Archive for 9月, 2005

 清の時代に書かれた長編小説「紅楼夢」は、中国の四大古典小説の一つとされる。大半は曹雪芹(そうせつきん)の作といわれ、大貴族の盛衰や、主人公を取り巻く女性らの人間像が多彩に描かれている。

 北京での6者協議の共同会見で、武大偉(ウーターウェイ)?中国外務次官が、「紅楼夢」を劇にした作品の歌詞を紹介したという。「一つ一つの高山、一枚一枚の壁」で、「合意への過程は、我々6者が山を越え、壁を乗り越える過程だ」と述べた。北朝鮮が、すべての核兵器と今ある核計画の放棄を約束した共同声明は、守られれば、世界の安定にとって大きな一歩になる。協議の議長国としてホッとした場面なのだろう。

 武次官は、中秋の名月には月見を名目に夕食会を開き、月餅を振る舞って長時間各国を説得したという。紅楼夢にも中秋の名月のくだりがあった。

 男が酔ってうたう。「時しも中秋十五夜の満月、すがすがしい光が欄杆に囲まれた中庭をくまなく照らし渡している」(岩波文庫?松枝茂夫訳)。「名月の庭」で何が動いたのかは分からないが、各国とも、とりつく島を失わないで済んだ。

 「この大宇宙、もとより東西も南北もないのだから、どこに住みつこうと同じこと。空中より来たからには、空中に去るまでだ」。これも紅楼夢の一節だが、現実世界のくびきは重い。

 日朝間には拉致問題が重く横たわる。北朝鮮が拉致被害者のものとして提出した遺骨は、日本側のDNA鑑定では別人のものと判明した。道は険しいが、政府は共同声明の順守を促しつつ、拉致問題での協議も強く進めてほしい。

 山路(やまみち)を登りながら考えた漱石は「兎角(とかく)に人の世は住みにくい」と「草枕」で書いた。「住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人といふ天職が出来て、こゝに画家といふ使命が降(くだ)る」。芸術の誕生だ。

 東京で開かれていた「書はアートだ! 石川九楊の世界展」を最終日のきのう見た。「アートだ!」という言い方に軽みとユーモアを感じて行ったが、気鋭の書家の「書業55年?還暦記念展」の中身は重かった。

 福井県に生まれ、5歳で本格的に書を始めた。大学卒業後に会社勤めもしたが、書家として独立、実作の他、書や文字に関する評論も多く発表してきた。

 作品は、現代詩や自作の詩を書に表したり、「源氏物語」や「徒然草」を極細の線が延々と続く筆致でつづったりと、一つ一つの字は読み取れないものも多い。しかし細く震えるような線と線が重なり合って、新しい表現を生み出している。文字による絵のようであり、建築のようでもあった。

 次に東京の練馬区立美術館の「佐伯祐三展」(10月23日まで)へ向かった。パリの通りの壁に、広告の文字が所狭しと書き込まれた「ガス灯と広告」の前に立つ。

 石川さんは、「このような佐伯の文字への関心は尋常ではないように思われる」と書いている(『書と文字は面白い』新潮文庫)。この画風を書でいえば、草書をさらにくずした「狂草体」とする評もあるという。ひしめき合う文字の群れを見ながら、佐伯に「画家といふ使命が降」った時を思い浮かべた。

 民主党の新代表に決まった前原誠司氏は、比叡山を東に仰ぐ京都市左京区で育った。卒業した市立修学院小学校のホームページを見ると、校歌は「み空に高き比叡の峰」を歌い、校舎から見た山影が紹介されている。

 比叡山を織田信長が攻めたのは1571年旧暦9月中旬のことだ。僧兵の拠点、延暦寺を焼き払い、僧俗数千人を殺害したという。その比叡山を見て育ったであろう前原氏が最大野党の顔となったことに、信長好きの小泉首相は今どんな思いか。

