JR西日本の凄惨(せいさん)な脱線衝突事故から10日あまりたった。深い傷を負い、今も入院している乗客も多い。体の傷だけではなく、心が負った傷の影響も心配だ。
いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)のTはtraumatic(トラウマ的)の頭文字だ。近年よく指摘される「惨事トラウマ」が注目されるきっかけになったのは、19世紀の後半から急増した鉄道事故だった(森茂起『トラウマの発見』講談社)。
鉄道は、近代の機械化、高速化の象徴だ。「それはまさに飛翔(ひしょう)である。そしてつまらぬ事故で、同乗者全員が即死するという思いを振り切ることができない」。鉄道草創期の、英政治家の言葉だという(シベルブシュ『鉄道旅行の歴史』法政大学出版局)。まだ無かった飛行機に乗るかのようなたとえだ。
「二都物語」で知られるチャールズ?ディケンズは1865年6月に列車の事故を体験した。数日後、手紙をしたためる。事故当時の自分の行動を書いていたが、突然、こう記して手紙を終えた。「いまこの思い出の数語を書き記していると、ふと威圧されるのを感じ、わたしは筆を折らざるをえなくなりました」
この事故では、ディケンズは傷を負っておらず、他の乗客たちを助けたという。けがをしなくても、後に、こうした「威圧される感じ」に襲われるという例なのだろう。
尼崎で事故に遭った人たち、その家族や友人、電車に激突されたマンションの住民、そして救助に駆けつけて惨状を見た人たち。様々なトラウマに対し、手厚い心のケアを望みたい。
周日 8 5月 2005
5月7日
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周日 8 5月 2005
5月8日
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毎年ちょうど今ごろから、各地の税務署に同じ要望が届く。「高額納税者リストに出さないで」。長者番付のことだ。載るのは全国でも7、8万人という。
番付に無縁の人々でさえ個人情報の使われ方には不安を覚える。載れば、怪しげな郵便が殺到するし、空き巣や強盗も怖い。切実な悩みなのだろう。
長者番付はいつ生まれたのか。印刷史に詳しい石川英輔さんは「江戸の後期にはもう量産されていた」と言う。長者鑑(かがみ)とか長者控とも呼ばれ、庶民に人気だったという。そう言えば「長者番付」という古典落語がある。田舎の造り酒屋に張られた番付を前に、江戸者が「西の鴻池」「東の三井」とまくし立てる。
鴻池や三井などの財閥が占領下で次々に解体されたころ、いまの長者番付の原型ができあがった。他人の所得隠しを通報すると報奨金がもらえる制度とともに、番付は、「密告税制」を支える柱とされた。報奨金はやがて廃止されたが、番付は残った。
この春に出版された『日本のお金持ち研究』(日本経済新聞社)は、長者番付から年収1億円以上の層を拾い出し、行動や意識を調べた労作だ。著者の京都大学経済学部教授、橘木俊(たちばなきとし)詔(あき)さんが2年前、全国6千人に質問状を発送すると、「詮索(せんさく)するな」「にせの学術調査か」と苦情が来た。
それでも465人から回答が得られた。「協力してくれたら詳しい集計結果を送る」と約束したのが効いたと橘木さんは話す。「ひと様の懐具合は誰でも気になりますから」。番付が生き永らえたのも似たような心理のなせる業だろう。
周日 8 5月 2005
5月4日
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朝日新聞阪神支局に入る。この支局に来るたび、2階の編集室に向かう階段の途中で立ち止まる。87年の5月3日の夜8時過ぎ、この階段を、銃を持った男が上って行った。そのおぞましい気配を、今も感じる。
細長い編集室の奥の壁に、射殺された小尻知博記者の写真を掲げた小さな祭壇がある。事件には法的な時効があっても、無念の思いに時効は無い。改めて冥福を祈り、凶行への憤りを新たにする。
合掌しつつ、この社会がおびただしい犠牲を払って、ようやく戦後手にした言論の自由のことを思う。この原則は、社会や国家が暴走しないための大切な歯止めの一つだ。それを、暴力の前に揺るがせてはならない。
