フランス語教育が充実していることで知られる暁星学園でフランス人教師に囲まれて11年間学んだ。東京大学の仏文に進み、卒業後もデカルトやパスカルを研究、助教授になった。

  1950年、戦後第1回のフランス政府給費留学生に選ばれた森有正は、フランス語に不安はないはずだった。本人もある程度自信をもっていたが、同時に「心の底には一種の形容するのがむつかしい恐怖の念がありました」と述懐している(『森有正エッセー集成3』ちくま学芸文庫)。

  日本で学んできたものが根本から揺るがされるのではないかという恐れは、的中した。生きたフランス語や社会、文化に接しているうち、「最初の自信めいたものは跡かたもなく消えてしまいました」。彼の苦闘が始まる。それは哲学者として思索を深めていく過程でもあった。結局、76年の死までフランスにとどまった。

  在仏日本人に「パリ症候群」があとを絶たないという。あこがれのパリで暮らし始めたものの、うまく適応できず、精神的トラブルを起こしてしまう人たちだ。90年代にパリ在住の精神科医太田博昭さんが命名した。最近、仏紙も話題にしたという。

  「フランスはあまりに遠し」という時代ではもはやない。だが、どんなに身近になってもパリには「有史以来、日本人が異文化と接触した時のあらゆる幻想が、凝縮されて盛り込まれている」と太田さん(『パリ症候群』トラベルジャーナル)。

  「症候群」に苦しみつつ、あえて深みにはまることで新しい地平を開いたのが森有正だったといえよう。

  「不便でも自然の中で暮らす方がいい」。そう語っていたジャック?モイヤーさんは昨年1月、74歳で亡くなった。長年、三宅島で暮らし、海洋生物の研究や自然保護に取り組んできた人だ。

  米カンザス州出身で1950年代に来日して以来、三宅島の魅力にとりつかれ、やがて住みついてしまった。住民に慕われ、子どもたちの野外学習にも熱心だった。96年には「朝日 海への貢献賞」の「ふれあい学習賞」が贈られた。

  全島避難で東京都北区の都営アパートに移ったが、昨冬、自室で遺体が発見された。自ら命を絶ったらしい。モイヤーさんのようについに帰島を果たすことなく島外で亡くなった人は約200人にのぼる。

  一足先に帰島した集団もいる。国の天然記念物で島のシンボルともいえるアカコッコをはじめ多くの鳥類だ。噴火直後は激減したとみられていたが、2年後の調査では大幅に回復していた。近くの神津島に避難していたらしい。昨年は、一時帰島した住民が家の庭に小鳥たちが集まっているのを見て「もう大丈夫」と話し合ったという。

  三宅島の名物の一つに太鼓がある。長い伝統を誇る「神着木遣(かみつききやり)太鼓」である。世界各地で演奏活動をする「鼓童」が伝授を受け、演目に取り入れたことで広く知られるようになった。都内などで開催されてきた「島民ふれあい集会」ではしばしば木遣太鼓が登場、涙ぐみながら聴き入る人も少なくなかった。太鼓の音が島に復活するのはいつの日か。

  4年半の空白を取り戻す。容易ではないだろうが、着実に進んでほしい。

  英語では、bullet(弾丸)と、ballot(投票用紙)は、見た目も、発音も似ている。英紙ガーディアンは、イラクの国民議会選挙の社説の見出しを「弾丸と投票用紙」と付けていた。

  確かに、武装勢力は「投票する者には弾丸を」という意味のことを言っていた。すぐ近くで迫撃砲による攻撃と銃撃戦があった投票所に来た高齢の女性が言ったという。「私たちはイラクの将来のために犠牲になる」。選挙という仕組みに、これまでにない形を付け加えた今度の選挙とは何だったのか。名前を付けるとしたら、どう呼んだらいいのだろう。

  まず「命がけ選挙」ではあった。実際、多くの人たちが、テロ攻撃によって命を奪われた。武装勢力側も命がけで選挙を阻止しようとし、一部は自爆テロに走った。守る側も含め、異様な「武装選挙」だった。

