1923年、大正12年9月1日の昼前、寺田寅彦は東京?上野で絵の展覧会を見た。11時58分、喫茶店で紅茶を飲んでいるときに、関東大震災に遭う。

 両足のうらを下から木槌(きづち)で急速に乱打されるように感じた。物理学者でもあった人らしい表現だ。次いで、大きな揺れが来た。われ先に出口に駆け出す人たちがいる一方、ビフテキを食べ続ける客もいた。

 震災時の東京を、作家の著作で横断的に見ると、揺れや被害は場所によってかなり違った。家の被害が瓦の落下程度だった芥川龍之介は、早々と見舞いに出かけた。室生犀星には、子守車にサツマイモやジャガイモをいっぱい積んで届けた。

 犀星は、生まれたばかりの赤ん坊と妻が入院していた都心の病院が焼けたと知らされる。避難先は不明という。その夜はほとんど眠れず、翌日上野の公園を捜し回ってようやく妻子と出会った。

 幸田露伴の娘、文は、1日が19歳の誕生日だった。住まいは隅田川の東方で、被害はさほどではなかったが、傷ついた避難民が続々とやってきた。萩(はぎ)すすきが見ごろの庭を休み場に開放したが、誰も入ろうとしない。人々は放心してたたずみ、みとれ、涙をこぼしたという。

 芥川が、佐藤春夫に言っている。「地震だからいまいましいよ……たゞ自然が四寸動いただけなのだ……不服の持って行きどころがない」。芥川は、震災で燃える東京を「大いなる溶鉱炉を見るが如し」と記した。自然が動くのは、いまだに止められない。しかし炎の炉の方は、少しでも小さくなるように備えてゆきたい。

 最近の言葉から。戦後60年の8月がゆく。広島県海田町の黒瀬フサコさんは毎晩、焼けこげたズボンに手を合わせ眠る。広島市で被爆して亡くなった夫、原八朔(やいち)さんがはいていた。「母の後は私がズボンを守り続けます」と娘の村上隆子さん。

 韓国には、被爆しながら被爆者援護法の対象外にされたままの高齢者が400人以上いる。鄭外先(チョンウェソン)さんは申請に必要な証人が見つからない。「手帳をとるのは、天の星をつかむようなものです」

 「今度こそ双方が対立に終止符を打ってほしいというのが、痛めつけられた住民の切なる願いだ」。津波で住民の8割以上が死亡したインドネシアの村の村長が政府と独立派ゲリラの和平調印で述べた。

 少年院や刑務所の篤志面接委員らの手記集が出版された。DJの西任白鵠(にしとあきこ)さんは、撮る角度で様々に写るカメラを例えに、少年たちに語りかけたという。「人はみな物の見方も違えば、考えも違う。君たちもそのままでいい」 。

 後味の悪さが残る甲子園大会だが、長崎県立の清峰が、さわやかな風となった。初出場で優勝候補を次々破り、ベスト16に。甲子園が「普通の高校生でも練習すれば行ける場所と分かった」とエースの古川秀一君。

 骨肉腫のため昨秋13歳で亡くなった福岡県大牟田市の猿渡瞳さんの作文「命を見つめて」が教科書に採用される。「戦争や、平気で人の命を奪う事件、いじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見るたびに怒りの気持ちでいっぱいになります……本当の幸せって、いま、生きているということなんです」

  所谓活着,就是中枢神经的运作。中枢神经一旦停转,人实际上也就死了。不过如此。大脑停动,思考也即停止。那些所谓地狱天堂只是人一厢情愿。什么哲学宗教也都与死人无关。却正因为此,我相信“超生”。


  一死以解脱,是我唯一的愿望。


  还有34天。


  起床时,听见附近人们在互相拜年。我躺在床上,脑子里不停想着的依然只是关于死的事情。


  地图上选定的深山里,一定能找到合适的树木。只要把绳子一头绑一个脑袋大小的绳圈,另一头固定在树干上。然后找一个可以垫脚的东西,踩上;头伸进绳圈。最后,两眼一合蹬开脚踏,几分钟就完了。


  我再也不去想什么无痛苦死法;也不再幻想怎样体面地死。只要能真正死掉就足够了。


  还有35天。

  我说要努力。班董googoo大人(捋须)言道:


 あすの公示から、総選挙は本番を迎える。残暑が続くなか、あの騒々しい候補者名の連呼が始まる。そう思うだけで汗がにじむ。

 ところが今夜、ピタリと止まる政治の動きがある。正確に言えば、30日午前0時をもって、公職選挙法によって「動かすな」と言われる。インターネットでの運動だ。候補者のホームページは更新が禁じられる。活動報告のメールマガジンも配信できない。投票依頼の電話がかけ放題なのとは対照的だ。金権選挙を防ぐための法律が、膨大な情報を速く安く伝える手段を封じている。

 米国ではネット選挙が当たり前だ。昨年の大統領選では「ブロガー」が注目された。ネット上に個人的な書き込み「ウェブログ(weblog)」を載せる人たちで、共和、民主両党の大会にも招かれた。討論会でブッシュ大統領の背中が膨らんでいた「無線機疑惑」も、彼らが情報源だった。

 韓国の盧武鉉大統領は、ネット上のファンを現実に組織化して勝った。選挙当日には投票率の経過発表ごとに「いま○○パーセント。君は行ったか?」というメールが飛び交った。

