天声人语


 日韓の首都を結ぶシャトル便が8月から毎日8便に増える。先日の日韓首脳会談で決まった。いよいよソウルが東京からの日帰り出張圏に入る。

 朝、羽田をたち、昼前に金浦空港に着く。ソウルで仕事を済ませ、夜には東京へ戻る。その便利さは歓迎したい。だが「せめて1泊くらいは」と願うのも人情だろう。せっかくの出張なのだから。

 昔の人も出張には息抜きを期待した。堅物で知られた幕末の勘定奉行、川路聖謨(としあきら)の近江出張に随行した武士たちは、川路の厳命に悲鳴を上げた。朝寝するな、進物は返せ、酒食の接待は断れ。それほどお堅い奉行でもやはり人の子である。帰路は一行で遠回りして、伊勢参りなど満喫している。

 帰りの遠回りくらいならよいが、仕事を放り出して遊んだとなれば話は別だろう。東京都環境局のベテラン職員はおととしの冬、出張先の長崎市で海釣りに興じた。三井物産が開発した排ガス浄化装置の性能を試験するはずだったのに、誘われると足は試験場に向かわず、沖でさおを振った。

 三井側はこっそり試験結果を改ざんし、性能の劣る装置が都営バスやトラックに取り付けられた。関与した社員ら3人は今月、詐欺の疑いで逮捕されている。都職員は停職3カ月の処分を受け、今月末まで謹慎中という。

 今や主な都市なら日本中どこでも日帰りできる時代である。その分、泊まりがけ出張の妙味は減った。米国で開発中の最速機なら、将来は東京と米東部が1時間で結ばれるそうだ。ニューヨークですら日帰りかと思うと、出張する気もなえてしまう。

 衆議院には、「議場内粛正に関する決議」というものがある。「議場の神聖を守るは国民の信託を受けたるわれらの最大の義務なりと信ず。よって今後議員は酒気を帯びて議場並びに委員会に入ることを厳禁すべし」

 日付は、戦後間もない昭和23年の暮れである。決議の少し前、国会内の食堂で、泥酔した蔵相が女性議員に抱きつき、蔵相と議員を辞職している。昔は「良識の府」などと呼ばれていたからかどうかは分からないが、参議院の方には、同じような決議は無いという。

 半世紀以上を経て、粛正決議が突然注目されている。先日の衆院本会議に飲酒をして出席していたとして、与野党双方の議員計18人の懲罰動議が出された。

 民主党から「飲んでいた」と名指しされた小泉首相は「一滴も飲んでいない」と、委員会で岡田代表に強く反発した。難問が山積している この国会で、飲酒を巡る「党首討論」が盛り上がって目立つのは、いささか珍妙で、わびしい感じもする。

 国会の「本場」といえばイギリスであり、イギリスといえばパブである。英国議会の近くにも伝統のパブがある。議会の空き時間には、議員たちがアルコールを楽しむという。本会議や採決の時間が近づくと、その日程に合わせて店のベルが鳴る。議員たちはぞろぞろと店を出て議場に向かう。

 国会に限らず、判断に悪影響が出るような酒は控えるのが、たしなみというものだろう。しかし反論も聞こえてくる。「飲んだ方がいい判断ができる」。人をそんな気にさせてしまうのも、酒のこわいところである。

 東京?板橋の自宅で両親を殺したあと、15歳の少年は池袋に出た。映画館に入り「バットマン ビギンズ」を見る。そして新幹線に乗って、長野県の軽井沢へと向かった。

 社員寮の管理人の父と母を刺すなどして殺害した疑いで逮捕された高校1年の長男の供述という。映画は、主人公の幼い時に、両親が殺害される設定だ。少年は、どんな面持ちで映画館にいたのだろうか。

 福岡市では、15歳の中学3年生が、自宅マンションの部屋で、17歳の兄を包丁で刺し殺した容疑で逮捕された。「兄に夜中に起こされて肩をもまされるなど、こきつかわれている」と、友人に不満をもらしていた。