本社から支局や総局に行く時、「厳粛な里帰り」という言葉を思い浮かべる。外で取材してきた若い記者が先輩やデスクと話す姿は、昔と変わらない。懐かしさと厳しさを感じるそのやりとりから、記事が生まれる。支局とは、新聞社が、読者や市民や町と出会う最前線であり、まだ真っ白な明日の紙面を一からつくる現場だ。あの夜、そうした支局員らの語らいを銃弾が襲った。支局に保存されている小尻記者が座っていたソファには、損傷があまり見られない。散弾が体内で炸裂(さくれつ)したからだ。
支局の入り口に、1本の桜がある。大木ではないが、長くこの地に根を張り、記者らの往来を見続けてきた。局舎の建て替えは決まっているが、支局では桜は残したいという。
東京へ戻る新幹線は、連休さなかで満席だった。バッグから憲法に関して気になる本を取り出した。
周日 8 5月 2005
5月5日
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阪神方面から帰京する新幹線で、『「映画 日本国憲法」読本』(フォイル)を開いた。この妙なタイトルには多少の説明が要る。
4月下旬、東京で「映画 日本国憲法」(ジャン?ユンカーマン監督)の上映会があった。日本国憲法について世界の知識人が語るドキュメンタリーで、初回に約700人が来場した。当方は立ち見だったが、100人ほどが入れなかったという。
映画をもとに構成したのが『読本』だ。「日本は立派な国家です。しかし、自分自身の声で発信し、アメリカと異なるアイディアを明瞭(めいりょう)に示す勇気をもつことができませんでした」。日本の戦後史を描いた『敗北を抱きしめて』でピュリツァー賞を受けた歴史家ジョン?ダワー氏だ。「(日本が)アメリカのような『普通の国』になりたいというのなら、現時点で恐ろしい話ではないですか……アメリカはますます軍事主義的な社会になってきているのですから」
国内に「改憲ムード」が広がっているようだ。確かに憲法と自衛隊との関係はねじれている。しかし例えば日本が「軍隊を持つ」と表明することの重みがどれほどになるのか、詰めた議論が世の中に行き渡っているとは思えない。
日本や世界の未来が米国に左右されかねないという時代に、米国との関係をどうするのかも緊急の課題だ。改憲案より、どんな国をめざすのかを詰める方が先ではないか。
家族連れの多い新幹線の中を見渡す。将来、わが子が軍人になり、外国の戦場に行く。そんなことを思いめぐらす親など、いそうもなかった。
周日 8 5月 2005
5月3日
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JRの尼崎駅に降り立つと、雨が本降りになっていた。1日の昼前である。駅前には、この地にゆかりのある近松門左衛門の浄瑠璃の女主人公「梅川」の大きな像が立っている。
駅の北側の脱線現場に向かう。電車が激突したマンションの1階は、青いシートで覆われている。あの日、シートのあるあたりの車内では、安否を気遣う家族や友人からの携帯電話の呼び出し音が鳴り続けていた。小さな画面には、発信元を示す「自宅」の2文字が浮かんでいたという。
マンションと線路とは、あまりにも近くて、一体のようにすら見える。電車からは、行く手の正面に立ちはだかるように、マンションの方からは、電車が常に飛び込んでくるように見えていただろう。なぜ防護壁がなかったのかと悔やまれる。
わずか100メートルほど離れて、特急「北近畿3号」のずんぐりとした姿がある。あの時、運転士が、信号が黄色になったことに気づかなければ、脱線の現場に突っ込んで行ったかも知れない。
電車最後尾の7両目の近くに立つ。降りしきる雨が屋根をたたき、滴り落ちて敷石にしみ込む。それぞれの未来を抱きながら乗り合わせた人たちと、その人々を失った多くの人たちの無念の涙のようにも思われ、目を閉じた。
この現場に近い広済寺には、近松の墓がある。彼は、寺の一角で執筆したと伝えられる。その来歴を、朝日新聞の阪神支局員だった小尻知博記者も書いたことがあった。支局が襲撃され、小尻記者らが殺傷されて、3日で18年になる。西宮市の阪神支局に向かった。
周日 8 5月 2005
5月2日
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スプーンを口に近づけられると、いやいやをする。舌が飛び出してくる。いったん口に入れた食べものをプーと吐き出す子もいる。
