Archive for 9月, 2005

 繰り返し見る映画の一つに、黒沢明監督の「七人の侍」がある。大詰めを迎えた総選挙で走り回る7党のリーダーについて「七人の党首」という言葉が思い浮かんだ。

 七という数は、何かをひとまとめにしたり、区切りを付けたりするのにいいようだ。七曜、七草に七変化、七つの海に七不思議。七転八倒やラッキーセブン、七光りというのもある。

 「七人の党首」は、「七福神」のように、それぞれ笑顔をふりまいている。皆、おそらくは「七つ道具」があり、「なくて七癖」もあるのだろう。

 各党首を取り上げた本紙の記事によると、激しく競い合う党首には、重なっているところもある。「尊敬する人」に「信長」をあげるのは、自民?小泉氏と民主?岡田氏だ。共産?志位氏と国民新党?綿貫氏は、ともに「父」という。「好きな映画」では、広島の被爆を扱った「父と暮せば」を、志位氏と社民?福島氏があげた。公明?神崎氏の「男はつらいよ」は、志位氏もあげている。

 カラオケでうたう歌は、さまざまのようだ。X JAPAN(小泉氏)、村田英雄(神崎氏)、ビートルズ(志位氏)、松田聖子(福島氏)、北島三郎(綿貫氏)。新党日本?田中氏は唱歌「ふるさと」、岡田氏は、歌わないという。

 カラオケの歌とは別に、「七人の党首」はそれぞれ、日本の未来をうたっている。ちまたに流れている「七つの未来」のうちで、本当に未来へ希望を託せる「七色の虹」はどれなのか。よく見比べてから「今」を選んで、未来への責任も果たしたい。

  或许人是本能地恐惧死亡,可我却从未有过。我觉得,唯有求生之人才会怕死。因为想要活着,所以会意识到死亡的恐怖。


  意识,追究到大脑活动上,就涉及刺激感应的最小单位–神经。神经可以解释为神经细胞、神经键和神经递质。思考、感受、记忆、目视、耳闻、鼻嗅以及各种动作,这一切身体机能的最小单位就是神经。刺激感应(神经冲动)则是神经细胞中产生电的变化,神经递质经由神经键传递。


  众多神经共同构筑了人类的思考。于是,好像没有什么神明、宗教可言了。细胞并非有意识地活动着,而人,不过是个功能集合罢了。


  我还是不觉得死是件恐怖的事。


  还有33天。

 南北戦争の英雄だったグラント元米大統領は明治の初めに来日し、天皇と握手を交わしている。随行した米紙記者が、その場の天皇の緊張ぶりやぎこちなさを強調し、「歴代天皇で初めての握手」と報じた。

 歴代初かどうか定かでないと断りつつ、ドナルド?キーン氏もこの握手の模様を『明治天皇』(新潮社)で詳しく紹介している。どんなに不慣れでも、握手は開国日本が避けて通れない作法だった。

 維新より前は宮中にも庶民にも握手の習慣はなかった。今でも日本人同士はまずしない。出張先の外国でやむなく握手することはあるが、気恥ずかしさが伴う。できれば省きたいとも思う。

 先日、衆院選の女性候補が、面談した岐阜市長に握手を拒まれる一件があった。帰り際、候補が「じゃ握手でも」と求めると、市長がやんわり断った。特定候補に肩入れしない姿勢の表れだったが、テレビで報じられると、「非礼だ」「大人げない」と批判が集中した。

 昨年秋、球界初のストをめぐる交渉でも握手拒否が話題になった。席上、球団側代表が笑顔で差し出した手を、古田敦也選手会長がきっぱり拒む。球団側の甘い顔にだまされてなるものかという決意が感じられ、こちらは広く共感を呼んだ。

 あいさつ文化に詳しい国立民族学博物館の野村雅一教授によると、お辞儀や会釈が伝統の国々にも握手文化は浸透しつつある。それでも「握手史」の短い人々には、握手はするのも拒むのも難しい。あまり強く握ると粗野な印象を与えるが、日本人は概して握り方が控えめだそうだ。

 新聞記者が書く記事は、大きく三つに分けられると思う。一つは「何が起きているのか」、二つ目は「なぜ起きたのか」、三つ目は「それをどうとらえ、どうすべきなのか」

 一つ目は様々な事実についてのニュース記事だ。二つ目は分析や解説記事に当たる。三つ目は社説やコラムなども入るが、筆者の場合は日々苦吟している。

 記者は「何が起きているのか」を求めて世の中の動きに迫ろうとする。紙面の記事の多くはこの一つ目で、新聞の土台を成している。ここが揺らいだのでは二つ目、三つ目も揺らぎかねない。

 ましてや、虚偽の内容が記事になるようでは、報道機関として成りたたない。その、あってはならないことが、本紙の選挙報道の中で起きてしまった。読者や関係者には、深くおわびしなければならない。

 目方の軽い新聞紙は、いわば、吹けば飛ぶような存在である。しかし、そこには人と時代の営みが詰まっている。そしてそれらが、世の中の姿を的確に映しながらつづられている時に、新聞は初めて、読者の信頼に裏付けられた重みを持てるのではないだろうか。

 新聞記者になって30年以上になるが、今も、輪転機が一斉に回る姿を思い浮かべると心が引き締まる。何もなかった真っさらな紙に記事が印刷され、世の中に出てゆく。出たものは、もう取り返しがつかない。それは、ささやかだが厳粛な事実の誕生であることを改めて胸に刻んでおきたい。これ以上読者の信頼を損なえば、輪転機を止めざるを得ない日すら来かねない。覚悟を胸に出直したい。

