ある時、ルーズベルト米大統領は、チャーチル英首相に対して「今度の戦争を何と呼ぶべきかについて、一般の意見を求めている」と言った。即座に「無益の戦争」と答えたと、チャーチルは書いている(『第二次世界大戦』河出書房新社)。今度の戦争ほど、防止することが容易だった戦争はかつてなかったのだとも記す。

 60年前の今頃、その戦争は終わりに近づいていた。1月末、チャーチルは、ルーズベルト、スターリンと会談するため、クリミア半島のヤルタへと向かった。

 一行は3機に分乗していたが、うち1機が途中で墜落した。さすが豪気のチャーチルも、ひやっとして述べた。「奇(く)しき運命の岐(わか)れ道だった」(『チャーチル物語』角川書店)。それは、世界のその後にとっても、小さくない岐れ道だった。

 戦時中、ドイツ軍の空襲を避けて、チャーチルが閣議を開いていた地下施設がロンドンに残されている。ダウニング街の首相官邸にほど近い「戦時内閣執務室博物館」だ。「この部屋から、私は戦争を指揮する」と述べた。

 作戦室や会議室の他に、チャーチルの居室があった。そこには、寝泊まりに使ったというベッドが置かれている。写真や映像での堂々たる巨漢という印象からはほど遠い、小ぶりなものだった。

 チャーチルは、ルーズベルトよりもスターリンよりも前に生まれ、ふたりより長く20世紀を生きた。そして、40年前の今日、90歳で他界した。臨終に際して、こう述べたと伝えられる。「もうすっかり、いやになったよ」(『チャーチル名言集』講談社)

 夜ひそかに集合する。墓地監視人にはワイロをつかうか薬をのませる。暗闇の中で必死に穴を掘り、財宝を探す。夜明けには盗品を山と積んで家に帰る――。エジプトではびこった盗掘の様子を、ツタンカーメンの王墓を発見した英国の考古学者ハワード?カーターは、こんな想像をしながら書いているという。(『ナイルの略奪』法政大学出版局)

 早稲田大の古代エジプト調査隊が、未盗掘の彩色木棺とミイラを発掘した。ミイラのマスクの色が鮮やかだ。顔やその周りに施された神秘的な青と、胸元を飾る軽快な赤との対比も目を引く。

 「さてミイラ加工を職として開業し、専門的技術をもった職人がいるのである」。紀元前5世紀にエジプトを訪れた「歴史の父」ヘロドトスが記している(『歴史』岩波文庫)。職人たちは、絵の具を用いて実物に似せた木製のミイラの見本を依頼人に見せる。見本は最も精巧な細工のもの、それよりは雑なもの、最も安いものと3種類あった。

 今回のミイラの主は行政官だという。「役人の給料は現物で支給された。役人は土地を貰(もら)い受け、そこで収穫されたものが彼らの生活を経済的に保証した」(『エジプト ファラオの世界』)

 現代の仕組みとは大違いだが、妙に似たところもある。「役人たちは引退が近づくと、それなりの働きをした役人は名誉職として大きな神殿の神官など、かなりの報酬が約束される地位を得ることも珍しくはなかった」

 日本にはびこる、天下りの源か。天下り先が、現代の神殿や、財宝付きの墓にも思われてきた。

ワシントン、トラファルガー、コンコルド、天安門、皇居前……。多くの人が集まり、行き交う広場は、その都市の顔でもある。米議会で、ライス次期国務長官が「街の広場の試金石」という聞き慣れない言葉を使った。

 その国の自由の度合いについての判断法だという。人が、ある街の広場に行ったとする。自分の見解を、逮捕や投獄や拷問を恐れずに表明することができないのであれば、その人は自由社会ではなく、恐怖の社会に住んでいるとみなす。