 今年ほど首相が信長を頻繁に語ったことはなかった。郵政改革を桶狭間の合戦にたとえ、閣僚には「明智光秀になるな」と念を押した。「私は信長のように非情だと言われるが、戦国武将たちに比べれば自民党の権力闘争なんか生っちょろい」と演説した。信長への思いは学生以来らしいが、このごろは言外に自己陶酔もちらつく。

 最近の愛読書は『信長の棺』(日本経済新聞社)だ。「首相が解散を決めた一冊」などと大仰な宣伝がされているが、読んで著者の年齢に目がとまった。加藤廣氏75歳。これがデビュー作である。

 中小企業金融公庫や山一証券に勤務し、経営評論家として独立した。学生時代に作家を夢見たことはあったが、小説の筆をとったのは65歳からだ。

 信長が「余はこの国の無能者の掃除人になることに決めた」と語る場面がある。とりつかれたような変革志向に、加藤氏も首相との類似性を見る。政敵一掃を狙うかの観もある首相とどう渡り合うか、民主党を背負う新リーダー43歳の手腕が問われる。

 米国ではこのところブッシュ大統領が新たに最高裁長官に指名したジョン?ロバーツ氏の話でもちきりだ。上院の過半数の承認が必要なので、連日議会で公聴会が開かれ、厳しい質問が浴びせられている。

 「患者が生命維持装置を外してくれと言ったとき、死ぬ権利は認められるか」「抽象論では答えられない。個々のケースが出る前に予断を与えたくない」。ロバーツ氏は大統領好みの保守派と言われるが、リベラル派にしっぽをつかまれないように、巧みに質問をかわす。

 野党幹部が「いつまでもそうやって答えを拒否し続ければいい」と悪態をつくほどだ。米国が熱くなるのも無理はない。最高裁が積極的に違憲審査権を行使する米国では、だれが裁判官になるかで政治の流れが変わるからだ。

 黒人と白人が別々の学校に行く隔離政策をやめさせたのも、女性に妊娠中絶 の権利を認めたのも、最高裁の判決だった。米国の政治学の教科書を開くと、最高裁の裁判官9人を思想的に左から右に順番に並べて解説してある。

 かたや日本では、どれだけの人が最高裁の裁判官の名前や考え方を知っているだろうか。総選挙で裁判官の国民審査の用紙を手渡されて、とまどった人が多かったのではないか。政治に距離を置いてきた最高裁の姿勢が国民の関心を遠ざけてきた面もあるだろう。

 とはいえ、米国でも、保守派と思われていた人がリベラルな判決を連発し、任命した大統領が地団太を踏んだ例もある。そういう裁判官はレーダーに映らない軍用機をもじって「ステルス」といわれるそうだ。

 樋口一葉の日記に、総選挙の投票日についての一節がある。「この日総撰挙投票当日なれは市中の景況いつ方も何となく色めきたる姿なりし」(『明治文学全集』筑摩書房)。

 当時は、女性に選挙権はなく、男性の限られた層しか投票ができない制限選挙だった。それでも文面からは、選挙という新しい仕組みが始まった明治中ごろの街と人々の様子がうかがえる。

 それから1世紀余りたった今、選挙権は成人した日本人に行き渡っている。しかし、外国に住む日本人には、国政選挙では比例区の投票しか認められていない。この「制限選挙」は不当だとする訴えを最高裁大法廷が認め、「公選法の規定は憲法違反だ」という判断を示した。

 これまでは、国政選挙のありかたについては、国会の裁量を幅広く認める判断が主流だったから、流れを大きく変える判決だ。国民の投票する権利を重くみて、不当な制限を長い間放置してきた国会の無責任さを指摘した。これに限らない、立法府の怠慢への、厳しい警告のようにもみえる。

 世界では、多くの先進国に在外選挙の制度がある。国立国会図書館によると、選挙資格で出国後の年数を問う国と問わない国とに分かれている。制限がないのは、アメリカ、フランス、イタリアなどだ。ドイツでは一般人の場合、出国後10年、カナダは5年まで資格がある(『在外選挙ハンドブック』ぎょうせい)。