 ラフカディオ?ハーン(小泉八雲)は、日本に移住する前、米ルイジアナ州のニューオーリンズで記者として働いていたことがある。その時代に記憶して後に本にまとめたことわざに「水は絶えず川に向って流れる」がある(『ラフカディオ?ハーン著作集』恒文社)。

 大型ハリケーン「カトリーナ」に襲われたニューオーリンズで、湖や運河の堤防を破った水が市街に流れ込んだ。街より周りの湖やミシシッピ川の水面の方が高い所が多く、ことわざとは逆に水が絶えず街に向かって流れようとしているような場所だ。危険性が指摘されていたのに、堤防の強化はなされなかった。

 行政の対応には、まだ疑問がある。地震とは違い、ハリケーンは刻々と近づく「予告された災害」だ。対策をとる時間はあった。常襲地帯の住民が怖さを知らないはずもない。

 避難命令は出されていた。しかし逃げる手だてを欠いた人たちが多く、犠牲になったらしい。行政側は避難のための車の手配や近隣の州との連携を十分とっていたのか。警告を出すだけでは責任を果たしたとはいえまい。

 ハーン編のことわざ集にはこういうのもある。「思案が彼の頭に居つくと、足には居らぬ」。頑固さについてのことわざで「人に足を動かすことを強要できても決心を変えさせることはできない」の意だという。

 災害時には、足を動かすように促されても動けない人がいる。軽くみて、動こうとしない人がでることも考えられる。それを前提にして、住民の全体が速やかに足を動かせるように導く計画が必要だ。

 1923年、大正12年9月1日の昼前、寺田寅彦は東京?上野で絵の展覧会を見た。11時58分、喫茶店で紅茶を飲んでいるときに、関東大震災に遭う。

 両足のうらを下から木槌(きづち)で急速に乱打されるように感じた。物理学者でもあった人らしい表現だ。次いで、大きな揺れが来た。われ先に出口に駆け出す人たちがいる一方、ビフテキを食べ続ける客もいた。

 震災時の東京を、作家の著作で横断的に見ると、揺れや被害は場所によってかなり違った。家の被害が瓦の落下程度だった芥川龍之介は、早々と見舞いに出かけた。室生犀星には、子守車にサツマイモやジャガイモをいっぱい積んで届けた。

 犀星は、生まれたばかりの赤ん坊と妻が入院していた都心の病院が焼けたと知らされる。避難先は不明という。その夜はほとんど眠れず、翌日上野の公園を捜し回ってようやく妻子と出会った。

 幸田露伴の娘、文は、1日が19歳の誕生日だった。住まいは隅田川の東方で、被害はさほどではなかったが、傷ついた避難民が続々とやってきた。萩(はぎ)すすきが見ごろの庭を休み場に開放したが、誰も入ろうとしない。人々は放心してたたずみ、みとれ、涙をこぼしたという。

 芥川が、佐藤春夫に言っている。「地震だからいまいましいよ……たゞ自然が四寸動いただけなのだ……不服の持って行きどころがない」。芥川は、震災で燃える東京を「大いなる溶鉱炉を見るが如し」と記した。自然が動くのは、いまだに止められない。しかし炎の炉の方は、少しでも小さくなるように備えてゆきたい。

 最近の言葉から。戦後60年の8月がゆく。広島県海田町の黒瀬フサコさんは毎晩、焼けこげたズボンに手を合わせ眠る。広島市で被爆して亡くなった夫、原八朔(やいち)さんがはいていた。「母の後は私がズボンを守り続けます」と娘の村上隆子さん。

 韓国には、被爆しながら被爆者援護法の対象外にされたままの高齢者が400人以上いる。鄭外先(チョンウェソン)さんは申請に必要な証人が見つからない。「手帳をとるのは、天の星をつかむようなものです」

 「今度こそ双方が対立に終止符を打ってほしいというのが、痛めつけられた住民の切なる願いだ」。津波で住民の8割以上が死亡したインドネシアの村の村長が政府と独立派ゲリラの和平調印で述べた。

 少年院や刑務所の篤志面接委員らの手記集が出版された。DJの西任白鵠(にしとあきこ)さんは、撮る角度で様々に写るカメラを例えに、少年たちに語りかけたという。「人はみな物の見方も違えば、考えも違う。君たちもそのままでいい」 。

 後味の悪さが残る甲子園大会だが、長崎県立の清峰が、さわやかな風となった。初出場で優勝候補を次々破り、ベスト16に。甲子園が「普通の高校生でも練習すれば行ける場所と分かった」とエースの古川秀一君。

 骨肉腫のため昨秋13歳で亡くなった福岡県大牟田市の猿渡瞳さんの作文「命を見つめて」が教科書に採用される。「戦争や、平気で人の命を奪う事件、いじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見るたびに怒りの気持ちでいっぱいになります……本当の幸せって、いま、生きているということなんです」

  所谓活着,就是中枢神经的运作。中枢神经一旦停转,人实际上也就死了。不过如此。大脑停动,思考也即停止。那些所谓地狱天堂只是人一厢情愿。什么哲学宗教也都与死人无关。却正因为此,我相信“超生”。


  一死以解脱,是我唯一的愿望。


  还有34天。


  起床时,听见附近人们在互相拜年。我躺在床上,脑子里不停想着的依然只是关于死的事情。


  地图上选定的深山里,一定能找到合适的树木。只要把绳子一头绑一个脑袋大小的绳圈,另一头固定在树干上。然后找一个可以垫脚的东西,踩上;头伸进绳圈。最后,两眼一合蹬开脚踏,几分钟就完了。


  我再也不去想什么无痛苦死法;也不再幻想怎样体面地死。只要能真正死掉就足够了。


  还有35天。