 板橋の少年の方は、「父に馬鹿にされた」と供述しているという。まだ詳しい動機は分からないが、少年による二つの事件の底には、肉親に対する日頃からの「憎しみ」があるようにみえる。

 日本の殺人事件の検挙人数は、戦後の混乱期や経済成長期を経て減少し、2000年代は1300~1400人台となっている。うち少年は、60年代までは300~400人台が多かったが、70年代初めに100人台となり、2000年代は100人前後の年が多い。

 この大きな流れを見る限りでは、少年による殺人事件は、増える傾向にあるとはいえないようだ。しかし自宅を犯行現場とし、肉親を殺害する「家庭内殺人」は、世の中に独特の衝撃を与えている。戦後の60年で都市化が進み、都会の多くの家庭から庭が失われた。土の庭はあってもなくても、小さな「こころの庭」があれば、と思う。

 60年前の6月23日は、沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされる。その15年後の同じ日には、新しい日米安保条約が発効した。6月23日は、沖縄戦で失われた二十数万の人々を慰霊する日だが、安保の名の下で、沖縄に多くの米軍基地を置き続けることが事実上決められた日でもある。

 戦後、日本が独立したのは、51年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。旧安保条約の調印もなされた。

 それから半世紀以上が過ぎた。冷戦が終わってからも久しいのに、沖縄の米軍基地は、いまだに圧倒的な規模で存在している。昨年、米軍のヘリコプターが大学に墜落したが、日本の警察は現場検証が何日もできなかった。これでは、日本は果たして本当に独立しているのかという思いすら浮かぶ。

 沖縄に行けば、海外の戦場と直結していることを実感する。ベトナム戦争のころは、飛び立った爆撃機がベトナムの人々を襲った。

 北ベトナムへの空爆が始まったのは65年だった。翌年来日した哲学者ジャン?ポール?サルトルが講演会で述べた。「知識人は、この戦争は、世界一豊かな国であるアメリカが、貧しい国に対して行っている侵略なのだということを、暴露して行かなくてはならない」

 戦後の実存主義の代表格で、ノーベル文学賞を拒絶した。9?11からイラク戦争に至った世界を見たなら、「嘔吐」「壁」「出口なし」の作家は、どう語ることだろうか。80年に没したが、今月が生誕から100年にあたる。

 郵送されてきた利用明細書に「100万リラ」とあった。前の月に、ローマのホテルで1泊した分として印字されている。通貨がユーロになるかなり前で、リラは円の1割弱だったが、それでも8~9万円にはなる。そんなホテルには泊まっていないから、すぐおかしいと分かった。

 クレジットカードの会社に連絡した。間もなく「間違いでした」という電話があり、当然ながら銀行口座からの引き落としはなかった。カードのデータ処理の「誤り」なのか、ホテルかどこかの「過ち」なのかは分からなかった。

 カードは便利だが、誰かがなりすまして使うこともできる。対面しないインターネット上の売買は、カードそのものではなく、会員番号や有効期限のやりとりでも成りたつ。

 不正アクセスによるカード情報の大規模な流出がアメリカで起きた。ネット社会のもろさを象徴するようなできごとで、被害は国境を超えて日本にも及んでいる。米の情報処理会社が、社内に蓄積すべきでなかったカード情報を「調査目的」で記録に残したという。不正アクセスは、昨年だったとの報もある。流出から発覚するまでが、なんともまだるっこしい。

 芥川龍之介が「河童」に書いている。「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」

 人間の社会の方では、カードの利用という一時代の習慣を、軽蔑しきるのも、抜け出すのも難しい。明細書を点検したり、不用なカードを減らしたりするのが、そこそこに賢い生活のようだ。

