Archive for 7月, 2005

 イブラヒムおじさんは、パリの下町で小さな食料品店を営んでいる。フランソワ?デュペイロン監督の映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(03年)は、このトルコ移民の老人と孤独な少年の心の物語だ。

 異国でひっそり暮らす信心深いイスラム教徒を、70代に入った名優オマー?シャリフが演じた。落ち着いたたたずまいは持ち前だが、その姿は、異国にとけ込もうとする移民の知恵や、必要に迫られて身につける「擬態」を表しているようだった。

 移民が周りから際だたない暮らしを強いられるのはフランスに限らない。周りにとけ込む姿勢をとりつつも、移民一世の場合は母国への思いが心の支えになっているのだろう。

 ロンドンの同時爆弾テロ事件の容疑者の多くはパキスタン系だった。親たちが、かつて植民地支配していた英国に来た後に生まれた。そして近年、こうした移民二世や三世の帰属意識が改めて注目されている。

 ロンドンのイスラム人権委員会のアンケートで「英国社会の一員だ」と答えたイスラム教徒は約4割にとどまった。一方で「差別を受けた」と答えた人は8割もいた。母なる国も、安らげる居場所も無いという悲痛な思いで日々を過ごす青年も多いのか。

 イブラヒムおじさんは、親を失った少年を養子にして、ふたりでトルコへ旅する。そこには安らぎと悲しみとが待っていた。母国で土に帰る老人と、別離を越えて生きてゆく少年と。国籍や民族、そして親と子すらも超えた、ひとりとひとりの人間のきずなへの希求が静かに描かれていた。

 昨日、本紙の「朝日川柳」に載っていた一句に笑いを誘われた。〈飲んで騒いで丘に上るな知床の/さいたま市 岸保宏〉。笑いといっても、苦い笑いである。

 北海道の知床がユネスコの世界自然遺産に決まったが、単純には喜べない思いをした人も少なくなかったのではないか。先に遺産に登録された鹿児島県の屋久島や、青森?秋田両県の白神山地では、観光客の急増で汚染が懸念されている。

 世界遺産条約は、自然と文化を人類全体の宝物とし、損傷、破壊などの脅威から保護することをうたっている。日本政府が登録を推薦したということは、損傷や破壊をしないと世界に約束したことになる。

 知床では、80年代に国有林伐採への反対運動が起きた。それから今回の登録まで、長い道のりだった。数多くの人たちの力がよりあわされて、大きな実を結んだ。これからも自然を保ち続けてゆく責任は重いが、日本の自然を世界遺産という「地球の目」で見直すのはいいことだろう。

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)を設立するための会議は、第二次大戦が終結した60年前の秋に、ロンドンで開かれた。アトリー英首相は、演説の中で「戦争は人の心の中で生まれるもの」と述べた。

 これが、ユネスコ憲章の前文の有名な一節となった。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」。戦争を繰り返さないため、世界の各国は互いをよく知る必要がある、との反省が込められている。知床の自然もまた、心の砦の礎になるようにと願う。

 茨城県取手市で書道を教えている松本恒子さんは84歳である。地元の合唱団の仲間約120人といっしょに、ドイツへ行って、ドイツ語でベートーベンの「第九」を歌ってきた。

 歌い終えると、ドイツの人たちから大きな拍手。「やった、という感じでした。それにしても、10年おきに2度もドイツで歌えるなんて、思ってもみなかった」

 松本さんが取手第九合唱団に加わったのは、91年のことだ。歌は好きだが、「第九」ともドイツ語とも縁がなかった。テープを聴いて、歌詞を丸暗記した。その5年前に生まれた合唱団の2度目の演奏会だった。

 このあと、「次はベートーベンの母国で」という声が上がった。「最初は、とても無理だと思われていたのですが」と言うのは小野耕三さんだ。合唱団のいまの代表である。合唱団には会社員、公務員、商店主ら様々な人がい る。つてを求めていくうちに、バーデンバーデンの交響楽団が共演を引き受けてくれた。

