Archive for 3月, 2005

大约是3月最后一篇了吧。时间段再次拉长,这次只能写一个月了。


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  上次写到9月10日了,高中毕业后的第一个教师节。带着第一次离家的全部感伤,我给几乎所有老师寄了教师卡。不分喜好。


  9月12日,当其他大学里的同学在汗流浃背接受军训的时候,我们正式进入了新学期。拿着传说中8元一本的《日语语音》,一位一位地认识大学老师。郭老师,声音尖且亮,爱笑。却不是第一个月里同学们有空认识到的。因为日语假名实在太多了,而郭老师竟然还要求背单词,每天听写。大家都起早贪黑地背啊背啊,我当时觉得那太不人道了。光假名一天10-15个,平片假名合计则是20-30个,很难的。几乎相当于每天20-30个生字啊!由于已有三年日语学习经验,且与舍友同学都没有什么交流的缘故,我只是同情着。并不真正知道其他同学的感觉,也不知道她们到底做到了没有。宿舍里只有两盏惨淡的日光灯,拥挤地放着四铺架床七张桌子,更住进了七个人。每天看着大家埋头苦读,我跟于蓝说:昏暗啊!简直比高三还要惨!就这样,关于外语专业的学习方法,从进校的第一个月起,大家就得到了“真传”:



  记得有一天早上六点,我伸手关掉闹钟,想要趁水房拥挤多睡5分钟(呵呵,5分钟5分钟的赖床习惯至今“光荣”保留)。这时,听见下床通的一声,小云起来了。接着听到的不是她穿鞋下床的声音,而是翻书声。同样是这五分钟,她用来背单词了!!!那一个月我完全没有学习,所记得的也就只有这些了。上面这个作息表,四年当中,我到底履行了多少日子呢?还是不去想算了。


  专业课有精读、会话、听力和概况四门。会话老师是个缺牙的老头,又是一个郭老师,人称“老郭”。据说在日本生长,然后回国的。“老郭”很有趣,总是捂着嘴笑,说这样人家就不知道他缺牙了。“老郭”曾对我们几个外校生说过:你们可以不用来上课,太浪费时间了。或者去补习一下英语吧。可是,不上课是什么概念呢?旷课?不好吧。结果,我用一双困眼看了“老郭”一年。不过,这不怪他,是我实在提不起好奇从头练习。他的会话课讲过什么,完全想不起来了。只记得在我“钓鱼”的时候他很认真地讲过音型。他能读出两个假名的单词在2型和0型时的区别。也教了我们如何分辨。至今仍然非常遗憾困过了那一次课。还记得他让同学自编对话,到讲台上去表演。那次,我的对手是ookyoo吧。路上碰见“老郭”,他会掩嘴笑着说“哇,又漂亮了!大姑娘(niang 二声)了!”据说男生的版本是“哇,英俊了!”未曾求证。不过,相同的是都会收到“什么时候一起去喝茶啦”的邀请。其实,一直都是玩笑而已,却总能让我们高兴。他微驼着背,松弛的皮肤在干瘦的脸颊扯起一道道深刻的皱纹。他嗜烟酒,一高兴就会酩酊大醉,要人送回家去。据说,师母最恨他喝酒,所以,每次被送回家都会有一番不让进门的斗争。


  听力老师姓杨,杨wenze。是个越南归侨。大概是一直在语音室上课的缘故,我总觉得他那个发型天生就是用来带耳机的。看他娴熟地把耳机在头上一跨,额前留出特有的刘海,两个大黑耳套罩在耳上,嗬,都有些像飞行员了。


  最后是概况课,这门课是无休无止的笔记。在六楼大教室上课,根本看不清黑板,更不用说那些注在汉字上的豆丁大的假名了。任课教师:黎。那时候他有没有在讲他的狗呢?这门课我上得很痛苦,因为没学过而必须记笔记。也不知道其他人感觉如何。专业课讲到这里,竟是大一一年的记忆了。可见我真的没认真上。