 両の手のひらを合わせる。拝む、祈る、誓う、感謝する。この古来のしぐさには、さまざまな意味が込められている。

 小泉首相が、硫黄島で戦没者の碑に手を合わせた。追悼式は、2万8千人にのぼる日米両軍の戦死者の霊を慰めるものだった。敵味方を超えた慰霊だが、現職首相の硫黄島訪問は戦後初めてだった。首相は、23日には、沖縄戦の終結60年を迎える沖縄での追悼式に出席する。摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍民を問わずに犠牲者の名が刻まれている。

 戦後、日本での戦没者の追悼は、自国の軍人や市民に向いた。未曽有の戦禍への追悼が、まず身内へ向かうのは致し方のないことだったかも知れない。しかし戦後60年になっても追悼の幅はなかなか広がらない。日本が侵略し惨害を与えた人たち全体に対しても手を合わせることが大切だ。

 〈切実な願いが吾れに一つあり争いのなき国と国なれ〉。小泉首相は、ソウルでの首脳会談後の会見で、韓国の女性歌人?孫戸妍(ソンホヨン)さんの一首を引いた。

 孫さんは戦前に東京で生まれ、戦後再び来日して和歌を学んだ。戦後の最初の歌集の名は韓国の国花の「無窮花」だった。巻頭近くに「悲願」と題した歌がある。〈東亜細亜の涯(きはみ)の国に生ひたちし吾ひたすらに平和を祈る〉。

 孫さんの歌を引いたということは「切実な一つの願い」の実現に力を尽くすということなのだろう。ぜひそうあってほしい。そのためには、日本によって被害を受けた側の声に耳を澄ますことだ。そして、互いに手をたずさえて歩んでいきたい。

 AEDをご存じですか。自動体外式除細動器といっても、ますますわかりにくいかもしれない。乱暴にいえば、心臓が突然止まった時に、電気ショックを与えて、心臓の動きを元に戻すものだ。1年前、医師や救急救命士に限らず、だれでも使えるようになった。空港やホテルなどに置かれつつある。

 銭湯にもあると聞いて、東京?市谷の大星湯を訪ねた。「AED」のステッカーがはられ、現物はフロント横の棚にちょこんと載っていた。経営者の前田哲也さん(37)は「地域の人たちにお役に立てればと思って」という。

 大星湯は7年前から人工呼吸や心臓マッサージの講習をしている。この町のために何かやれないか。若い経営者たちで話し合った時に、救命講習を受けたことのある前田さんが手を挙げた。受講生は銭湯のお客さんたちだ。年に数回、脱衣場が講習の場に変わる。AEDを置くのは自然な流れなのだ。

 自宅や路上で心停止をきたす人は年2、3万人といわれる。先月末と今月初めには、愛知万博の会場で、AEDが役に立ち、男性2人が命をとりとめた。

 東京都済生会中央病院副院長で、心臓病を専門にする三田村秀雄さんは「救急車が来る前に使うのがAEDです。将来は消火器のように一家に1台ほしい。行政が交番や消防団員宅に置き、普及を図るべきです。そうすれば値段も下がる」という。

 買えば数十万円。レンタルしている大星湯は月約7千円の持ち出しだ。それでも前田さんは「銭湯は深夜まで開いています。救急の地域の拠点になりたい」と話している。

 ホタル研究家の間で、聖典と呼ばれる本がある。昭和10年刊の『ホタル』という学術書だ。ページを開くと、ホタルに寄せる偏執的な愛情に圧倒される。

 著者の神田左京は、相当な奇人だった。昆虫研究家の小西正泰さんによると、とにかく偏屈で人と交わることができない。定職定収のないまま、学界の大御所の論文でも誤りと見れば徹底攻撃した。「私はホタルと心中する」と妻帯もしなかった。

 たえず不遇を嘆きはしたが、業績は海外までとどろいた。英国の学界から「ぜひ会員に」と誘われ、日本の皇室からは進講を頼まれたが、「権威は嫌い」と応じない。昭和14年、65歳で没した。

