まず、ぽっかりと開いた目にひきつけられる。黒い穴のような目の先に短いくちばしがあり、右の肩から翼が伸びている。和歌山市の「岩橋(いわせ)千塚古墳群」で出土した鳥形埴輪(はにわ)の写真を見て、一時心がなごんだ。

 埴輪の顔が私たちをひきつけるのは「切りとった目ゆえである」と国立歴史民俗博物館の館長だった佐原真さんが書いていた。「埴輪の顔に対するとき、人はおだやかな眼差となる。切りとった目は、目の輪郭にすぎず、黒目がない。埴輪は相対する者を凝視できない」(『日本の美術』至文堂)。

 人物埴輪についての記述だが、動物の埴輪にも通じるところがあるように思う。「埴輪に対する人は、見つめられることなしに、見つめることができる」。それだから、やすらいだ気持ちで埴輪に向かうことができると佐原さんは記す。

 東京?両国の江戸東京博物館で開催中の「発掘された日本列島2005」には、全国各地からの様々な出土品と共に埴輪も幾つか展示されている。中に奈良県巣山古墳で出土した3羽の水鳥形埴輪がある。白鳥を思わせるこの埴輪の目は、くりぬかれてはいない。しかし、これはこれで、じっと遠くを見ているような風情がある。

 鳥形の埴輪には、死者の魂を来世に運ぶといった解釈もあるそうだ。翼を広げたものが出土したのは、今回の和歌山が初めてという。奈良文化財研究所の高橋克寿?主任研究官は「渡り鳥のように飛ぶことが得意な鳥をモデルにしたと考えられる」という。

 古代からよみがえった謎の鳥は、想像の翼を広げてくれる。

  “活下去,总会有让你高兴的事。”

  本想把前天的日记删掉,最终还是放弃了。


  我,至今活在自己编织的谎言之中。明明不快乐,却让自己觉得快乐;明明悲伤,却要让自己觉得不悲伤。因为一旦承认了自己的悲伤,承认了自己的寂寞,生命将苦不堪言。


  可我再不想这样下去。无论悲伤、寂寞、遭人嫌弃,那都是真正的我。纵然面对自己是那样痛苦,但我想至少在自己死的时候能诚实一点。


  还有37天。


  昨天上传了日记以后,一直在后悔。自己也不明白怎么会就上传了。只要我不写,那些事情永远不会有人知道……难不成我竟是想利用这个,利用人们的评论,比如:“你真是垃圾!”“恶心死了”等等,作为将死的我的论定?!无论发生任何事我都会去死,我已经决定了。


  眼泪毫无征兆地淌下。记日记真的真的很痛苦。


  还有38天。


  傍晚时分起床,洗手,漱口;再洗手,再漱口……。呆坐床上想起自己昨天干的那些事情,不知不觉抽泣起来,蜷缩着。我真的做了不可饶恕的事。

  昨天上午就起来去诊所了。虽然几度下定决心放弃那里,却在不知不觉间又走到了门前。我也知道,这样下去不可能搞到足够自杀的安眠药,我甚至都已经开始考虑上吊的可行性了……

  诊所里,医生仍然做了一样的诊断,开了一样的方子。

  “服药以后的确比较容易睡一些。”我这样告诉医生。老去就诊,总要有些起色才说得过去吧。医生倒像身体不适,脸上的笑容略显僵硬。


  走出诊疗室,听见医生和接诊处的女子谈话。不大清楚,只隐约听见女子说:“你还好吧?”“我也是有点多。”云云,而医生说:“我刚刚才换的。”“小腹不好受。”等等。那一瞬间,隔壁卫生间里三角形的垃圾箱突然出现在我脑海。


  我经过接诊处,走进了卫生间。把门锁好,看一眼角落的垃圾箱。我放下背囊,再次确认门锁。是锁好了。不禁有些激动。深呼吸,让自己平静。我打开垃圾箱盖,里面有一个成人拳头大小的外包着卫生纸的东西。我捡出来打开,是卫生巾。于是,用卫生纸把它重又包好,放入背囊里的塑料袋。接着,收紧背囊,按下冲水纽,尽量若无其事地走出了诊所。


  ……(此处略去污秽文字若干。)


  我真是个污浊骯脏的东西。根本就不配活着。对医生那样的人,尤其毫无价值可言。岂止如此,根本是个玷污医生的垃圾!我一定要死,一定。


  还有39天。

……


 「せきめんの素顔」という冊子がある。アスベストの業界団体?日本石綿協会が、88年に出した。前書きに、石綿は「産業界の進歩、発展に無くてはならない貴重な存在」とある。国際労働機関(ILO)条約で、毒性の強い青石綿の使用が禁止されてから2年後の刊行だった。

 冊子は、石綿によって引き起こされる病気にも触れているが、こんなくだりもある。「対策が次々と打たれ……今後石綿による疾病の危険はほとんどないと確信できるまでに至っております」

 一般の住民に対する石綿粉じんによる危険率については、こう述べている。「めったに起きない落雷による死亡危険率と同程度か、それ以下とする専門家の意見に同意するものであります」