 今回の判決で、最高裁は、1人当たり5千円の慰謝料を原告に支払うよう国に命じた。額は樋口一葉1枚だが、原告が手にしたものは重い。 

 南米のチリ沖に浮かぶ島の高台に、小さな記念碑がひっそりと立っている。「この島で四年四ケ月、完全に孤独のまま生きのびたスコットランド……ラルゴ出身の船乗り、アレクサンダー?セルカークを記念して」。「ロビンソン?クルーソー」のモデル、セルカークの足跡をたどっている探検家?高橋大輔さんの『ロビンソン?クルーソーを探して』(新潮社)の一節だ。

 約300年前にセルカークが漂着した島は、今ではロビンソン?クルーソー島と呼ばれているという。今年の初めに島で5度目の調査をした高橋さんらが、セルカークの作った小屋の痕跡を見つけたと発表した。出土品や地層の年代測定などで判断したという。

 99年刊の高橋さんの本には、こんなくだりもあった。「セルカークが実際に住んだ小屋、生活の痕跡……それらは歴史の中で 撹拌(かくはん)され、散り散りになり、核心へと近づくのはどうやら遅すぎたようだ」。執念が実ったということか。

 ルソーが教育小説『エミール』に書いている。「わたしたちにはどうしても書物が必要だというなら……自然教育のもっともよくできた概説を提供する一巻の書物が存在するのだ……アリストテレスか、プリニウスか、ビュフォンか。いや、ロビンソン?クルーソーだ」(岩波文庫?今野一雄訳)。

 難破、恐怖、希望、生存。幼いころに読めば、冒険の世界へといざなわれる。長じれば、人生の現実に重ねてクルーソーの生き方や言葉を味わうこともできる。

 今回見つかったという痕跡からは、どんな伝言が聞けるだろうか。

 古代の中国に、指南車という車があったという。歯車仕掛けで、初めに南を向けておくと、車上の人形の手が常に南を指し示して人を導いた。そこから、教え示すことを「指南」というようになったと辞書にはある。

 世の習い事は様々だが、あくびの師匠が登場するのが落語の「あくび指南」だ。にわかに弟子入りした男が、師匠の言う「四季のあくび」のうち、長い舟遊びの後に出るという「夏のあくび」の稽古(けいこ)をつけてもらう。

 何度やっても様にならない。弟子入りにつきあって来ていた別の男がしびれをきらす。「教えるやつも教えるやつだ、へッ、教わる野郎も教わる野郎じゃねえか」(『名人名演落語全集』立風書房)。

 東京の大手監査法人の公認会計士4人が、証券取引法違反の疑いで東京地検に逮捕された。カネボウの粉飾決算への共謀容疑で、見かけの決算を 実際よりもよくした際、「隠すなら、こうしないと隠せない」などと「指南」した疑いもあるという。事実なら、帳簿の番人であるはずの公認会計士が帳簿の粉飾の稽古をつけたことになる。教えた方も教えられた方も病んでいる。

 近年、大手の監査法人の公認会計士らが、企業の不正経理に手を貸す事件が続いている。企業との密接な関係の中で帳簿の数字を扱うという仕事のありようが、罪の意識を薄れさせたのだろうか。

 これでは、どの会社にも欠かせない帳簿という社会への報告書の信用までが揺らぎかねない。「日本株式会社」を監視するはずの会計士や監査法人の「指南車」の向きが問われている。

 旧内務官僚出身で、自民党衆院議員として、副総理や官房長官などを務め、晩年は「政界のご意見番」として知られた後藤田正晴(ごとうだ?まさはる)氏が19日、肺炎のため死去した。91歳。近親者で21日に密葬を済ませた。喪主は妻侑子(ゆうこ)さん。22日から30日までの午前10時~午後4時、東京都文京区後楽1の5の3の財団法人日中友好会館で弔問を受け付ける。