  選挙を推進する側からは「一里塚選挙」ないし「試金石選挙」だった。米軍の占領からイラク国民の自治へと至る道筋の中で、選挙ができる段階にまでたどり着いたことを確認する。そして世界へと訴える。選挙後「際立った成功」と語ったブッシュ米大統領にとっては、肝心要の「アピール選挙」だった。

  「目隠し選挙」でもあった。これほど世界の注目を集めた選挙を、世界のほとんどのメディアが、現場で見て伝えることができなかった。投票するかどうかが、宗教上の立場であらかじめ分けられた点では、総選挙ではなく「半選挙」だった。

  今後も気がかりだが、「内戦予備選挙」などという名だけは付いてほしくない。

  最近の言葉から。「戦後60年」の年が明けた。終戦の年に生まれた作家、池澤夏樹さんが述べる。「いちばん大事なのは、この六十年間、日本は戦争をしなかったということだ。明治維新の後で、これほど長く続いた平和はなかった」。

  詩人の長田弘さんは、言葉の力について記す。「何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です」。

  阪神大震災からは10年がたった。あの日生まれた、神戸の小学4年生菅原翔平君に、父の敏郎さんはこう伝えたいという。「たくさんの命が消えたあの日、多くの人の助けで、君は生を授かった。この先どんな困難があっても、立ち向かっていかなければならない」。

  「この10年間」について、国際経済学者ポール?クルーグマンさんが述べる。「『自由な市場』『自由な資本移動』こそ最良だと言われ続けてきた。私たちは今この熱病から目を覚まし、忘れていたものを思い出すべきだ」。

  ブッシュ米大統領が2期目の就任演説をした。「我が国の自由が生き残るかどうかは他国に自由が広がるかどうかにかかっている……我々は必要とあれば武力を行使し、我々自身と友好国を守る……米国の決意を試すという愚かな選択をした者たちは、決意の固さを思い知らされた」。

  大津波がスリランカを襲った日、南部の都市ゴールで、女の赤ちゃんが生まれた。「エンジェラシェハニ」と名付けられた。天使の意味という。

  「クレームが来るのではないかと予想はしていたが、こんなに大きな波とは」。NHK前会長らの顧問辞任を発表する会見で、橋本元一会長は見通しの甘さを認めた。NHKという巨大な船のデッキに立った新船長が、さざ波程度を予想していたとは思えないが、うねりぐらいならかわせると踏んでいたのだろうか。

  波は、時に予想を超える振る舞いをする。その一つが「一発大波」だ。気象エッセイストの倉嶋厚さんの「お天気衛星」にはこうある。普通、人が海岸に立って感じる波の平均の高さは、その時に現れた波を高い順に並べて、上位3分の1までの高さを平均した値に近い。天気予報の波の高さもこれだ。しかし千波に一つは約2倍の大波になって、人や船を襲う。

  波に関する幾つかの本によると、世界で観測された最も高い波は、10階建てのビル並みの37メートルだ。1933年2月、大荒れの太平洋上で、米海軍のタンカー「ラマポ」が報告している。

  巨船「NHK」は、これまでにないような高い波に囲まれている。視聴者の目は厳しく、操船を誤った船長の交代だけでは波は鎮まらない。前船長や取り巻きの口出しを許さない、本当の意味での新しい船出が必要だ。

  この船は不沈船とも言われてきた。受信料という、他の船には無い永久固定燃料の供給があったからだ。今度の波は、燃料供給の方法の見直しも求めているようだ。

  視聴者から見て、民放では得られない価値のある放送?報道がどれだけできるのか。かじ取り次第では「一発大波」を何発もかぶりかねない。

  ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が解放されて60年がたった。記念の式に集まる元収容者も老齢化している。人間が人間に対してなした究極的なおぞましい所業の一つを、記憶し直す時だ