 それが95年のドイツへの初めての旅となる。その5年後、バーデンバーデンから指揮者のW?シュティーフェルさんを招いて、取手で演奏会を開く。そして、今回のドイツ再訪である。小野さんは「こんなに長く続いたのは、5年に1回というペースだったからだと思う。手づくりの演奏会は、準備や資金の手当てが大変なのです」という。

 このゆったりとした歩みがいいのだろう。早くも、「5年後もドイツで」という声が出ている。松本さんは「5年後ならば、行けるかもしれない。ぜひ行きたいですねえ」と話している。

 夏休みの始まりを告げる特別の儀式がある。湖のほとりに降りて行き、片手をそっと湖水につけるのだ。児童文学の名作「ツバメ号とアマゾン号」シリーズを書いたアーサー?ランサムの若き日の回想である。

 英国の湖水地方などを舞台に、休暇中のヨットの冒険を描いた彼の作品は、世界各地で帆船好きの子供たちを生んだ。船乗りを養成する独立行政法人航海訓練所の雨宮伊作さん(47)もその一人だ。

 ランサムの世界にひかれて東京商船大に学び、練習帆船勤務を生きがいに、多くの実習生を育ててきた。2000年ミレニアム記念の北米練習船レースでは、1等航海士として乗り込んだ海王丸が、世界の強豪を抑えて1位に輝いている。

 なぜ、この時代に帆船で実習をするのだろうか。雨宮さんは言う。「風がなければ帆船は動きません。味方にすれば快適だが、敵に回すと命さえ失う大自然の脅威を前に、いかに力を合わせるのかを学ぶのです」。2カ月に及ぶ遠洋航海が終わるとき「実習生の目は輝き、やさしくなり、すこし大人びます」

 ヨットの本場英国では、青少年教育として練習船が活用されている。ランサム作品で最も緊迫感あふれる「海へ出るつもりじゃなかった」は、主人公の4人兄弟が、霧と嵐の中、漂流し始めた帆船を操って英国からオランダまで北海を横断する話だった。危機を乗り切ることで彼らは大きく成長する。

 帆船乗りの世界には「帆が教える」という言葉があるという。自然を忘れ、効率ばかりが優先される時代に「帆が教える」ものは多いはずだ。

 ひげをそる手が滑って顔を切りでもしたら、銃殺されるかも知れない——。ことし日本でも公開された韓国映画「大統領の理髪師」は、ある日突然、朴正煕(パクチョンヒ)大統領の専属理容師に選ばれた男の動転ぶりを描いて退屈させない。

 参上した主人公に大統領の側近が言い渡す。カミソリは無断で使うな、質問はするな、仕事は15分で終えろ。映画の中のお話ではあるが、大統領の散髪が15分きっかりとはせわしない。見終えて散髪時間の長短を考えた。

 小泉首相の散髪は時に2時間を超す。行きつけの理容店は都心のホテルの地下にある。夜11時に入店し、翌午前1時半までいたこともある。「店内に抜け道があってホテルで誰かと密談している」「だから店を出ても髪が元のままなのか」。妙なうわさが政界に立つ。

 20年前から小泉氏を調髪してきた理容師の村儀匡(むらぎただし)さん(47)は、一笑に付す。「店のどこにも抜け道なんかありません」。念入りな整髪が自慢で、パーマは2時間、カットでも1時間はかける。爪(つめ)の手入れもする。「髪形が不変なのは、切ったかどうかさえ微妙な仕上がりをお好みだからです」

 古来、権力者に雇われた理髪師の悲喜劇は数知れない。ギリシャ神話の理髪師は王様にロバの耳が生えたと知り、秘密をばらす衝動を抑えられない。オペラ「セビリアの理髪師」では、賢い理髪師フィガロが、頼まれて伯爵の縁結びに奔走する。