 この「タウン?スクエア?テスト」は、旧ソ連の政治犯で、今はイスラエルの政治家であるナタン?シャランスキー氏が提唱したという。この人は、かつて収監されていたモスクワの監獄を訪れた時、こう述べた。「母校に帰ってきたような気がする。ここは私が学んだうちで最も重要な“大学”だった」

 なるほど、学んで得た判断法には、一応の説得力がある。しかし、想像上のテストで判断はできたにせよ、肝心で、かつ難しいのは、結果との向き合い方だろう。

 ライス氏は「恐怖の社会」に住む全員が最終的に自由を勝ち取るまで、米国は取り組みをやめるわけにはいかないと述べた。ブッシュ大統領も、2期目の就任演説で、圧制に終止符を打つのが最終目的と語った。そして「フリーダム」と「リバティー」を計42回も使った。

 「自由の商人」のつもりかも知れないが、この政権の、武力行使や単独主義への傾きは、依然気がかりだ。ミサイルや砲弾と抱き合わせの「自由」ならば、世界の広場では売ってほしくない。

 世界一高い山は?と尋ねられたら普通はエベレスト(チョモランマ)と答えるだろう。でも、エクアドルのチンボラソ山だという答えも正解だといえるかもしれない。

 海抜でいうとエベレストだが、地球の中心からの距離ではチンボラソ山(海抜6310メートル)が最も遠い。地心距離といい、それだとエベレストは32位になってしまう。地球が真ん丸ではなく、赤道方向が張り出した楕円(だえん)体だから、赤道に近い山ほど「高く」なる(『地球が丸いってほんとうですか』朝日選書)。

 スマトラ沖地震が地球の形や自転などにも影響を与えたことがだんだんわかってきた。米航空宇宙局(NASA)の発表では、地球の扁平(へんぺい)率が減少、ほんの少し丸くなった。また、自転速度が増して一日の長さが100万分の2.68秒ほど短くなった。地軸も2.5センチほど東に移動したという。インドの観測チームによれば、アンダマン諸島はインド本土から1.15メートル遠ざかった。

 地震波は地球を少なくとも5周し、8周に至っているかもしれない、とは北海道大の解析だ。発生から3週間ほどたっても地球が震えていることを観測したのは国立天文台水沢観測所で、0.3ミリの幅で伸び縮みを続けたという。

 激震は人々に苦痛と悲しみをもたらしただけでなく、地球を揺さぶり、衝撃を与え、変形をもたらした。地球自体がなお激痛にあえいでいるかのようだ。

 神戸市で国連防災世界会議が開催されている。地球規模の災害を、地球規模で考える。そんな発想で論議を深めながら成果をあげてほしい。

「参加した研究会で、総合学習には一世紀以上の歴史があることを話すと、驚かれることが多い」。こう記しつつ、東大名誉教授 稲垣忠彦さんは、明治後期の記録を『総合学習を創る』(岩波書店)で紹介している。

 1896年の高等師範学校付属小学校2年の「飛鳥山遠足」だ。遠足前日、教員?樋口勘次郎は、東京?上野から王子の飛鳥山までの予定コースを歩き、指導の構想を立てる。当日、生徒たちは地図を手に、不忍池、動物園、田畑、村落、停車場などを観察して巡る。翌日は、紀行文を書かせる。

 現代にも通じるような校外学習だが、樋口が紀行文を読んで整理したという「生徒の学問」が面白い。「動物学。イナゴ、家鴨(あひる)、金魚」に始まり、植物学は「麦、茶、……葉の凋落(ちょうらく)、芽」、農業、商業、工業、地理、地質ときて「人類学」に至る。「うすつく爺、大根あらう婆、籾(もみ)うつ乙女、汽車中の客、彼等は皆生徒に人類学をよましむる書物なり」

 2002年に本格導入された現代の「総合学習」が揺れている。今の文部科学相は、この「総合的な学習の時間」を削って国語や算数など教科の学習に振り向けるととれる発言をしたという。

