天声人语


 朝日新聞阪神支局に入る。この支局に来るたび、2階の編集室に向かう階段の途中で立ち止まる。87年の5月3日の夜8時過ぎ、この階段を、銃を持った男が上って行った。そのおぞましい気配を、今も感じる。

 細長い編集室の奥の壁に、射殺された小尻知博記者の写真を掲げた小さな祭壇がある。事件には法的な時効があっても、無念の思いに時効は無い。改めて冥福を祈り、凶行への憤りを新たにする。

 合掌しつつ、この社会がおびただしい犠牲を払って、ようやく戦後手にした言論の自由のことを思う。この原則は、社会や国家が暴走しないための大切な歯止めの一つだ。それを、暴力の前に揺るがせてはならない。

 本社から支局や総局に行く時、「厳粛な里帰り」という言葉を思い浮かべる。外で取材してきた若い記者が先輩やデスクと話す姿は、昔と変わらない。懐かしさと厳しさを感じるそのやりとりから、記事が生まれる。支局とは、新聞社が、読者や市民や町と出会う最前線であり、まだ真っ白な明日の紙面を一からつくる現場だ。あの夜、そうした支局員らの語らいを銃弾が襲った。支局に保存されている小尻記者が座っていたソファには、損傷があまり見られない。散弾が体内で炸裂(さくれつ)したからだ。

 支局の入り口に、1本の桜がある。大木ではないが、長くこの地に根を張り、記者らの往来を見続けてきた。局舎の建て替えは決まっているが、支局では桜は残したいという。

 東京へ戻る新幹線は、連休さなかで満席だった。バッグから憲法に関して気になる本を取り出した。

 阪神方面から帰京する新幹線で、『「映画 日本国憲法」読本』(フォイル)を開いた。この妙なタイトルには多少の説明が要る。

 4月下旬、東京で「映画 日本国憲法」(ジャン?ユンカーマン監督)の上映会があった。日本国憲法について世界の知識人が語るドキュメンタリーで、初回に約700人が来場した。当方は立ち見だったが、100人ほどが入れなかったという。

 映画をもとに構成したのが『読本』だ。「日本は立派な国家です。しかし、自分自身の声で発信し、アメリカと異なるアイディアを明瞭(めいりょう)に示す勇気をもつことができませんでした」。日本の戦後史を描いた『敗北を抱きしめて』でピュリツァー賞を受けた歴史家ジョン?ダワー氏だ。「(日本が)アメリカのような『普通の国』になりたいというのなら、現時点で恐ろしい話ではないですか……アメリカはますます軍事主義的な社会になってきているのですから」

 国内に「改憲ムード」が広がっているようだ。確かに憲法と自衛隊との関係はねじれている。しかし例えば日本が「軍隊を持つ」と表明することの重みがどれほどになるのか、詰めた議論が世の中に行き渡っているとは思えない。

 日本や世界の未来が米国に左右されかねないという時代に、米国との関係をどうするのかも緊急の課題だ。改憲案より、どんな国をめざすのかを詰める方が先ではないか。

 家族連れの多い新幹線の中を見渡す。将来、わが子が軍人になり、外国の戦場に行く。そんなことを思いめぐらす親など、いそうもなかった。

 JRの尼崎駅に降り立つと、雨が本降りになっていた。1日の昼前である。駅前には、この地にゆかりのある近松門左衛門の浄瑠璃の女主人公「梅川」の大きな像が立っている。

 駅の北側の脱線現場に向かう。電車が激突したマンションの1階は、青いシートで覆われている。あの日、シートのあるあたりの車内では、安否を気遣う家族や友人からの携帯電話の呼び出し音が鳴り続けていた。小さな画面には、発信元を示す「自宅」の2文字が浮かんでいたという。

 マンションと線路とは、あまりにも近くて、一体のようにすら見える。電車からは、行く手の正面に立ちはだかるように、マンションの方からは、電車が常に飛び込んでくるように見えていただろう。なぜ防護壁がなかったのかと悔やまれる。