  新生介绍的班会上,郭老师把学校的通信地址写在了黑板:510421? 广州市黄石东路—— 。买到的学校信封白底绿字。右下角印着“广州外国语学院”,说是毛泽东的字。地址栏写着:广州市大金钟路—— 510421 。大约七八年以后,我才“有幸”听某人提起,那条黄石路实则是我们入校前不久才修起来的。所以此前并无黄石东路的说法。写信与等信的日子开始了。大家都疯狂地写啊。每天最令人期待的也是一二节下课后取信的时间。常去取信的是江总(好像是陈san一开学就给取的外号)和kan一行410人马;阿元;赖等。然后大家都会看着他们,有人会兴奋得跳起来蹦出去接信,而没信的只能在叫完最后一个名字后及时收回期待的眼神。我看见了。


  我也写了很多信。只负责写,没有回音。因为那些地址都是我猜的。凭着记忆里大家拿到的通知书上写的学校和专业,然后缀上94级。另外,那时除了我们几个,其他大学的同学都在外地军训,就算地址对,也没有收信人吧。我常在中午写。好像每次写信都哭,那时候,宿舍里面应该常听见我和婉(邱san)的啜泣声。也许因为这个,她让我心生怜惜,特别喜欢看到她的笑颜。我每次写信,都会戴上耳机,把歌声放得很大很大,然后一心一意地写,一心一意地哭。记得seki、小云、花、雪梅、梓都分别偶尔试图安慰我,好像都被我冷淡地拒绝了。在哭的时候、想的时候,好像回到了从前的日子,和熟悉的朋友们在一起。我多希望抬起泪眼就能看到她们的身影。有一次,也许是我哭得厉害吧,舍友们没有办法,无从劝起,只好从410把陈san找来了。因为是高中同学的缘故,大家理所当然地认为陈san是熟悉我且我熟悉的人。她那时适应得很快,据说在报道的第一天,就帮宿舍的人把床铺好,把宿舍打扫干净。让第一次离家的舍友们感受到了温暖。可是我很坏,真得很坏很坏。我只跟ookyoo和于蓝好,不要理其他人。陈san来劝我,我并没有感激。回答的也是相当冷淡。我不想让舍友们知道,便用日语和陈san讲话。那时我想,我不和她好,不应该影响别人喜欢她。但是如果按“性本恶”来说的话,也许我是下意识在掩盖自己的丑恶。记得那时小云与大家交换了一下眼神,那眼神我想说是面面相觑,又想说是赞叹。但是,无论如何,非要在人家还学着假名的时候讲日语实在是一件比较恶心的事情吧。这样对待对陈san的帮助,应该算是我大学里做的最坏的事情之一。顺便一说,我做过的坏事,基本都是狼心狗肺型的。


  那时大家忙的事,好像还有迎新晚会和新生篮球赛吧。迎新晚会有花的节目,是我们班唯一的节目?可怜刘说破了嘴皮,也只有花给了他一点面子。于是能经常看到92级的美女师姐曾hh来找花询问节目的事。我虽然对晚会没什么兴趣,不过,师姐还真漂亮诶。记得那时总觉得花很拿得住架子,一点也不像新生。真的在跟师姐商讨,而不是听命的样子。当然,花从来也不会听命于任何人就是了:)花的节目是舞蹈,她带了梓和雪梅一起跳。每逢在六楼上概况课前,就会看到她们三个在外面天台练习。演出那天,是93级师兄张ke唱歌,孟庭苇的《九百九十九朵玫瑰》,花、梓、雪梅伴舞。我们好像不太喜欢这个师兄,觉得他演这个节目居心叵测,嘻嘻!