国立病院機構?千葉東病院の重症心身障害児の病棟である。ここの子どもたちは、一人では食べることも飲むこともできない。その訓練を見せてもらう機会があった。
看護師さんらがやさしく声をかけて緊張をほぐす。子どものあごに手を当てて、口をゆっくり閉じる。そうすれば、もぐもぐできるようになる。指導する歯科医師の大塚義顕さんは「食べることは生まれついての能力ではなく、段階を踏んで学んでいくものです。その学習に障害児は時間がかかる」という。
もとはといえば、約30年前に当時の歯科医師らが子どもたちの口の中を清潔にしようと考えたのがきっかけだ。管からではなく、口から食べることの大切さに気づき、千葉東病院は障害児の訓練の先駆けとなった。昨年末には人事院総裁賞を受けた。
「おいしいものを子どもに味わわせたい。それは親のだれしもの願いです」。そう語るのは全国重症心身障害児(者)を守る会の北浦雅子会長だ。施設で暮らす次男の尚さんはウナギが大好き。細かくつぶすと、しゃべることはできないが、もっとほしいと笑顔で催促する。逆に酸っぱいものだと、動かせる左手で払いのける。
きょうの夕食の献立は何ですか、と先週、千葉東病院に電話した。鶏肉とピーマンのみそいため、ナスとベーコンの煮物……。ごちそうを前にした笑顔が思い浮かんだ。そこには、入院して30年を超える人もいる。
周日 8 5月 2005
5月1日
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映画を文庫化した『小説となりのトトロ』(徳間書店)を開くと、姉妹があの家に引っ越すのは、5月のある朝のこと。家財とともに姉妹を車の荷台に積んで、父が陽気に歌う。「5月に5月(サツキ)と5月(メイ)を乗せて行くぞ」。サツキがもちろん皐月(さつき)なら、メイは英語で5月を指す。5月が三重奏する軽やかな引っ越し場面だが、映画では割愛された。
庭先でメイが、クスノキの巨木を見上げて不意にくしゃみをする場面がある。光に目を射られたからだ。たしかに、日差しが夏めくこの季節、空を仰ぐとくしゃみが飛び出すことがある。寒くもないのになぜなのだろう。
くしゃみやせきに詳しい旭川医大助教授の野中聡さんに尋ねた。原因は「神経の誤作動」という。目で知覚した「まぶしい」という刺激が、脳に伝わる途中、なぜか鼻からの刺激と受け取られる。
昼間に映画館から外へ出たときなどにも起こる。2~3割の人に自覚症状があるが、深刻な症例はまずない。野中さんによると、米医学界ではこれを俗にアチュー症候群と呼ぶ。日本ではハクションだが、あちらではアチューと響くそうだ。
ほかの国々ではハクションをどう言うのか、本紙の海外支局に聞いた。韓国ではエッチュイ、フランスだとアチュウム。ロシアがアプチヒーで、エジプトはアータスだという。人類共通の生理現象なのに、ずいぶん違うものだ。
周日 8 5月 2005
4月30日
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死刑確定から33年、三重「名張毒ブドウ酒事件」で高裁が奥西勝死刑囚の再審請求を認めた。「悲願でした……私の父や母は、私の無実を信じて亡くなった……新たに生命力をいただいた気持ちです」
「買収ドラマ」とも言われたニッポン放送の株を巡る攻防が「和解」。「想定範囲内のいい方だった」と堀江ライブドア社長。「内心、忸怩(じくじ)たる思い」は日枝フジテレビ会長。
橋本NHK会長が理事の総入れ替えを決めた。「今の状況は『泥まみれ』という感じ。こういうところを抜け出たい」
古田敦也選手が2千本安打を達成した。「もうダメと思ったこともありました。でも、ここで終わったらおもしろくないとやってきた」。8月で40歳。「いつまでやれるか、楽しみ」「もう一度、優勝したい」
太平洋戦争中、敵国として戦った日本と英国、オランダの潜水艦乗組員の遺族らが、長崎の佐世保に集った。潜水艦戦没者の慰霊碑の横に桜を植えた。呼びかけた鶴亀彰さんが語る。「許し合えるのは60年の歳月ゆえかもしれない。でも、親同士が殺し合った我々が一緒に桜を植えることで、争うことの無意味さを伝えられれば」
周三 4 5月 2005
大学流水账5
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差点就想开始写寒假了,发现还早。