 徳島県出身。1939年に東大を卒業して内務省に入り、69年に警察庁長官に就任。長官時代には、70年安保闘争や過激派の爆弾テロ行動の対策に力を入れた。

 72年には当時の田中角栄首相に請われて官房副長官に就任。76年、衆院選徳島全県区で初当選し、計7回当選した。

 政界入り後は、旧内務官僚出身で各省庁ににらみを利かす実力が評価され、歴代首相から頼りにされた。「田中氏の懐刀」「カミソリ」などの異名をとった。79年の大平内閣で自治相、82年の中曽根内閣で官房長官、83年に行政管理庁長官、84年に総務庁長官、85年には再度官房長官に就いた。

 中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げるなかで行った「防衛費のGNP(国民総生産)1%枠の突破」などに対しては、内側から歯止めをかける役目を果たした。87年9月、ペルシャ湾の安全航行の寄与策として中曽根氏が掃海艇派遣を言い出した際には、首相執務室で怒鳴りあってまで反対したというエピソードも。

 政界を揺るがし、竹下内閣の崩壊につながったリクルート事件後には、自民党政治改革委員長として、派閥や族議員が幅を利かす党の体質改善を柱とした「政治改革大綱」をまとめた。

 92年に成立した国連平和維持活動(PKO)協力法をめぐり、自民党内で論議が行われていた91年秋には、「部隊における正当防衛は憲法で禁じる武力行使にあたらないのか。この法案はガラス細工のようで危ない。歯止めが必要だ」と懸念を表明するなど、護憲の論客として知られた。

 92年の宮沢内閣では法相、93年に副総理を兼務した。

 96年の政界引退後も率直な政治評論で知られ、今年7月の朝日新聞紙上ではインタビューに答え、「首相は靖国神社参拝を控えるのが当然だ」「米国のそばにいれば安心だというのはひとつの選択だが、中国や韓国を敵に回していいはずがない」などと語っていた。

 後藤田氏の事務所は21日、「故人の強い遺志によるものであった事をご理解いただき、お知らせの遅れましたことを深くおわび申し上げます」との談話を出すとともに、「お別れの会」を東京と徳島で行う予定と発表した。



来源: 《朝日新闻》

  中秋之日,别过父母。两家七口,五地望月。


  前天晚饭,弟弟说:好久没有这样四个人吃饭了。


  昨晚,提前过中秋。妈妈说:上次这样一家人过中秋,是99年的事了。的确,上大学以后,就在没有碰到过周末的中秋节。于是,再上一次就是92年,高三前的最后一个中秋。那也是我最后一次中秋点灯吧。


  小时候,生活不好。中秋的月饼都是外婆从广西寄来。寄来的大饼干罐里会有月饼、瓜子、糖果……好多的宝贝。虽然我从不爱吃罐子里的五仁月饼,但看着那个大罐子,幸福之感不亚于过年。


  后来来到广东,知道了中秋点灯的习俗。我马上就喜欢了。那时电灯笼还很贵,妈妈给我和弟弟一人买了一个纸灯笼。我让弟弟先挑,结果黄的归他了,我的是红的。这是我印象中为数不多的让着弟弟的事迹之一。天黑了,我们小心点上蜡烛,用爸爸做的竹竿挑起,到桥上游街。走累了,回来清理干净灯底的蜡,把灯折好放进书架等来年再用。因为一直是我们姐弟俩自己玩,所以并不知道这个习俗的结尾是当夜把灯笼烧掉。直到几乎是最后一次点灯,我们第一次和周围的孩子约了玩耍,才知道别人会在灯笼烧掉的时候从惋惜到欢叫。那晚,我俩犹豫再三,还是没舍得。后来与广州的同学谈起,说法不一。我想,这大概是一些家长为了安慰因不慎把灯笼烧掉而哭泣的孩子,才想出的说辞吧。对那些孩子而言,点灯烧灯会不会又是另一种记忆和习惯呢?


  这么多年,不小心养成了很多习惯。除了灯笼,还有正月的新衣、元宵的汤圆、端午的粽子、三十的香草驱邪澡……比起乡下的孩子,这些少得可怜简单得可笑的习惯其实并不能说明自己是个传统的人。但蓦然回首之间,却发现自己满喫糯甜粽香,浸淫在节日的温馨里,已然成了传承的一分子。


与蒋纬国