葬にはしない。遺体は浄(きよ)められ、生成りの布で覆われ、棺(ひつぎ)に納められる。

 地震や津波で亡くなった場合は作法が異なる。死の際の着衣のまま、傷や血の跡も消さないで葬られる。むごいようだが、イスラムの世界では、天災の犠牲者は特別な意味を持つという。

 病気や老衰でなく、天変地異で亡くなると、幼児でも老人でも殉教者として扱われる。たとえば聖戦ジハードで命を落とした殉教者と高貴さにおいて同列で、そのままでも十分に清らかだという。

 以上の知識は先月初め、インドネシアのスマトラ島で取材したときに教わった。訪れたアチェでは、村々にまだ死臭が漂い、毎日数百もの遺体が掘り出されていた。黒いポリ袋に入れられた骸(むくろ)が、道ばたに積まれていたのを覚えている。

 津波の襲来から3カ月しかたっていないスマトラ島を再び大地震が襲った。「ゆうべはだれもが津波の幻に取りつかれた。家族みんなで最上階の部屋に移って夜を明かした」。地元の大学教授ユスダル?ザカリアさん(46)は電話口で話した。市街地では、高台へ逃げる車やバイクの衝突事故が未明まで続いたという。

 あれほどの大地震の後だから、もう心配はない。そう楽観していた人が少なくなかったはずだ。津波による遺体の回収もまだ終わっていなかった。被災地の人々はいま、無力感に沈んでいることだろう。キリスト教徒もいるが、イスラム教徒の多い地域では、新たな「殉難者」たちを送る葬礼が本格化していく。

 長寿に恵まれると、若いときの仕事に歴史がどんな審判を下すかを知ることができる。プラスの評価を得る者は幸いだ。今月17日に101歳で亡くなった元米国務省高官のジョージ?ケナン氏は、そんな一人である。
 第二次大戦後、冷戦初期の動乱期に活躍したケナン氏は、辛抱強い外交でソ連の膨張的傾向をチェックすれば、内部矛盾から崩壊すると予言、「封じ込め」を立案した。日本に対する占領政策を緩やかなものにして、経済復興を重視する路線に転換させた。
 ソ連の崩壊と日本の経済大国化を、彼は自分の目で見届けることができた。ただし、米外交の過剰な道徳主義や軍事手段の過大評価を戒める提言は、ワシントンでは理解されず、53年に退任に追い込まれた。プリンストン高等研究所に移り、著作を通じてベトナム戦争を批判するなど米外交に影響を与え続けた。
 ケナン氏と言えば、思い出すことがある。同時多発テロ直後、アーミテージ国務副長官に米外交への長期的な影響をたずねたところ、「国務省には、20年先を考える部局がある。政策企画室だ」と胸をはった。
 この政策企画室こそ、若きケナン氏が初代室長を務め、米外交の青写真を描いた部局だった。しかし、米国は、国際社会の合意を待たずにイラク戦争に突入、いまだにイラクの民主化の確たる見通しはない。
 国務省の彼の後輩たちは何をしていたのだろう。「私たちは自国についてバランスのとれた見方をすべきだ。自分で思うほど世界を変えることはできない」。ケナン氏が残した言葉である。

 「犬と雄鳥」「襟巻と金雀児(エニシダ)」「天使」「愚者」。これらはいずれも、昔の騎士団に付けられていた名前である(『新版?西洋騎士道事典』原書房)。「白い隼の騎士団」や「美徳と隣人愛の奴隷の騎士団」もあった。騎士にとっては、馬の背こそが戦場であり、馬は、力と王権の象徴でもあったという。

 いにしえの時代の騎士が、突然、現代日本の空から舞い降りたような様相になっている。ニッポン放送の株を巡るライブドアとフジテレビの争いに、ソフトバンク系の投資会社が参入し、「ホワイトナイト(白馬の騎士)」になぞらえられた。

 敵対的な買収を仕掛けられた時に、防衛のための「援軍」になる企業を、そう呼んでいるという。しかし、その「援軍」が生殺与奪の権を握るとしたら、後に災いを招く「トロイの木馬」になる可能性も指摘されている。

 ニッポン放送から投資会社に貸し出されるフジテレビの株は「クラウンジュエル(王冠の宝石)」と形容された。電子の回線を張り巡らせた21世紀の市場での厳しい攻防に、馬にまたがった古い騎士と宝冠の物語が絡み合う不思議な取り合わせになっている。

 白馬の騎士では、聖書の「ヨハネの黙示録」が思い浮かぶ。「小羊が七つの封印の一つを開いた……見よ、白い馬が現れた。それに乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」(共同訳)。

 現代の冠と白馬の騎士とは、どこに、どう帰着するのだろうか。「メディアの騎士団」同士の戦いだ。

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