去年の5月、東京西郊の公園でチョウチョウをめぐってパトカーが出動する騒ぎがあった。
よく晴れた日の昼前のことだ。数人の男女がそれぞれにカメラを構え、虫や鳥を撮影していた。そこへ保育園児が10人ほどやってきた。「さあチョウチョを捕まえるぞ」。引率の男の先生が捕虫網を配り始めると、カメラを持った男性が制した。「ここではチョウは捕らない決まりです」
先生の記憶では、たちまち険悪な空気になった。「何年も前からここで虫を捕ってきた」と言うと、「羽化したばかりのチョウを捕るのはよくない」と切り返され、口論になったという。撮影の一人が携帯電話で110番に通報し、パトカーが来た。警官は双方から言い分を聴いた。「お気持ちはわかるが、お互いもうこの辺で」
40年前から昆虫の標本作りを教えてきた埼玉県川越市の元教諭、会田冨士夫さん(72)にも似た経験がある。数年前、秩父地方で網を手に夫婦で昆虫を観察していたら、後ろでささやく声がした。「あの人、自然を破壊してるのよ」。若い母親がこちらを指さして、子どもに言い聞かせていたという。
たしかにこの時代、花も虫も貴重な存在だ。それでも、草木を手折り、虫を生け捕りにするのは、幼い世代の大切な体験だろう。「子どもが採集したくらいで絶滅する昆虫などいません」と会田さんは話す。
言い争う大人を見て、園児たちは虫捕りが嫌いになった。網を手に公園へ連れ出そうとすると、今でも「またパトカーが来る」と渋る。あの騒ぎが残した傷だろう。
周一 16 5月 2005
5月15日
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周一 16 5月 2005
5月12日
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42歳で早世した作家、野呂邦暢が芥川賞を受賞した「草のつるぎ」は、陸上自衛隊に入隊した体験がもとになっている。ある日の訓練では「緑色の短剣を逆に植えつけたような草むら」が、小銃を手にして匍匐(ほふく)前進する若い隊員たちに立ちはだかる。
「硬く鋭く弾力のある緑色の物質がぼくの行く手に立ちふさがり、ぼくを拒み、ぼくを受け入れ、ぼくに抗(あらが)い意気沮喪させ、ぼくを元気づける」(『野呂邦暢作品集』文芸春秋)。外の世界では体験できないような隊内での二十歳前後の日々を、躍動的に描いた。
イラクで襲われて行方不明になった斎藤昭彦さんも、二十歳の頃は陸上自衛隊員だった。高校時代から友人に「外人部隊に入りたい」といっており、仏外国人部隊に入隊する。自衛隊は、その過程だったのか。
家族とは、しばらく音信不通だった。最近は英国系の警備会社に属し、バグダッドから米軍基地に機材を運んだ帰りに襲われたという。イラクでの危険は覚悟していたのだとしても、実際に生命が危機にさらされた場面を思うと言葉も無い。
近年、国家の役目の一部を肩代わりするような民間の戦争ビジネスが拡大している。昨年夏にイラクに居た民間の軍事要員は2万人ほどで、アメリカ以外の多国籍軍兵士の総数にほぼ匹敵する(シンガー『戦争請負会社』NHK出版)。
こうした民間企業の活動には規制と監視が無いと、著者は憂慮する。そして21世紀にはこんな格言がいるかもしれないと警告する。「戦争は民間業界に任せるにはあまりにも重要すぎる」
周一 16 5月 2005
5月13日
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地下鉄のホームに満員電車が入ってきた。つえを突いた初老の女性が乗り込む。すぐ中年の男性が立ちあがり、女性は会釈して座った。「日本も、そう捨てたものではない」と思いつつ、この「日本」は「ニホン」かそれとも「ニッポン」かと少し思案した。
「日本」がどう発音されているかという調査結果を国立国語研究所などがまとめた。1400人余の700万語以上の話し言葉を調べると「ニホン」が圧倒的に多かった。「日本一」や「日本代表」でも「ニッポン率」は約2割で、「日本」では「ニホン」が96%を占めた。
「我国号の呼称はニツポンとす」。文部省国語調査会の決定を伝える、34年、昭和9年の本紙の見出しだ。しかし法的な規制はなかった。大日本帝国から日本国になって60年、「ニホン」の定着を印象づける結果だ。
『日本国語大辞典』では、特に「ニッポン」とよみならわされているものを除き、すべて「ニホン」にまとめている。「ニッポン」の項の一つに日本銀行がある。紙幣の裏は今も「NIPPON GINKO」だ。
地下鉄の駅を出ると、けたたましい警笛音がした。一方通行の道を逆進しかけた車への警笛らしい。どぎまぎしている運転席の青年に作業服の男性が「オーライオーライ」と大きな声をかけ、バックさせて横の道に誘導した。青年は深く頭を下げて走り去った。
再び「日本も捨てたものでは……」が浮かんできた。そしてなぜか、国を指すなら日本(ニホン)かもしれないが、さわやかな人を指す時には日本(ニッポン)人という響きもいいと思った。
周三 11 5月 2005
5月11日
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ブッシュ米大統領が「反省」を表明したという。バルト3国の一つのラトビアを訪問中の発言だ。
45年2月の、米英ソ首脳によるヤルタ会談を「強国が交渉し、小国の自由を犠牲にした」と否定的に述べた。第二次大戦の末期で、戦後の国際秩序が話し合われた。
「強国の交渉」と「小国の自由」からは、ヤルタ会談の4カ月前のチャーチル英首相のモスクワ訪問を思い起こす。「機は熟していた」と、チャーチルは『第二次世界大戦』(河出書房新社)に記している。スターリンに「バルカンの問題を解決しようではないか」と告げ、紙に数字を書いて渡す。「ルーマニア ロシア90% 他国10%/……ユーゴスラビア 50-50%/……ブルガリア ロシア75% 他国25%」。スターリンは青鉛筆で紙に大きな印をつけ、同意を示した。