 わずか100メートルほど離れて、特急「北近畿3号」のずんぐりとした姿がある。あの時、運転士が、信号が黄色になったことに気づかなければ、脱線の現場に突っ込んで行ったかも知れない。

 電車最後尾の7両目の近くに立つ。降りしきる雨が屋根をたたき、滴り落ちて敷石にしみ込む。それぞれの未来を抱きながら乗り合わせた人たちと、その人々を失った多くの人たちの無念の涙のようにも思われ、目を閉じた。

 この現場に近い広済寺には、近松の墓がある。彼は、寺の一角で執筆したと伝えられる。その来歴を、朝日新聞の阪神支局員だった小尻知博記者も書いたことがあった。支局が襲撃され、小尻記者らが殺傷されて、3日で18年になる。西宮市の阪神支局に向かった。

 スプーンを口に近づけられると、いやいやをする。舌が飛び出してくる。いったん口に入れた食べものをプーと吐き出す子もいる。

 国立病院機構?千葉東病院の重症心身障害児の病棟である。ここの子どもたちは、一人では食べることも飲むこともできない。その訓練を見せてもらう機会があった。

 看護師さんらがやさしく声をかけて緊張をほぐす。子どものあごに手を当てて、口をゆっくり閉じる。そうすれば、もぐもぐできるようになる。指導する歯科医師の大塚義顕さんは「食べることは生まれついての能力ではなく、段階を踏んで学んでいくものです。その学習に障害児は時間がかかる」という。

 もとはといえば、約30年前に当時の歯科医師らが子どもたちの口の中を清潔にしようと考えたのがきっかけだ。管からではなく、口から食べることの大切さに気づき、千葉東病院は障害児の訓練の先駆けとなった。昨年末には人事院総裁賞を受けた。

 「おいしいものを子どもに味わわせたい。それは親のだれしもの願いです」。そう語るのは全国重症心身障害児(者)を守る会の北浦雅子会長だ。施設で暮らす次男の尚さんはウナギが大好き。細かくつぶすと、しゃべることはできないが、もっとほしいと笑顔で催促する。逆に酸っぱいものだと、動かせる左手で払いのける。

 きょうの夕食の献立は何ですか、と先週、千葉東病院に電話した。鶏肉とピーマンのみそいため、ナスとベーコンの煮物……。ごちそうを前にした笑顔が思い浮かんだ。そこには、入院して30年を超える人もいる。

 開催中の愛知万博で「サツキとメイの家」が人気だという。映画『となりのトトロ』で主人公の姉妹が暮らした昭和30年代の民家が、映画そのままに再現されている。
 映画を文庫化した『小説となりのトトロ』(徳間書店)を開くと、姉妹があの家に引っ越すのは、5月のある朝のこと。家財とともに姉妹を車の荷台に積んで、父が陽気に歌う。「5月に5月(サツキ)と5月(メイ)を乗せて行くぞ」。サツキがもちろん皐月(さつき)なら、メイは英語で5月を指す。5月が三重奏する軽やかな引っ越し場面だが、映画では割愛された。
 庭先でメイが、クスノキの巨木を見上げて不意にくしゃみをする場面がある。光に目を射られたからだ。たしかに、日差しが夏めくこの季節、空を仰ぐとくしゃみが飛び出すことがある。寒くもないのになぜなのだろう。
 くしゃみやせきに詳しい旭川医大助教授の野中聡さんに尋ねた。原因は「神経の誤作動」という。目で知覚した「まぶしい」という刺激が、脳に伝わる途中、なぜか鼻からの刺激と受け取られる。
 昼間に映画館から外へ出たときなどにも起こる。2~3割の人に自覚症状があるが、深刻な症例はまずない。野中さんによると、米医学界ではこれを俗にアチュー症候群と呼ぶ。日本ではハクションだが、あちらではアチューと響くそうだ。
 ほかの国々ではハクションをどう言うのか、本紙の海外支局に聞いた。韓国ではエッチュイ、フランスだとアチュウム。ロシアがアプチヒーで、エジプトはアータスだという。人類共通の生理現象なのに、ずいぶん違うものだ。