  那天晚上,于蓝也有节目,清唱一曲《時の流れに身を任せ》(邓丽君《我只在乎你》日语版)。于蓝身着长裙,披着一头长发,双手握mic,就那么站着唱完了。效果应该还不错吧。因为三年后,美女师姐供职的电视台要她出节目时,她还特意跑回来向于蓝请教,并录了音说回去学。嗬嗬,我当然也没放过这个看师姐的机会。


  据说那天的晚会上,A班的陈wh也表演了节目。“霹雳舞”。他说彩排时,他才知道学生舞厅那个鬼地方竟然是那样粗糙的水泥地。后来再也不肯跳第二次了。


  新生篮球赛,我没有参加。ookyoo、陈san、花(还有谁?)在这次篮球赛中认识了时任体育部部长和副部长的91级师兄许、钟、以及不知道任什么的丁。从此有了410的一些故事,这就是我记忆以外的事了。而那次篮球赛最大的收获莫过于ookyoo总算能接近91级美女师姐陈lp。“ookyoo猎艳记”从此拉开序幕,容后再述。那天,ookyoo打球不慎扭到了脚,蒙陈亲自按摩疗伤,把她美到天上去了。被我和于蓝狠狠奚落了一遍,犹自回味不尽。(突然想起来,那时陈才是体育部长吧,说的人不可貌相嘛。那许、钟是什么?)后来,当陈san以会梳“排骨辫”为由把师姐请到410,消息马上传遍了4楼的三间宿舍。ookyoo当然巴巴地去了,至于410的人如何惊艳,我未亲见。只记得后来江总总是眨巴眨巴小眼睛说:真好看!


  那一个月,属于新生的节目还有新生电影—-《修女也疯狂》。


  那一个月,我,ookyoo,于蓝,陈san,蔚五个外校生参加了新生心理辅导,向学校要求给我们补习英语。那天接待的是周dl,应该是30多岁的人了吧。相貌并不出众,气质却很好。女强人型。也获得了ookyoo的青睐。


  那一个月,我们第一次没在家过中秋节。郭老师说,每年中秋教到“マ(ma)行”都会有很多人哭。她带了月饼分给大家,一人只有八分之一的一小块,却很感动。但有没有人哭呢?我没有看到。


  那一个月,我天天盼十一,夜夜盼国庆。仿佛到了国庆,这一切都会结束。每一封家书都不忘告诫弟弟要珍惜和爸爸妈妈在一起的日子;要好好学习。真的在当姐姐了。


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 ある午後、街中の食堂でカレーライスを食べていた。近い席に同じ頃座った外国の青年も、カレーライスを食べていた。青年は割りばしでご飯を少しずつつまみ、カレーに浸してゆっくりと口に運んでいる。皿のそばに、みそ汁もあった。

 「短い人生。みんな同じ。急ぎすぎて失敗するより、ゆっくり生きた方がいい」。108カ国に8万人の会員を持つスローフード協会のイタリア人会長、カルロ?ペトリーニさんが来日し、そう述べたという。

 協会は、89年にパリで、独特の味わいをもつ「スローフード宣言」を採択した。「私たちはスピードに束縛され、誰もが同じウイルスに感染している。私たちの慣習を狂わせ、家庭内にまで入り込み、『ファーストフード』を食することを強いる『ファーストライフ』というウイルスに」

 ペトリーニさんの『スローフード?バイブル』(日本放送出版協会)には、和食こそ日本のスローフードとある。「日本人の皆さんには、個性のない食べ物、日本人らしさを損なう食べ物に屈してほしくない」

 ファストフードの国からは、ライス国務長官が来日し、牛肉の輸入再開を訴えた。それがアメリカの国益の追求ということだろうが、国益には一部の「集団益」になりかねない面もある。「日本の検討のプロセスは信じられないほど遅い」。こんな声もあるというが、日本側はいたずらに急ぐことなく、安全優先の「国民益」で臨んでほしい。

 カレーライスを食べ終えてそそくさと席を立ったが、青年の皿には、まだたっぷりと残っていた。

 日付で記憶される出来事がある。何年か後でも、その日どこにいて何をしていたかという話になる。多くの人が3?20で記憶する地下鉄サリン事件は、明日で発生から10年になる。