 限られた時間をどう使うかは教育の大事な課題の一つだ。しかし文科相の発言は、あまりにも安直な引き算、足し算ではないか。

 「何を教えたらいいのか悩む」とか「受験での点数が大事と親たちが言う」などの反応は導入前から分かり切ったことだ。現場も行政も右往左往することなく、限りある力を総合的に使ってほしい。

  我想我永远写不出考研日记之类的东西。在我努力了若干遍也不能把备考变成我的生活以后,考研就变成了永远的梦魇。


  所以,从来也没有过悔不当初。总是哼哼唧唧地去,快快乐乐地回。只是今天,真的,真的难过了。恨自己什么也做不了。


  爽说可能是我们以前太顺利了,所以不太知道用功的来龙去脉。也许有道理,中考失利,高考虽说备考到7月6日,总归是没有参加最后一搏。人们都说,上没上过那个考场,完全是两种人生。也许是吧。


  我没有勇气跟大家一起交卷。匆匆忙忙写完最后一笔,独自离开。宁可放弃检查。


  机场已经搬了,旧机场停机坪上招摇着“告别旧机场嘉年华”的彩旗。


  为什么故事里写的都是北方?害我在大寒时节看着稀疏斑驳的紫荆却想起了榆钱!


  马良的榆钱啊,跟这紫荆一样,在对面。遥远的对面。


  我选了一家离车站比较近,又只有精神科和神经科的小医院。


  已经有超过1年没有自己打过电话了。现在连接听都会觉得紧张。拿起电话前,我把要说的话练了一遍又一遍。先告诉对方我要预约。如果他们问我症状,我就回答睡不着。然后再告诉他我想要预约的时间,应该就可以了吧。我把这些都写在纸上,反反复复地练。结果,拨号码的时候还是犹豫了。拨号,挂断,再拨号……直到第四次,我还没来得及挂电话,对方就接了。


  “你好,* * 诊所。”


  是个年轻女子的声音。


  “哦,那个……”我一下子就慌起来。手握着听筒,汗津津的,一个字都说不出来。“不行,一定要说些什么”这样想着,却仍然是一味地紧张,说不出话来。


  沉默了一会儿,那个女子说:“请问,您来看过病吗?”


  听到这话,我连忙看字条,这才吐出几个字:“我想预约。”


  后来,就和我预想的差不多了。只是谈到症状时,那女子问了一句:“您是不是有什么心事?”


  无论如何,约了时间,总算又向前迈进了一步。是下周二下午。


  还有57天。


2004年2月5日:著名诗人、作家臧克家因病在北京去世,享年99岁。


2004年4月24日:我国著名哲学家、哲学史家、国学大师,北京大学哲学系教授张岱年先生,因病救治无效,于24日凌晨在北京逝世,享年95岁。


2004年6月1日:著名豫剧表演艺术家常香玉在河南省人民医院因病逝世,享年82岁。


2004年7月7日:世界著名华人经济学家杨小凯因肺癌医治无效,在澳大利亚墨尔本家中平静离世,终年55岁。


2004年10月26日:中国著名出版家、语言学家陈原,因病于在北京逝世,享年86岁。


2004年11月11日:文艺理论家、美学家、雕塑家,原中国艺术研究院副院长王朝闻,因病医治无效逝世,享年96岁。


2004年11月25日:香港著名文化人黄霑昨天凌晨因肺癌复发,死于香港沙田某医院,终年63岁。


2004年12月3日:93岁的陈省身,世界级的数学大师、微分几何之父,永远停止了美丽的计算。


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2004年5月19日:国語学者







【人民日報ニュース】






 
趙紫陽氏が17日に死去




 趙紫陽氏が17日、北京で死去した。享年85歳。

 これまで呼吸器疾患、心臓血管疾患などで長期にわたり入退院を繰り返していた。数日前に容態が急変し、救急治療が行われたが助からなかった。 (01/17)


—-《朝日新闻》

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