 最近の言葉から。「こんばんは。今月もこの時間がやってまいりました」。約2千人を収容する福岡刑務所では月に1回、所内放送でリクエスト番組「明日への扉」を流す。ある受刑者の要望は、かぐや姫の「妹」。「妹が手紙で『兄ちゃん、出所したらカラオケで歌って』という。娑婆(しゃば)では疎遠なのに、ここでは家族や兄妹のきずなを強く感じる」

 死刑確定から33年、三重「名張毒ブドウ酒事件」で高裁が奥西勝死刑囚の再審請求を認めた。「悲願でした……私の父や母は、私の無実を信じて亡くなった……新たに生命力をいただいた気持ちです」

 「買収ドラマ」とも言われたニッポン放送の株を巡る攻防が「和解」。「想定範囲内のいい方だった」と堀江ライブドア社長。「内心、忸怩(じくじ)たる思い」は日枝フジテレビ会長。

 橋本NHK会長が理事の総入れ替えを決めた。「今の状況は『泥まみれ』という感じ。こういうところを抜け出たい」

 古田敦也選手が2千本安打を達成した。「もうダメと思ったこともありました。でも、ここで終わったらおもしろくないとやってきた」。8月で40歳。「いつまでやれるか、楽しみ」「もう一度、優勝したい」

 太平洋戦争中、敵国として戦った日本と英国、オランダの潜水艦乗組員の遺族らが、長崎の佐世保に集った。潜水艦戦没者の慰霊碑の横に桜を植えた。呼びかけた鶴亀彰さんが語る。「許し合えるのは60年の歳月ゆえかもしれない。でも、親同士が殺し合った我々が一緒に桜を植えることで、争うことの無意味さを伝えられれば」

 第二次大戦が終わりに近づく60年前の4月は、その後の世界のありようを左右するような節目となった。米国のルーズベルト大統領が12日に急死してトルーマンが後を継いだ。湘南の鎌倉に住む作家?大佛次郎は13日、「ルーズベルトのともらい合戦のつもりにや夜半大襲す」と記した(『大佛次郎敗戦日記』草思社)。

 ドイツを追いつめる米軍とソ連軍がエルベ川で出会う「エルベの誓い」は25日だった。その日の日記にはこうある。「伯林(ベルリン)は両断されたと報道せられる……残った興味はヒットラーがどうなるかである」

 28日、イタリアのムソリーニが処刑される。その数日前、ヒトラーはこの盟友あてに打電したという。「生存か滅亡かの戦いは、頂点に達した……いかに戦いが苛酷であろうとも、あえて死を恐れぬドイツ国民と同様の決意を持つ同盟国民は、事態の打開のために邁進するであろう」(児島襄『第二次世界大戦』小学館)。

 もう一つの同盟国日本では、1日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が続いていた。小磯国昭内閣が総辞職して、鈴木貫太郎内閣となる。

 「ムッソリニが殺害せられミラノの広場にさらされし由。新聞には遠慮して出してないが逆吊りにしてモッブの陵辱にまかせたそうである。伯林も殆ど陥落。ヒトラーも死んだらしい」。日記の日付は5月1日、ヒトラーの自殺の翌日だった。

 「エルベの誓い」から60年を記念する式が、25日に米アーリントン国立墓地であった。あのソ連は今はなく、九つの国の代表が献花したという。

 ジャンボジェット機で空港に着陸するとする。高度がぐんと下がり、やがて車輪が滑走路に達する。その瞬間の時速は二百数十キロだという。着陸直後は、窓の外の景色は激しく後ろに飛ぶ。そして、その景色の動きは、自動車の窓から見るのと同じくらいに落ち着いてゆく。

 着陸時の速度は、まだ地上のものとは言えない。900キロ前後で空を飛んでいた時の名残をとどめている。そこから大きく減速して100キロ以下になり、やがて車並みに近づいた時、天上の速度から地上の速度に戻ったと感じる。