 あの朝は、東京郊外の家をいつもより遅れて出た。前日に出張から帰り、荷解きしたものを整理していたからだ。都心の駅で外に出たところでヘリコプターが舞うのを見、新聞社に着いて事件を知った。

 いつも通りか、やや早めに出ていれば、どこかで事件に巻き込まれた可能性はある。テレビ画面に映った横たわる人は、自分だったかもしれない。都心に通う人は、そんな思いを共にしただろう。

 翌春、元教祖の初公判があった。判決の時期について「今世紀中は無理ではないか」と社内の会議で述べた。その遠さに周りが少しどよめいたようだった。その後、教団の本拠地だった山梨県の上九一色村へ行き、サティアンと呼ばれた巨大な建屋の群れを見た。富士山のふもとに、これだけ異様なものが立ち並んでいたのに、なぜ犯行を許してしまったのかと悔やまれた。

 一昨年と昨年、元教祖の裁判を短時間だが傍聴した。黙して、時に口をもぐもぐしたり、あくびをかみころしたりしている。検察の論告も裁判官の言い渡しも傍聴席の痛切な思いも、はぐらかされているようだった。

 オウムは国の中に国を造ろうとたくらんだ。標的は日本という国家だった。市民は、いわばその身代わりにされた。無差別テロの再発防止だけではなく、被害者や遺族への手厚い支えもまた、3?20が問い続ける課題だ。

 ウォーターゲート事件をスクープしたワシントン?ポスト紙のウッドワード氏の著した『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)に、こんなくだりがある。「アルカイダだけでなくイラクも攻めればいい」。9?11同時多発テロの翌日の国家安全保障会議の場で、ラムズフェルド国防長官が述べたという。

 「この発言は、ひとりだけの意見ではなかった……ウォルフォウィッツ国防副長官も、テロリズムに対する戦争の第一ラウンドでイラクを主要攻撃目標にするという方針を唱えていた」。その副長官を、ブッシュ大統領が次の世界銀行総裁に指名するという。

 この政権にタカ派的性格をもたらした新保守主義者(ネオコン)の代表格で、結局は見つからなかったイラクの大量破壊兵器の存在を主張していた。それなのに、イラク戦争での「論功行賞」のように国際機関のトップに据えようというのである。

 貧困問題で、国連のアナン事務総長の特別顧問を務めるサックス?コロンビア大教授は「大変な驚きであり、不適切な指名だ」と述べたと伝えられる。日本は世界銀行への主な資金供与国の一つだが、小泉首相はブッシュ氏との電話会談で指名を支持したという。

 やはり電話で小泉さんがいち早く支持を表明し、その一体ぶりが鮮明になったイラク戦争の開戦から間もなく2年になる。おびただしい人の命が失われたが戦闘はやまない。米軍による「誤射」も続いた。

 「先制攻撃そのものが、とてつもない誤射だった」。ネオコン主導の戦争が、歴史にこう記されない保証はない。

 バロン西といえば、戦前を知る世代には懐かしい名前かもしれない。本名を西竹一(たけいち)という。男爵(バロン)の家に生まれ、昭和の初め、ロサンゼルス五輪で馬術の金メダルに輝く。軍人として、満州から転じた硫黄島で戦死した。

 「五輪の英雄バロン西、出てきなさい。君を失うのは惜しい」。米軍が名指しで投降を呼びかけたが、西氏は抗戦を貫いた。そんな逸話が残る。後の創作とみる説もある。戦死公報によると、西氏が亡くなったのは60年前のきょう3月17日だった。

 ひ孫にあたる丹羽満彦君(17)は先週末、初めて硫黄島に渡った。黒いネクタイにカメラを2台携え、遺族ら約110人と島を巡った。日米で2万7千人もの将兵が散った島は、歩いてみると驚くほど小さかった。曽祖父(そうそふ)を描いた本は何冊も読んだが、「暗く深い塹壕(ざんごう)や血のしみこんだ浜を歩いて初めて生身の姿 を実感できた」と話す。