 小泉首相の理髪を巡る悲劇や喜劇は聞かない。ただ村儀さんも怖い夢を繰り返し見る。手元が狂って首相ご自慢の長髪を切り落とす夢だという。

 愛知万博の主会場のある長久手(ながくて)町は、古戦場の町として知られている。16世紀に、羽柴秀吉の軍と徳川家康の軍が対決する長久手の戦いがあった。町は、ナポレオン軍が敗れた古戦場として有名なベルギーのワーテルローと姉妹都市の縁を結んでいる。

 長久手の古戦場からそう遠くない会場に、国や企業など、それぞれの「旗印」を掲げた展示館が立ち並ぶ。仕掛けの大きそうな展示館に人が集中しているようだ。しかし民芸品の即売場のような素朴な一角もにぎわっている。その周りでは、こんな会話も聞こえる。「ちょっと南アフリカに行ってくる」「私はザンビア」「こっちはコンゴ」

 おびただしい展示から、それぞれの一点を見いだすのも万博の楽しみだろう。イタリア館の「踊るサテュロス」も、そんな一つになるかもしれない。

 サテュロスは、ギリシャ神話の酒 神ディオニソスの従者だ。恍惚(こうこつ)の表情で旋回するさまをかたどったブロンズ像は、地中海の海底から漁網で引き揚げられ、2千年の眠りからさめた。両腕や右脚は失われているが、躍動感は失われていない。限りのない時の流れに身を委ねている限りある人間の生を、像はうたいあげているように見える。

 「博覧会はもと相教え相学ぶの趣意にて、互いに他の所長を取りて己れの利となす」(『日本の名著?福沢諭吉』中央公論社)。諭吉は、遣欧使節の随員として幕末にロンドン万国博を見て「西洋事情」に紹介した。

 今、世界の事情は厳しい。せめて万博は、互いに他の長所を広く認め合う場であってほしい。

 昨日の朝、小雨降る東京駅をたって名古屋に向かった。新幹線と在来線、リニアモーターカーを乗り継いで、愛知万博の入り口に着いたのは3時間後だった。

 日差しが強い。ペットボトルは持ち込み禁止なので、入り口で「没収」されたボトルが山をなしている。そこを通り抜けるとすぐにペットボトル飲料の売り場がある。皮肉な光景だが多くの人が買う。

 メーン会場の展示館は、行列の長さがかなり違う。80分待ちの隣が30秒待ちだった。日本館は90分待ちだという。普段なら敬遠するところだが、せっかくの機会と思い、並び始めた。長く直射日光にさらされる場所に来た。ペットボトルの水をハンカチにかけて頭に載せる。75分で中に入った。見たのは正味15分ほどだった。外に出ると午後4時だったが、このころでも、近くの名古屋市では30度を超えていた。

 会場では暑さの対策は幾つも見られた。長い回廊では、人工の霧が噴き出す「ドライミスト」の下で一息つく人が多かった。木材を多用した会場のつくりにも照り返しを和らげる効果があるようだ。しかし、これからが本番の暑さの中で大丈夫かとも思った。

 行列ができるのが日常なら、ひさしや日よけを増やしてはどうか。見に行く人は、うちわや日傘、帽子を用意し、十分に水分補給して、無理には並ばない方がいいようだ。

 万博についての本社のアンケートに、こんな意見が寄せられていた。「環境だけではなく、人にも優しい万博であってほしい」。夏休みで、子供たちも増える。笑顔で帰れる万博にしたい。


 言葉とは、人生に寄り添う愛(いと)しい道連れではないか。文化庁の国語世論調査に表れた「世間ずれ」についての回答のずれをみて、そう思った。

 この慣用句の意味を「世の中の考えから外れている」と答えた人が、10代では6割いた。本来の意味である「世間を渡ってきてずる賢くなっている」の方は、この年代では1割強だった。

 本来の答えの方は、年かさが増すほど増え、60歳以上では6割強に達した。人生の経験を積みながら、この句を実感してゆくさまがしのばれる。一方で、この年代でも、「世の中とのずれ」と答える人が2割近くいた。