 JR宝塚線(福知山線)で脱線した快速電車の速度は、線路を飛び出す直前には100キロを超えていたという。着陸後に滑走する飛行機が、地上の速度に戻る前にコンクリートの建物に衝突したような衝撃だったのだろう。

 カーブにさしかかるのに、なぜ高速で走っていたのか、あるいは速度が落とせなかったのか。他にも脱線に結びつく要因があったのだろうか。原因はまだ分からないが、速度の問題に限れば、この電車は遅れを取り戻そうとしていたようだ。

 手前の駅で40メートル行き過ぎたが、報告は8メートルとすることにしたと車掌が供述しているという。それが事実ならば、40メートルの後戻りでできた分の遅れを圧縮し、報告の8メートルに合わせようとして急いだとの状況も考えられる。

 まる2日たっても、先頭車両の一部には救助の手が及ばなかった。地上の事故なのに、現場は飛行機の墜落すら思わせる。使い慣れた安全なはずの乗り物が、一瞬のうちに多くの命を奪った。何とも痛ましい。

 森鴎外の小説「青年」の主人公は、地方から上京してきた作家志望の青年である。その青年が、明治という「青年期」の日本で、思索や体験を積んでゆく。

 こんなやりとりがある。「一々のことばを秤(はかり)の皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、われわれ青年の特権だね」「なぜ人間は年を取るに従って偽善に陥ってしまうでしょう」(『岩波文庫』)。主人公の名は、小泉純一である。

 小泉純一郎?内閣が発足してから、きのうで満4年となった。戦後の内閣では、長い方に入るという。還暦も過ぎている首相を「青年」呼ばわりするつもりはないのだが、「言葉を秤の皿に載せずに言いたいことを言う」ような様子が、名前だけではなく、「青年」の一節と重なって見える。

 「ひとこと政治」などと指摘されて久しい。言葉の意味をかみ砕いたり、説明に腐心したりするよりは、言いたいことだけ言い切ってしまうやり方に批判が募っていった。しかし、老練な政治家にまとわりついているいんぎんな尊大さや老獪(ろうかい)さは、あまり感じさせない。「ひとこと」に批判が大きくても支持率が高かったのは、こんな「若さ」が関係しているようにも思われる。

 その支持率だが、発足当時の8割から半分ぐらいになった。確かに「ひとこと」では決着しそうもない課題が、国の内外に山積している。

 青年?純一は、日記に記した。「現在は過去と未来の間に画した一線である」。その一線が、この国と世界の未来にとって重みを増す中で、純一郎内閣は5年目を迎えた。

 きのう1日で36人の新しい市長が生まれた。うち29人は市町村合併に伴うものだ。4月だけで、合併による首長選は約80カ所を数える。国じゅうの行政区画が、日に日に書き換えられている。

 ミニ統一地方選ともいえる選挙ラッシュは、政府の財政支援をあてにした「駆け込み合併」の多さを物語る。優遇措置が手厚いうちに、もらえる金はもらっておこう。そんな心理も働いている。

 3町村と一緒になって10万人を超えた市の市長選で、自民党の衆院議員が公共事業をいっぱいやると叫んでいた。聴衆も「4年制の大学を誘致しろ」なんて声援していた。まるで合併さえすれば、お金がわき出るかのようだった。だが、そんな見込みはどこにもない。

 合併で確実なのは、選挙のあり方が変わっていくことだ。自民党の森喜朗前首相は先日の派閥総会で言った。「これまでの町長や議員さんのような後援会のまとめ方は、大きな市の市長には不可能だ」。その結果、地縁や利権に根ざす連呼型選挙は通じにくくなる。

 この変化を加速させようと、前三重県知事の北川正恭氏らが、自治体選挙へのマニフェストの導入を呼びかけている。数値目標や達成期限を入れた公約で、住民と直接契約しよう、と。投票する人々も政策の優先順位や採否の判断を迫られる。選ばれる側と選ぶ側に「双方向の責任」が生まれる。

 もはや「お任せ民主主義」ではいられない。こんなふうに住民の意識が変化したとき、初めてその合併は成功といえるだろう。たとえ、お金が目当ての駆け込み合併だったとしても。

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