 日本でも3年前、総務省の選挙研究会がネットの一部解禁を促した。なのに国会は法改正をしない。「お年寄りの支持者が多い党に不利」「中傷に悪用されないか」。こんな慎重論が自民党などに多いからだ。

 公約の解説や候補者の選挙中の本音がネットで読めれば面白い。有権者が探して見に行くので受け身でない選挙体験にもなろう。「あと一歩、最後のお願いです」なんて絶叫もメールならうるさくない。

 吾輩(わがはい)は「刺客」である。名前は言えない。人前で言えるような仕事でもない。吾輩に仕事が来た流血の時代はとうに過ぎたはずなのに、現代の日本で「刺客」が飛び交っていると聞いて驚いた。

 民主主義社会について、哲学者カール?ポパー氏も言っていたというではないか。流血を見ることなく、政権を交代させる可能性のある体制だと。今の日本はどうなったのかと思って来てみたら、実際には刃傷ざたはないというので、ひとまずほっとした。

 先日、政権党が、候補を「刺客」と呼ばないでほしいと報道機関に申し入れたという。吾輩とは逆に、表舞台に立つ人たちだが、元気で楽しそうに殴り込んでいる面々も居るようだ。

 党首の小泉氏は「別に『刺客』とか言うつもりはない」と言っていたが、この人の言辞は、相変わらず独特だ。郵政法案が参議院で否決されて解 散した日には、あのガリレオを引き合いに出した。「地動説で有罪判決を受けたとき、『それでも地球は動く』と(ガリレオは)言った」

 法案の正当さを地動説にたとえて強調したかったのだろうが、中世の闇の中の宗教裁判に重ねるのは、闇をかいくぐって生きてきたような吾輩からみれば、やや無理がある。参院でだめなら即総選挙という手を使ったとも聞いたが、現代日本の首相の権力も、なかなか絶大なものだ。

 今日は、その総選挙の公示日らしい。そういえばポパー氏は、流血なしに政権交代を可能にする手だての一つとして選挙をあげていた。来たついでに、吾輩も結末を見守ることにしよう。

 40年も前の夏のことである。太宰治の作を次々に読んで、その世界にひたりかけていた。しかしある日、地方での疎開生活から終戦後の東京に戻った「私」が、「何の事も無い相変らずの『東京生活』」と述べるくだりでつまずいた。

 おびただしい人が死に、家を失った戦禍の街の営みを「何の事も無い相変らずの」とする語り口に違和感を覚えた。若い時分の勝手な読み方ではあったが、太宰への旅は、この「メリイクリスマス」の冒頭で、いったんは途切れた。

 この短編は、占領下の昭和22年、1947年の「中央公論」1月号に掲載された。昨日、図書館で手に取ってみた。茶色に色変わりし、古い本に特有のひなたくさい香りをまとっている。太宰が生きていた時に印刷された一冊かと思うと、「相変らず」のくだりも、その先の「この都会」を「馬鹿は死ななきや、なほらない」と語る段も、実際には聞いたことのない肉声を聞く思いがした。

 同じ昭和22年1月の「群像」に、太宰は「トカトントン」を発表している。兵舎の前で敗戦の玉音放送を聞き、「死のう」と思った男が、背後から聞こえてくる音に気付く。金づちでクギを打つトカトントンという音が、それまでの悲壮も厳粛も一瞬のうちに消し去った。

 確かに敗戦で日本は変わった。しかし、人間たちでつながっているこの世の営みは「相変らず」でもある。いつの頃からか、そう読むようになった。

 60年前の8月28日、連合軍の先遣隊が神奈川県の厚木飛行場に到着した。焦土の日本での占領の時代が始まった。

 夏の台風は時に迷走する。先日の11、12号のように二つが接近すると、とりわけ複雑な動きを見せて予報官を泣かせる。双子がにらみ合って大回転することもあり、これは「藤原効果」と特別な名で呼ばれる。いち早く研究した気象学者の藤原咲平(さくへい)氏にちなんだ。

 藤原氏は大正の末からラジオで気象解説を担当した。昭和16年、1941年に中央気象台長に任命されたが、4カ月後には天気予報が禁じられる。真珠湾攻撃の日を期して気象情報は機密とされた。台風の進路はおろか地震の被害や翌日の暑さ寒さも公表できなくなった。

 予報が再開されたのは、敗戦直後の8月下旬だった。ラジオが「今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」と放送した。ほぼ4年ぶりの予報だったが結果は外れた。

 気象庁刊行の『気象百年史』によれば、その夜のうちに豆台風が上陸し、東京を暴風雨が襲った。手痛い黒星に藤原氏は頭を抱えた。今なら非難の猛風を浴びたはずだが、当時の人々は違った。空模様の予報を聴くだけで、戦火が去った実感に浸ることができたのだろう。

 戦時中の翼賛的な言動が問題とされて、藤原氏は昭和22年春、公職から追放された。長女の霜田かな子さん(79)によると、そのすぐ後に体調を崩し、昭和25年の秋に永眠した。「気象学者としては無念な晩年でしたが、気象台の皆様は最期までご親切でした」と言う。

 郷里の信州諏訪には、後輩たちが建てた記念碑がある。没後半世紀が過ぎたこの夏も、気象台職員ら60人が集い、花を手向けた。

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