 功績の一つは、西日本と東日本でゲンジボタルの発光間隔が倍ほど違うと発見したことだ。西では2秒ごとに光るのに、東では4秒おきなのはなぜか。戦後の研究家は、彼が残した難題に取り組んだ。東西の遺伝子の違いと見る説が支配的だが、東京都板橋区職員の阿部宣男さんはこれに新説で挑む。「西でも東でもホタルは同じ。温度が上がれば明滅が早くなる」と。

 高校時代は暴走族に入り、大学は中退した。就職した区役所でたまたまホタルの飼育をあてがわれ、のめり込む。16年間の成果を「人の感性とホタルの光」という論文にまとめ、茨城大で今春、博士号を受けた。「僕も研究者としては異色だけど、左京の反骨ぶりにはしびれます」と笑う。

 はるか昔からホタルは人々を魅了してきた。先人が恋や魂を連想したように、神秘の光は美しく妖(あや)しい。時には人の生き方すら変えてしまう。

 フランスの文化相にもなった作家アンドレ?マルローは、22歳の時に盗掘のかどで有罪判決を受けた。カンボジアで、アンコールワットの近郊の寺院から女神の像を盗み出そうとした。わずかに首をかしげてたたずむ、たおやかな像だったという。

 アンコールワットの巨大な石造りの遺跡を欧州に紹介したのは、19世紀の仏の探検家アンリ?ムオだった。「かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪ねるものといっては野獣しかなく、聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声、鹿の啼声しかないような辺りに存在しようとは」(『インドシナ王国遍歴記』中公文庫)。

 「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残した報道写真家?一ノ瀬泰造が、危険を冒してアンコールワットに向かったのは73年だった。母信子さんが編んだ『もう みんな家に帰ろー!』(窓社)に、遺跡に近いシエムレアプでの「最後の一枚」が載っている。

 風に揺らぐ木々の彼方(かなた)に遺跡の塔の先が見える。「望遠レンズで眺めては“俺の血”が騒ぎます」。知人に書き送って間もなく行方不明となった。

 シエムレアプの国際学校が、銃を持った男たちに一時占拠された。日本人の園児らは無事だったが、いたましいことに、カナダ人の幼児が殺された。警察は、金目当ての犯行とみているようだ。「観光バブル」で潤う層と貧困層との差が広がっているという。

 遺跡は、時を超えて人を引きつけてきた。「訪ねるもの」が膨らんで、人心の方が荒(すさ)んでしまったのだろうか。

 「荒鷲、沖縄へ反復猛攻——敵飛行場を炎上」。60年前の6月18日の本紙1面の見出しだ。しかし現地では、日本軍が、いよいよ追いつめられていた。

 18日の夜、本島南部の地下壕(ごう)で看護活動をしていた「ひめゆり学徒隊」の女生徒や教員に、軍からの「解散命令」が伝えられた。「私はただただぼうぜんとなってしまいました……敵を目前にして、この壕を出て、いったいどこへ行けというのだ……」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社)。

 翌19日の未明、壕を出る時、日本語で投降の呼びかけが繰り返された。壕の奥に移った瞬間、米軍のガス弾が襲った。生徒と教員51人のうち、生き残ったのは5人だった。

 ひめゆり学徒隊の悲劇は、十数万もの県民が犠牲になったとされる沖縄戦の象徴となった。宮良さんたちの壕の前には「ひめゆりの塔」がたてられ、89年には、そばに「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。

 資料館を、今週、東京の青山学院高等部の関係者が謝罪のために訪れた。2月の入試で、ひめゆり学徒隊の体験を聞いた生徒が「退屈だった」と感じたという趣旨を含む英語の問題を作って出した。これを知って、資料館の語り部のひとりが述べていた。「昔は話すのもつらかった体験を、『それでも伝えなければ』と思って語り出した。……衝撃を受けた」

 先日、沖縄タイムスに、「今年が沖縄戦終結から60年と認識している県内の高校生は6割に満たなかった」というアンケートの結果が載った。日本全体では、どのくらいになるのかと思った。

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