数字は、強国が小国で保つべき発言力 や優位性の度合いだったという。長い沈黙の後に、チャーチルが口を開いた。「何百万の人々の運命に関する問題を、こんな無造作なやり方で処理してしまったようにみえると、かなり冷笑的に思われはしないだろうか? この紙は焼いてしまいましょう」。「いや、取っておきなさい」とスターリンは言った。
ブッシュ氏は、ヤルタ協定が東欧をソ連の支配下に置く結果をもたらしたことに言及し、米国の歴史的責任に触れた。それは、バルト3国や東欧からソ連支配への反発を受けているプーチン政権に対する牽制(けんせい)でもあった。
60年後の「反省」を、泉下のルーズベルトやチャーチルはどう聞いたのだろうか。
周三 11 5月 2005
5月9日
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ゴールデンウイークが終わって、きょうから大学のキャンパスも活気を取り戻す。講義もそろそろ本格化する頃である。
かつては、英語以外にフランス語やドイツ語を学ぶことは、知的な背伸びをしているようで、大学生になったという実感を持ったものだった。最近は、第二外国語を必修から外す所も出てきて、語学学習の風景もだいぶ変わった。
都内の私大で第二外国語のスペイン語を教えている知り合いによると、年々辞書を持たない学生が増えているという。毎年、最初の授業で何冊かの辞書を推薦するのだが、今年3回目の授業で尋ねたところ、クラス30人のうち購入したのは3人だった。かなり前なら、外国語を学ぶのに辞書を買うのは常識だった。いまの学生が辞書を買わない理由は「高い」「重い」「引くのが面倒くさい」の三つだという。
別の私大のベテラン教員は、一昔前のこんな話を教えてくれた。辞書の持ち込み可でフランス語を訳す試験を行ったところ、ある学生は仏和辞典だけでなく、国語辞典も持ち込んだ。訳文に正確さを期するためだった。これまた失われた風景だという。
いま書店の外国語コーナーをのぞくと、「超やさしい○○語の入門」「10日でマスター」といったようなタイトルの薄っぺらい本であふれている。詳しい文法は省略だ。辞書を買わない学生もこういう本は購入する。
辞書を片手に難解な原書に挑戦するなんてことは今時、はやらないかもしれない。だが、外国語は地道な努力が習得の基本である。それはいつの時代も変わらない。
周三 11 5月 2005
5月10日
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先日、JRの尼崎駅に降りた時、時刻表を見た。脱線した電車と同じく、この駅から大阪の北新地などへ向かう線の本数は、朝8時台で上りが13本だった。そして、大阪駅や京都駅へ向かう線の方には、40本あった。東京の山手線が二十数本だから、確かに、かなり密だと思った。
JR西日本は、今後の安全策の一つとして、過密と指摘されているダイヤを見直すという。主要路線で便数を減らすとすれば、民営化以来初めてである。重大事故が起きて、ようやく、増発と加速に歯止めがかかりそうだ。
初の減便は、この会社にだけではなく、便利さを求め続けてきた社会にも、歯止めが必要なことを示しているのかも知れない。「便」とは「人を鞭(むち)うって柔順ならしめ、使役に便すること」と、白川静さんの『字統』にある。そこから、「便利」「便宜」などの意となる。「便々」とは、唯々としてことに従うことという。
脱線事故の後の、職員らのボウリング大会や宴会などが指弾されている。いったん計画されたものごとが、何かのブレーキがかからない限り実行されるのは、JR西日本だけに限らない。
しかし、予定外のことが起こったと知れば、責任者は対応を検討し、必要ならば急ブレーキをかけるはずだ。そのブレーキが極めて弱かったか、無かった。現場で救助活動をしなかった例を含め、「便々」とした人が多かったようで残念だ。
脱線事故への怒りや不安に乗じるかのように、線路への置き石や、置き自転車が頻発している。こうした「便乗」はあさましい。
周三 11 5月 2005
转译:《自杀日记》53
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傍晚时分,一群小姑娘(大概都是低年级小学生)从公寓楼前走过,嘴里哼着圣诞歌曲。我小心地躲在厨房窗后听着,生怕被她们发现。
关于圣诞,我没有一点快乐的回忆。每年都是自己过。买蛋糕时,明明没有可以一同分享的人,却总装作要开派对的样子买大号的。然后,独自坐在房间里,就着电视吃下去。形影相吊。
今年再不会这样做了。
还有48天。
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周二 10 5月 2005
转译:《自杀日记》52
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从诊所开回来的药,我一直没喝。全都拆出来放进一个银色盒子里。那是一周的药量。看着它,我就会想起昨天从猫尸里翻涌出来的蛆。
昨天那只猫身上,的确爬满了蛆。可是,这样的寒冷季节也会长蛆吗?我难道是在做梦?自从去过诊所拿药,我越发恍惚得厉害。也许我真的已经分辨不出梦境和现实了。
我到门口去看了看昨天穿的鞋。鞋尖上有些许污痕。好像是以前弄到的吧,我犹自怀疑着。而那具猫尸竟是如此深刻地留在了我的记忆里。我决定再去那里看看。
天已经完全黑了,楼道上灯光狰狞。地面上还有一些黑色污迹,猫尸已经不在。大概有人来把尸体收走了。又也许,那些根本不是蛆,而是猫肚子里的蛔虫?真要是蛔虫的话,也太短,太多了……
什么才是真实?我真的搞不清。
还有49天。