 もうひとつ、目をひくのが、「最近の言い方」についての調査だ。すばらしい、おいしい、かっこいいなどの意味で「やばい」を使う人が、10~20代で半数を超えた。「わたし的には」「うざい」も、この年代が目立って多かった。言葉が人の道連れならば、時には揺らぎもあるのだろう。

 「大体の見込をいふと、日本語は日ましに成長して居る。語彙(ごい)は目に見えて増加し、新らしい表現法は相次いで起り、流行し又模倣せられて居る」。民俗学者の柳田国男が、『国語の将来』(創元社)にこう書いたのは、60年余り前だった。

 柳田は、さらに述べている。「日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはつきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本当の愛護だと思つて居る」。難題と自覚しつつ、愛しい日本語の未来を信じた言葉のように思われる。

 ランダムハウス英和大辞典(小学館)の2版には、「日本語から借用された英語」が載っている。英米の主要辞書や新語辞典などに見られる英語化した日本語で、約900語にのぼる。


 ツナミ、キモノ、ハラキリといった19世紀以来の古いものから、1990年代のものまでがアルファベット順に並んでいる。単語を拾っていると、それらは、日本に投げかけられてきたまなざしの変遷のようであり、日本が外に対して見せてきた姿のようでもある。


 90年代に登場したという語の中に、日本の古くからの経済のありように絡むものが二つ、目に付いた。keiretsu(系列)、そしてdango(談合)である。日本経済の強さや閉鎖性、不明朗性を感じさせる言葉なのだろう。


 日本道路公団が発注する鋼鉄製橋梁(きょうりょう)工事の談合事件を巡り、元公団理事で、受注調整をしたとされる会社の元顧問らが逮捕された。天下りした公団OBの親睦(しんぼく)団体のメンバーが、全国の公団支社から未発表の工事発注予定を集めていたという。


 dangoの根深さを思わせる事件だが、日本経団連の奥田会長は、談合問題について「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもの」と、記者会見で述べた。橋梁談合事件を念頭に置いた発言とは思えないが、首をかしげざるを得ない。


 大がかりな談合の罪が解明されようとしている時である。財界トップによる他人事(ひとごと)のような言い方は、内外から誤解を招かないだろうか。「tsutsu uraura」が、借用語に載るようなことがないように願いたい。


  中新社北京七月二十日电 (记者 应妮)著名童话作家严文井因肺炎感染医治无效,今日凌晨四时三十分在此间病逝,享年九十岁。


  据了解,严文井因为心肌梗塞在医院住了有两个多月了。当记者赶到严老家中时,他的妻子康志强已是一身黑衣黑裤,正忙着布置灵堂,“照片是二十多年前照的”,她说。正在写的挽联是“风风雨雨站稳船头,坎坎坷坷走到彼岸”。


  严文井先生的前期创作以散文、小说为主。但统观其全部作品,却“以童话和寓言的影响为较大”(《自传》)。一九四三年出版的童话集《南南和胡子伯伯》,描写了旧社会少年儿童的悲惨遭遇和他们对美好未来的憧憬。一九四九年发表的《丁丁的一次奇怪旅行》和一九五0年发表的《蚯蚓和蜜蜂的故事》这两篇童话,是他创作进展的标志。一九五七年的中篇童话《唐小西在下一次开船港》,则反映了他童话创作的成熟。


  严文井,原名严文锦,中学时代便爱好写作。中学毕业后,到北京图书馆当小职员,开始用严文井的名字发表作品。主要著作有:《严文井散文选》、《严文井近作》、《严文井童话集》、《严文井童话寓言集》等。他的《丁丁的一次奇怪的旅行》、《“下次开船”港》、《小溪流的歌》等童话被译成英、俄、捷、日、朝等文字,受到国内外小读者的喜爱。去年十月人民文学出版社为祝贺严老九十岁生日,出版了《严文井选集》。