 満彦君が登った摺鉢(すりばち)山では60年前、日米の若者が死闘を展開した。山頂にはためく星条旗をとらえた写真は米国では今も名高い。士気を高める効果があるのだろう。同時多発テロ級の大難があると、遺族の集会や篤志を募るビラにあの写真がきまって登場する。

 「硫黄島に寄せる日米の思いは対照的です」と言うのは西氏の長男、西泰徳さん(77)。満彦君の祖父である。「私たちには死を悼む島でも、米国民には勝ち得た栄光を祝う島のようです」

 満彦君はこの秋、米国の大学に進む。平和な時代であれば曽祖父が晩年まで楽しんだはずの馬術を、自分も米国で始めたいと考えている。

 天動説で知られるプトレマイオスは、2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍した。地理学者でもあり、本人の作かどうかは不明だが、「プトレマイオスの世界図」が残されている。そこでは、はるか東方のマレー半島はクリューセー(黄金半島)と記されている(『ジパング伝説』中公新書)。

 マレー半島に沿うマラッカ海峡で、日本人などが乗るタグボート「韋駄天(いだてん)」が海賊に襲われた。浅くて狭い海峡は、以前から海賊の被害が多発している。暮れの大地震と大津波の後は、なりを潜めていたというが、犯行を再開したのだろうか。

 海峡に面した町?マラッカの丘には、日本で布教したフランシスコ?ザビエルの遺骸(いがい)が、一時安置されていたという。大佛次郎は、この丘からの町と海峡の眺めを、終戦直後に「帰郷」で書いた。

 日本人の画家に、土地の歴史を語らせ ている。「王朝があって、そこへポルトガル人が攻め込んで来て城を作ったのを、和蘭陀(オランダ)人が来て占領し、その後で英国が手を入れたんですね。それから今度は、日本人が来て……この後は、また、どこの国が来るんでしょうかね。黒子(ほくろ)のように小さい土地だけれど」

 インドネシアとマレーシア?シンガポールを隔てるこの海の要衝は、列強の侵略が交錯する場だった。その奪い合いも終わって久しいのに、昔ながらに海賊が横行している。津波の対策と同様に、東南アジア全体の目と手で、安全の道を探ってはどうか。

 「黄金半島」の周りを、海賊たちの「黄金の海」にしておく時代ではないだろう。

 その昔、ナポレオンがロシアを攻めた時、ロシア側はモスクワをもぬけの殻にして逃げた。大火が起こり、冬将軍も迫って、ついにナポレオン軍は退却する。

 価値あるものを空っぽにし、迫る敵の意欲をくじく「焦土作戦」を、ニッポン放送が検討中という。主要子会社の株をフジテレビに売ってしまう構想らしい。めまぐるしい動きが続くが、ここでは、今回の攻防とは何なのかを考えてみたい。

 これは、「メディア(媒体)の興亡」なのか。ある時代の最大のメディアが「メディアの一つ」になってゆく。これがメディアの歴史だった。明治以後、メディアの首座を占めた新聞は、戦後のテレビの興隆で、メディアの一つとなった。

 インターネットの興隆で、テレビは存在感の薄い一メディアになってゆくのか。文字、映像、電子情報という三つのメディアが絡み合う興亡の帰着は、その中身も含めた各メディアの競い方と、受け手の選択次第だろう。「メディアの興亡」をはらんではいるが、その帰趨(きすう)を決するほどの争いかどうかは、不透明だ。

 それでは「新旧の攻防」なのか。新世代の掲げる旗は、いつも旧世代を戸惑わせてきた。世代とは、人類の悠久の歴史の上に個々人の限りある歴史を乗せた、ひとまとまりの集団だ。性急とも見える既存のものへの挑戦は、後から生まれた者の永遠の権利であり宿命でもある。その意味では「新旧の攻防」だ。

