Archive for 5月, 2005

  从诊所开回来的药,我一直没喝。全都拆出来放进一个银色盒子里。那是一周的药量。看着它,我就会想起昨天从猫尸里翻涌出来的蛆。


  昨天那只猫身上,的确爬满了蛆。可是,这样的寒冷季节也会长蛆吗?我难道是在做梦?自从去过诊所拿药,我越发恍惚得厉害。也许我真的已经分辨不出梦境和现实了。


  我到门口去看了看昨天穿的鞋。鞋尖上有些许污痕。好像是以前弄到的吧,我犹自怀疑着。而那具猫尸竟是如此深刻地留在了我的记忆里。我决定再去那里看看。


  天已经完全黑了,楼道上灯光狰狞。地面上还有一些黑色污迹,猫尸已经不在。大概有人来把尸体收走了。又也许,那些根本不是蛆,而是猫肚子里的蛔虫?真要是蛔虫的话,也太短,太多了……


  什么才是真实?我真的搞不清。


  还有49天。


 JR西日本の凄惨(せいさん)な脱線衝突事故から10日あまりたった。深い傷を負い、今も入院している乗客も多い。体の傷だけではなく、心が負った傷の影響も心配だ。

 いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)のTはtraumatic(トラウマ的)の頭文字だ。近年よく指摘される「惨事トラウマ」が注目されるきっかけになったのは、19世紀の後半から急増した鉄道事故だった(森茂起『トラウマの発見』講談社)。

 鉄道は、近代の機械化、高速化の象徴だ。「それはまさに飛翔(ひしょう)である。そしてつまらぬ事故で、同乗者全員が即死するという思いを振り切ることができない」。鉄道草創期の、英政治家の言葉だという(シベルブシュ『鉄道旅行の歴史』法政大学出版局)。まだ無かった飛行機に乗るかのようなたとえだ。

 「二都物語」で知られるチャールズ?ディケンズは1865年6月に列車の事故を体験した。数日後、手紙をしたためる。事故当時の自分の行動を書いていたが、突然、こう記して手紙を終えた。「いまこの思い出の数語を書き記していると、ふと威圧されるのを感じ、わたしは筆を折らざるをえなくなりました」

 この事故では、ディケンズは傷を負っておらず、他の乗客たちを助けたという。けがをしなくても、後に、こうした「威圧される感じ」に襲われるという例なのだろう。

 尼崎で事故に遭った人たち、その家族や友人、電車に激突されたマンションの住民、そして救助に駆けつけて惨状を見た人たち。様々なトラウマに対し、手厚い心のケアを望みたい。

 毎年ちょうど今ごろから、各地の税務署に同じ要望が届く。「高額納税者リストに出さないで」。長者番付のことだ。載るのは全国でも7、8万人という。

 番付に無縁の人々でさえ個人情報の使われ方には不安を覚える。載れば、怪しげな郵便が殺到するし、空き巣や強盗も怖い。切実な悩みなのだろう。

 長者番付はいつ生まれたのか。印刷史に詳しい石川英輔さんは「江戸の後期にはもう量産されていた」と言う。長者鑑(かがみ)とか長者控とも呼ばれ、庶民に人気だったという。そう言えば「長者番付」という古典落語がある。田舎の造り酒屋に張られた番付を前に、江戸者が「西の鴻池」「東の三井」とまくし立てる。

 鴻池や三井などの財閥が占領下で次々に解体されたころ、いまの長者番付の原型ができあがった。他人の所得隠しを通報すると報奨金がもらえる制度とともに、番付は、「密告税制」を支える柱とされた。報奨金はやがて廃止されたが、番付は残った。

 この春に出版された『日本のお金持ち研究』(日本経済新聞社)は、長者番付から年収1億円以上の層を拾い出し、行動や意識を調べた労作だ。著者の京都大学経済学部教授、橘木俊(たちばなきとし)詔(あき)さんが2年前、全国6千人に質問状を発送すると、「詮索(せんさく)するな」「にせの学術調査か」と苦情が来た。

 それでも465人から回答が得られた。「協力してくれたら詳しい集計結果を送る」と約束したのが効いたと橘木さんは話す。「ひと様の懐具合は誰でも気になりますから」。番付が生き永らえたのも似たような心理のなせる業だろう。