 記述は、やはり、石綿の益の方に重く、害の方に軽く傾いているようだ。その後に発覚した被害は、甚大だった。

 この冊子が出る10年以上前に、当時の労働省が、石綿工場の従業員の家族や周辺住民の健康被害について危険性を指摘する通達を出していた。なのに、国は有効な手を打たなかった。「決定的な失敗」と、今の副大臣が述べたが、公の不作為による「公」害の様相が一段と濃くなってきた。

 かなり古びた『石綿』という本を開く。「我が国に於ける石綿工場労働者の健康状態に関する組織的な報告は未だ見ないが、工場内の塵芥の程度は、著者の見たる範囲に於ては実に甚だしいものである」。日本パッキング製作所技師長?杉山旭著、昭和9年刊とある。71年前に記された「石綿の素顔」のように思われた。

 イブラヒムおじさんは、パリの下町で小さな食料品店を営んでいる。フランソワ?デュペイロン監督の映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(03年)は、このトルコ移民の老人と孤独な少年の心の物語だ。

 異国でひっそり暮らす信心深いイスラム教徒を、70代に入った名優オマー?シャリフが演じた。落ち着いたたたずまいは持ち前だが、その姿は、異国にとけ込もうとする移民の知恵や、必要に迫られて身につける「擬態」を表しているようだった。

 移民が周りから際だたない暮らしを強いられるのはフランスに限らない。周りにとけ込む姿勢をとりつつも、移民一世の場合は母国への思いが心の支えになっているのだろう。

 ロンドンの同時爆弾テロ事件の容疑者の多くはパキスタン系だった。親たちが、かつて植民地支配していた英国に来た後に生まれた。そして近年、こうした移民二世や三世の帰属意識が改めて注目されている。

 ロンドンのイスラム人権委員会のアンケートで「英国社会の一員だ」と答えたイスラム教徒は約4割にとどまった。一方で「差別を受けた」と答えた人は8割もいた。母なる国も、安らげる居場所も無いという悲痛な思いで日々を過ごす青年も多いのか。

 イブラヒムおじさんは、親を失った少年を養子にして、ふたりでトルコへ旅する。そこには安らぎと悲しみとが待っていた。母国で土に帰る老人と、別離を越えて生きてゆく少年と。国籍や民族、そして親と子すらも超えた、ひとりとひとりの人間のきずなへの希求が静かに描かれていた。

 昨日、本紙の「朝日川柳」に載っていた一句に笑いを誘われた。〈飲んで騒いで丘に上るな知床の/さいたま市 岸保宏〉。笑いといっても、苦い笑いである。

 北海道の知床がユネスコの世界自然遺産に決まったが、単純には喜べない思いをした人も少なくなかったのではないか。先に遺産に登録された鹿児島県の屋久島や、青森?秋田両県の白神山地では、観光客の急増で汚染が懸念されている。

 世界遺産条約は、自然と文化を人類全体の宝物とし、損傷、破壊などの脅威から保護することをうたっている。日本政府が登録を推薦したということは、損傷や破壊をしないと世界に約束したことになる。

 知床では、80年代に国有林伐採への反対運動が起きた。それから今回の登録まで、長い道のりだった。数多くの人たちの力がよりあわされて、大きな実を結んだ。これからも自然を保ち続けてゆく責任は重いが、日本の自然を世界遺産という「地球の目」で見直すのはいいことだろう。

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)を設立するための会議は、第二次大戦が終結した60年前の秋に、ロンドンで開かれた。アトリー英首相は、演説の中で「戦争は人の心の中で生まれるもの」と述べた。

 これが、ユネスコ憲章の前文の有名な一節となった。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」。戦争を繰り返さないため、世界の各国は互いをよく知る必要がある、との反省が込められている。知床の自然もまた、心の砦の礎になるようにと願う。

 茨城県取手市で書道を教えている松本恒子さんは84歳である。地元の合唱団の仲間約120人といっしょに、ドイツへ行って、ドイツ語でベートーベンの「第九」を歌ってきた。

 歌い終えると、ドイツの人たちから大きな拍手。「やった、という感じでした。それにしても、10年おきに2度もドイツで歌えるなんて、思ってもみなかった」

 松本さんが取手第九合唱団に加わったのは、91年のことだ。歌は好きだが、「第九」ともドイツ語とも縁がなかった。テープを聴いて、歌詞を丸暗記した。その5年前に生まれた合唱団の2度目の演奏会だった。

 このあと、「次はベートーベンの母国で」という声が上がった。「最初は、とても無理だと思われていたのですが」と言うのは小野耕三さんだ。合唱団のいまの代表である。合唱団には会社員、公務員、商店主ら様々な人がい る。つてを求めていくうちに、バーデンバーデンの交響楽団が共演を引き受けてくれた。

 それが95年のドイツへの初めての旅となる。その5年後、バーデンバーデンから指揮者のW?シュティーフェルさんを招いて、取手で演奏会を開く。そして、今回のドイツ再訪である。小野さんは「こんなに長く続いたのは、5年に1回というペースだったからだと思う。手づくりの演奏会は、準備や資金の手当てが大変なのです」という。

 このゆったりとした歩みがいいのだろう。早くも、「5年後もドイツで」という声が出ている。松本さんは「5年後ならば、行けるかもしれない。ぜひ行きたいですねえ」と話している。

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