 「焦土作戦」は企業防衛の手段という。それが「焦土」にされる会社の社員や家族の防衛にもなるのかどうかが気にかかる。

  2005年3月19日11时许,长影著名歌唱家李世荣于吉林省人民医院病逝,享年78岁。这位一生曾为400余部电影配唱主题曲、插曲,将电影《冰山上的来客》插曲《怀念战友》、电影《五朵金花》插曲《蝴蝶泉边》演绎成经典的著名歌唱家离开了我们。


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  难得今天早上9点就醒了。大概是因为约了医生吧,不然天天都是睡到午后的。


  上午开始就在整装待发,结果早到了15分钟之多。进门的刹那,我开始冒汗。汗珠沿脊背流下。是冷汗。候诊室比外面亮堂,一应物品都是白色,看起来很干净。长椅上坐着一个50出头的男子。我告诉接待处的姑娘我有预约,她递给我一张纸,让我写下姓名、住址以及病症等。于是,我写下失眠。不久,那个人被叫进去。我一面等着,一面想该怎样应对医生。


  大约过了30分钟,那个人出来,到我了。突然很想逃。可我必须拿到药才能回去。推开门,我才知道原来是个女医生。大约30多40岁吧。是个肤色白皙、端正秀丽、温柔可亲的女子。我向来不怎么注意容貌出众的人,在他们面前只有自形残秽而已。“医生,麻烦您了”我忐忑地坐下。医生看了看我写的纸条,开始问病。我一手擦着汗紧张地回答。甚至可以感觉到喉咙深处的干渴。而医生,竟然会频频点头。


  诊病大约用了30分钟。我间中解释了一下自己的病状,其他时候基本就是“是”或“不是”。这还是我第一次在日记以外谈及自己的事情。谈到自己害怕旁人的目光,谈到自己大学退学至今一直赋闲在家。不过,我没有说自己耽于妄想,甚至想要自杀。那是绝对不能说的。医生最后说:“我给你开些帮助睡眠、舒缓神经的药。”


  我有些不安,觉得好像被医生看穿了。不过,总算拿到药就是了。


  回到公寓,我把药拿出来看了看。有一种不知道的药,那些书里都没有写过。另一种则是药效较轻的。我必须弄到强效药。


  还有53天。

 さすまたは罪人を捕まえる道具である。棒の先端についたU字形の金具で首や胴を押さえ込む。刺股とも指叉とも書く。おなじみ「鬼平犯科帳」では、長谷川平蔵率いる捕り手が悪党一味を追いつめる場面に出てくる。

 このごろは学校の備品として脚光を浴びる。不審者が生徒や教師を襲う事件が続いて導入するところが増えた。警官を招いて「さすまた講習」を開いた学校も多い。

 製造元のひとつ、東京都江戸川区の部品会社「実川製作」では毎週250本を出荷するが、注文に追いつかない。製造を始めたのは4年前、大阪府池田市で児童が殺された直後である。実川享社長(49)が大の鬼平ファンで、捕物の道具に目をつけた。試作した最初の3本はすぐ娘の通う小学校に贈った。

 学校で何かあるとたちまち注文が殺到する。大阪府寝屋川市の小学校で先月起きた事件では「備品のさすまたが身柄拘束に役立った」と報じられ、拍車がかかった。「納入先には幼稚園や病院も多い。何とも物騒な世の中ですね」。思わぬ需要に実川さんもとまどう。

 刑罰史に詳しい重松一義?元中央学院大教授(73)によると、さすまたは中世以来スペインなど各国で生け捕りや拷問に広く使われた。日本では実戦の武器という性格は薄い。むしろ幕府の司法権を見せつける「威圧の具」として、奉行所や関所に飾られた。

 「学校は安全」という神話が崩れて久しい。教育の場におよそ似つかわしくない道具だが、何か備えがないと不安な時代である。願わくは、学(まな)び舎(や)の守り神で終わりますように。