 朝日新聞阪神支局に入る。この支局に来るたび、2階の編集室に向かう階段の途中で立ち止まる。87年の5月3日の夜8時過ぎ、この階段を、銃を持った男が上って行った。そのおぞましい気配を、今も感じる。

 細長い編集室の奥の壁に、射殺された小尻知博記者の写真を掲げた小さな祭壇がある。事件には法的な時効があっても、無念の思いに時効は無い。改めて冥福を祈り、凶行への憤りを新たにする。

 合掌しつつ、この社会がおびただしい犠牲を払って、ようやく戦後手にした言論の自由のことを思う。この原則は、社会や国家が暴走しないための大切な歯止めの一つだ。それを、暴力の前に揺るがせてはならない。

 本社から支局や総局に行く時、「厳粛な里帰り」という言葉を思い浮かべる。外で取材してきた若い記者が先輩やデスクと話す姿は、昔と変わらない。懐かしさと厳しさを感じるそのやりとりから、記事が生まれる。支局とは、新聞社が、読者や市民や町と出会う最前線であり、まだ真っ白な明日の紙面を一からつくる現場だ。あの夜、そうした支局員らの語らいを銃弾が襲った。支局に保存されている小尻記者が座っていたソファには、損傷があまり見られない。散弾が体内で炸裂(さくれつ)したからだ。

 支局の入り口に、1本の桜がある。大木ではないが、長くこの地に根を張り、記者らの往来を見続けてきた。局舎の建て替えは決まっているが、支局では桜は残したいという。

 東京へ戻る新幹線は、連休さなかで満席だった。バッグから憲法に関して気になる本を取り出した。

 阪神方面から帰京する新幹線で、『「映画 日本国憲法」読本』(フォイル)を開いた。この妙なタイトルには多少の説明が要る。

 4月下旬、東京で「映画 日本国憲法」(ジャン?ユンカーマン監督)の上映会があった。日本国憲法について世界の知識人が語るドキュメンタリーで、初回に約700人が来場した。当方は立ち見だったが、100人ほどが入れなかったという。

 映画をもとに構成したのが『読本』だ。「日本は立派な国家です。しかし、自分自身の声で発信し、アメリカと異なるアイディアを明瞭(めいりょう)に示す勇気をもつことができませんでした」。日本の戦後史を描いた『敗北を抱きしめて』でピュリツァー賞を受けた歴史家ジョン?ダワー氏だ。「(日本が)アメリカのような『普通の国』になりたいというのなら、現時点で恐ろしい話ではないですか……アメリカはますます軍事主義的な社会になってきているのですから」

 国内に「改憲ムード」が広がっているようだ。確かに憲法と自衛隊との関係はねじれている。しかし例えば日本が「軍隊を持つ」と表明することの重みがどれほどになるのか、詰めた議論が世の中に行き渡っているとは思えない。

 日本や世界の未来が米国に左右されかねないという時代に、米国との関係をどうするのかも緊急の課題だ。改憲案より、どんな国をめざすのかを詰める方が先ではないか。

 家族連れの多い新幹線の中を見渡す。将来、わが子が軍人になり、外国の戦場に行く。そんなことを思いめぐらす親など、いそうもなかった。

 JRの尼崎駅に降り立つと、雨が本降りになっていた。1日の昼前である。駅前には、この地にゆかりのある近松門左衛門の浄瑠璃の女主人公「梅川」の大きな像が立っている。

 駅の北側の脱線現場に向かう。電車が激突したマンションの1階は、青いシートで覆われている。あの日、シートのあるあたりの車内では、安否を気遣う家族や友人からの携帯電話の呼び出し音が鳴り続けていた。小さな画面には、発信元を示す「自宅」の2文字が浮かんでいたという。

 マンションと線路とは、あまりにも近くて、一体のようにすら見える。電車からは、行く手の正面に立ちはだかるように、マンションの方からは、電車が常に飛び込んでくるように見えていただろう。なぜ防護壁がなかったのかと悔やまれる。

 わずか100メートルほど離れて、特急「北近畿3号」のずんぐりとした姿がある。あの時、運転士が、信号が黄色になったことに気づかなければ、脱線の現場に突っ込んで行ったかも知れない。