  フランクルの『夜と霧』を訳した霜山徳爾さんは、アウシュビッツの記録の中で注意を引くものとして「カポー」の存在を挙げた。元々は囚人だが、その中から選ばれ、他の囚人を監督し取り締まる側に回る

  「彼らの内にはナチスの看視兵よりもずっと残酷に同胞を迫害した人間が少なからず存した」。生き残るために特権にかじりつくだけでなく、享受さえしたという。「人間のエゴイズムの哀しさを露骨に感じさせる」

  一方、極限状況でも尊厳を失わなかったひとりとしてコルベ神父を挙げる。死刑を宣告された男の身代わりとなって殺された。収容所跡には神父の房が残されている

  数年前の今頃、アウシュビッツを巡り、人間の幅というものが試された現場だと感じた。元々は「普通の人」だったはずの多くのドイツ人や「カポー」が行き着いた残虐と、それにさいなまれた人たちの絶望、そして、この残虐も奪い尽くせなかった人間の尊厳。人の弱さと強さとの幅を人気のない雪原の中で思った

  先日来、ハンセン病患者に対するおぞましい所業についての報道が続く。産んだばかりのわが子を看護婦に窒息させられたとの発言もある。これも、元々は「普通」だったはずの人や社会が行き着いた残虐なのか。未来のためにも、そこにまで至った道筋を見極めて記憶する必要がある。

 「雪を掃(はら)ふは落花(らくくわ)をはらふに対(つゐ)して風雅(ふうが)の一ツとし和漢(わかん)の吟詠(ぎんえい)あまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは、風雅の状(すがた)にあらず」。越後の大雪や暮らしぶりを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』(岩波文庫)の一節だ。雪下ろしは、土を掘るようだから「雪掘(ゆきほり)」と呼ぶともある

  周りの雪の白さとは対照的に、四角い暗い穴がぽっかりと開いている。新潟県小千谷市の旅館「篠田館」で、浴場の屋根が落ちた現場の写真である。いたましいことに、ふたりの男性が亡くなった

  あの地震の後、宿の主人らは客室を一つずつ片付け、間もなく営業を再開した。水道が使えるようになってしばらくは、浴場を住民に無料で開放していた

  あるなじみ客が支援にかけつけると、主人が言ったという。「いつもの4倍の毎日80人以上が入るため、普段より忙しい。4キロもやせた」。鉱泉をボイラーで沸かすので経費がかかる。「まあ、困った時はお互いさま。お金は取れません」

  浴場で亡くなったひとりは、鉄道の復旧工事で働いていた。もうひとりは、近くの自宅が地震で被害を受け、仮設住宅に入っていた。被災者や復旧に携わる人たちにとって、信濃川を望む湯は慰めであり、明日への力にもなっていたはずだ

  牧之は「(雪)掘(ほら)ざれば……力強(ちからつよき)家も幾万斤(いくまんきん)の雪の重量(おもさ)に推砕(おしくだかれ)んをおそるゝゆゑ、家として雪を掘(ほら)ざるはなし」とも記している。旅館では「屋根の雪下ろしは毎日やっていた」という。市は、旅館を「半壊」と認定していた。雪の追い打ちを振り払う手だてが尽くされるようにと願う。

 お追従者からいかに身を守るか。たいへん難しいが、君主にとっては極めて重大な問題だ、とマキャベリが述べている。

 「そもそも、お追従者から身を守る手段は、真実を告げられてもけっして怒らないと人々に知ってもらうしかない」。しかし、誰が言ってもいいとなると尊敬の念が消えてしまう。そこでマキャベリが勧めたのは、何人かの賢者を集めて彼らに自由に真実を語ってもらう仕組みだ(『君主論』中公文庫)。

 NHKの会長辞任劇を見ながら思った。マキャベリの指摘するような「君主の陥穽(かんせい)」にはまっていたのではないか。追従者が重用されるような組織になっていはしなかったか。それをチェックする賢者集団であるはずの経営委員会が、はたしてよく機能していたかどうか。