 電車最後尾の7両目の近くに立つ。降りしきる雨が屋根をたたき、滴り落ちて敷石にしみ込む。それぞれの未来を抱きながら乗り合わせた人たちと、その人々を失った多くの人たちの無念の涙のようにも思われ、目を閉じた。

 この現場に近い広済寺には、近松の墓がある。彼は、寺の一角で執筆したと伝えられる。その来歴を、朝日新聞の阪神支局員だった小尻知博記者も書いたことがあった。支局が襲撃され、小尻記者らが殺傷されて、3日で18年になる。西宮市の阪神支局に向かった。

 スプーンを口に近づけられると、いやいやをする。舌が飛び出してくる。いったん口に入れた食べものをプーと吐き出す子もいる。

 国立病院機構?千葉東病院の重症心身障害児の病棟である。ここの子どもたちは、一人では食べることも飲むこともできない。その訓練を見せてもらう機会があった。

 看護師さんらがやさしく声をかけて緊張をほぐす。子どものあごに手を当てて、口をゆっくり閉じる。そうすれば、もぐもぐできるようになる。指導する歯科医師の大塚義顕さんは「食べることは生まれついての能力ではなく、段階を踏んで学んでいくものです。その学習に障害児は時間がかかる」という。

 もとはといえば、約30年前に当時の歯科医師らが子どもたちの口の中を清潔にしようと考えたのがきっかけだ。管からではなく、口から食べることの大切さに気づき、千葉東病院は障害児の訓練の先駆けとなった。昨年末には人事院総裁賞を受けた。

 「おいしいものを子どもに味わわせたい。それは親のだれしもの願いです」。そう語るのは全国重症心身障害児(者)を守る会の北浦雅子会長だ。施設で暮らす次男の尚さんはウナギが大好き。細かくつぶすと、しゃべることはできないが、もっとほしいと笑顔で催促する。逆に酸っぱいものだと、動かせる左手で払いのける。

 きょうの夕食の献立は何ですか、と先週、千葉東病院に電話した。鶏肉とピーマンのみそいため、ナスとベーコンの煮物……。ごちそうを前にした笑顔が思い浮かんだ。そこには、入院して30年を超える人もいる。

 開催中の愛知万博で「サツキとメイの家」が人気だという。映画『となりのトトロ』で主人公の姉妹が暮らした昭和30年代の民家が、映画そのままに再現されている。
 映画を文庫化した『小説となりのトトロ』(徳間書店)を開くと、姉妹があの家に引っ越すのは、5月のある朝のこと。家財とともに姉妹を車の荷台に積んで、父が陽気に歌う。「5月に5月(サツキ)と5月(メイ)を乗せて行くぞ」。サツキがもちろん皐月(さつき)なら、メイは英語で5月を指す。5月が三重奏する軽やかな引っ越し場面だが、映画では割愛された。
 庭先でメイが、クスノキの巨木を見上げて不意にくしゃみをする場面がある。光に目を射られたからだ。たしかに、日差しが夏めくこの季節、空を仰ぐとくしゃみが飛び出すことがある。寒くもないのになぜなのだろう。
 くしゃみやせきに詳しい旭川医大助教授の野中聡さんに尋ねた。原因は「神経の誤作動」という。目で知覚した「まぶしい」という刺激が、脳に伝わる途中、なぜか鼻からの刺激と受け取られる。
 昼間に映画館から外へ出たときなどにも起こる。2~3割の人に自覚症状があるが、深刻な症例はまずない。野中さんによると、米医学界ではこれを俗にアチュー症候群と呼ぶ。日本ではハクションだが、あちらではアチューと響くそうだ。
 ほかの国々ではハクションをどう言うのか、本紙の海外支局に聞いた。韓国ではエッチュイ、フランスだとアチュウム。ロシアがアプチヒーで、エジプトはアータスだという。人類共通の生理現象なのに、ずいぶん違うものだ。

 最近の言葉から。「こんばんは。今月もこの時間がやってまいりました」。約2千人を収容する福岡刑務所では月に1回、所内放送でリクエスト番組「明日への扉」を流す。ある受刑者の要望は、かぐや姫の「妹」。「妹が手紙で『兄ちゃん、出所したらカラオケで歌って』という。娑婆(しゃば)では疎遠なのに、ここでは家族や兄妹のきずなを強く感じる」

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