 皮肉なことに最もよく機能したのが、そもそも論議の多い受信料という仕組みだった。不祥事や対応のまずさに敏感に拒否反応を示した。組織の土台を揺さぶる動きである。

 NHKと似たような受信許可料制度で運営される英国のBBCが数年前にこの制度をめぐる世論調査をした。制度が必要だとする人は69%だった。いまの料金に満足しているという人は53%、非常に不満という人は15%だった。自画自賛気味ではあるが、BBCを英国の財産とみる人が90%にのぼるなどといった数字を挙げながら視聴者の信頼は高いとしている。

 過去、政府と厳しい緊張を強いられることもしばしばだったBBCの経験はNHKにも参考になるだろう。視聴者そして国民の信頼があってこその公共放送である。

 「かくて彼らはその剣を鋤(すき)にうち変え、その槍(やり)を鎌(かま)に変える。国は国に向かって剣を上げず、戦争(たたかい)のことを再び学ばない」

 旧約聖書のイザヤ書(岩波文庫)に出てくる有名な言葉だ。命を奪い合うための剣や槍を溶かし、命を養うための鋤や鎌につくりかえる。時代を超えて訴えかける平和への祈りである。この言葉がニューヨークの国連本部の向かいにある小さな広場の壁に刻まれている。

 国連事務次長などを務め、1971年に死去したラルフ?バンチにささげられた銘だ。彼は大学時代のスピーチコンテストで、まずこの言葉を引用して演説を始めたという。以来、しばしば引用した愛用の言葉だった。

 黒人として初めて米国務省高官になり、国連創設にあたって国連憲章の起草にも深くかかわった彼は、50年にノーベル平和賞を受賞した。第1次中東戦争を和平に導いたことが評価された。しかしかの地では、あれから何度の戦争が起き、何度の和平の挫折が繰り返されたことか。

 いままた、アラファト議長の後を継いだアッバス氏がパレスチナ和平の再構築を図ろうとしている。容易な道ではない。薄氷を踏むような思いの連続だろう。ラルフ?バンチの死去に際し、当時のウ?タント国連事務総長が彼をたたえた言葉を思い起こしたい。「ラルフは理想主義者であり、また現実主義者でもあった」と述べつつ、和平の試みは「やりなおすのに遅すぎるということはない、と彼は信じていた」

 剣を鋤に、が祈りではなく現実になりうる。そう信じて和平への道を探るしかない。

 日本に郵便の仕組みを採り入れる時、前島密(ひそか)は、料金をどう定めるかで思い悩んだ。その折、命じられて洋行し、郵便事業は政府の独占で料金は遠近均一と知る。「其時の心持といふ者は実に清々として、是迄の迷ひも全く霽(は)れ、雲霧を出て青天を望むといふ有様であつた」(『郵便創業談』)

 そして創業2年後の1873年、明治6年に、太政官布告が出された。「量目等一ノ信書ハ里数ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ等一ノ郵便税……」。今に続く、全国一律料金の始まりだ。

 しかし、当時は「この手紙は軽い」「届け先が近い」などといって料金を負けろと談判する者もあった。茶やたばこを要求し、断られると横着だなどとののしる手合いもいた。前島は「郵便取扱所」を一時「郵便役所」と改め、官の威力を借りたと述べている。

 「郵便局」となったのは明治8年で、身近な通信網として広がり、生き続けてきた。しかし、膨大な資金を集める世界最大の金融機関という面も問われるようになった。資金の運用にも問題は多い。

 民営化を掲げる小泉政権は、07年4月に4分社?民営化という方針を出した。支持基盤が地方にあり、郵政の組織を有力な支援団体としてきた自民党は抵抗する。郵政だけでなく、貯金、保険事業でも「全国一律サービス義務」を唱えた。

 郵便局を票の束と見ているとしたら、「一律」の創設者も嘆くだろう。何でも一律ではなく、重さ、大きさできちんと仕分けをして送り出さないと、将来の受け手が、とてつもない不足料金を背負う羽目になる。

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