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由于刘夫人的缘故,long和花都提到跳舞。那时候,扫舞盲还是新生工作的一个重要部分。至于舞厅,校内只有两处,一是第一饭堂二楼的学生舞厅,即迎新晚会的地点,若干年来常用于举办各种名目的廉价书展;另一个是南门综合商店二楼的教工舞厅,是我们班毕业狂欢的其中一处地方。两处我都没有因为跳舞的原因光临过,就不多说了。而扫舞盲,虽说是自愿活动(好像还要交钱?10元?),在刘的“威逼利诱”下,鲜有置身事外的。我呢,嘿嘿,当时可没认为自己是舞盲。(想当年,高中排演话剧的时候,俺还跳过圆舞曲呢。:)只是仍然一如既往地不积极。long说每周三次,我记不清了,权当是吧。两位老师,我只记得那位男士,后来经证实,是校医院的中医。为什么记得这么清呢?因为他长得很像姜昆。而我竟无聊到总是研究他到底是不是姜昆,以及哪里像,哪里不像。可惜于蓝是个地道的广东女孩,并不太知道姜昆。而ookyoo又没多少功夫理我。所以我也只是偶尔哼哼了几下。另一个女老师据说就是刘夫人了,这个不在我的记忆里。大概总共八次课吧?因为总共学了八种舞。包括慢三、慢四、快三、快四、恰恰、探戈、水兵舞……只数得出来七种了。大多数时候,我和于蓝互为舞伴。其间,跟邱h跳过一次,他大概没想到我这么笨拙。好像还和A班的曾jc跳过一次。在扫舞盲活动中,会有一些高年级的学生干部来带大家跳,但女生大多比较忸怩。后来有一天,我和简在五楼阳台聊天被刘撞到,他批评简高傲,不像话。说的就是在这一次活动中,91级师兄谢ll来请她跳舞,她居然拒绝。说“人家堂堂校团委**,《与你同行》**……请你跳舞是看得起你,你竟然拒绝?”而简不知是完全忘了此事,还是完全没有知道过有人试图请她跳舞,总之弄得一头雾水。不过,跳舞这事,在那以后,就再也没有做过。现在是真的舞盲了。也因此,我的大学故事中完全没有学生舞厅的部分。
天渐渐冷起来,已逐渐适应大学生活的同学们开始上街买些日用品。上街,我们叫“出广州”,因为要到南门车库坐早上八点发、下午四点回的校车。现在看起来,八点出门逛街有些可笑,但那时大多数人都是赶八点的校车的。原因很多,其一,除了这校车,便只有南门外小道那头白云山路上一小时一班的不甚准时的265,因其北端终点站在白云山明珠楼而称“明珠楼车”和“白云山车”;其二,校车点对点,南门车库—越华路,中间不停站,票价1元。“明珠楼车”路线不定,有时走仓边路经小北直上新广从,有时从解放路经桂花岗走广园。中途不定时停站。票价2元。其三,等车的小道在白云山高大的树木间。任谁都可以想见一座山里会流传着怎样可怖而引人遐思的故事。白云山黄婆洞也不例外。尽管265的末班车不过是4点半,但当它从桂花岗杀出重围开进山中,总不免已是暮霭沉沉。基于以上以及更多的原因,好像第一年大多数人还是用1元钱换回一张面值5分的车票乘校车进城。我本是个胆大包天的,只为了不愿早起的原因少坐校车。直到有一次,我看到车外山路上,成队的粗壮男子手持菜刀,甚是骇人。
那时,进城还可以选择第三条路–36路。36路的终点站在离学校两公里外的东方乐园,这一段路有人骑车,有人走路,也有人选择“打摩”。师兄师姐那里传下来的摩托车价位是3元/人;4元/2人。新生介绍会上,学校曾严厉警告过不要乘坐这类农民非法营运的摩托车。可是,交通不便的年代,哪里有挑选的余地?36路走仓边路经北京路,开往珠江泳场。这样一来,越华路–广大路–北京路一带就成了我们购物的主要场所。广大路不长,那时在路中间有一些临时搭建的小服装店。我大学里第一件白衬衫和背了相当长时间的假冒佐丹奴背包就是在那里买的。那时候,北京路新大新门前有一个天桥,还记得天桥底下有两间卖书包的小店,大概就是现在健民药店的位置。呵呵,我想许多人的书包都是在那里出品吧。我连毕业去见工的小包都是在那里买的呢。
这些都是十月以后的事了。我和于蓝在国庆后尝到了回家的甜头,发现那原来并不需要长假连休。120公里,普通的火车只需2个半小时;车票36元,经学生票半价后只要18元。而我们更学会了买便宜的加挂车厢,记得运气最好的一次只花了11元。加挂车厢是旧式的墨绿色直背长座椅,没有空调,车窗两端的金属把手上积满了垢,窗槽里也是各式杂物。常坐火车的人一定记得火车积垢那特有的并不能称之为“臭”的味道。回家的路,总是兴奋期待。坐在窗边,迎着风,随意思想、微笑。下车时,踌躇满志地背上背囊,抽抽被风吹得有点僵的脸皮,别别已经张牙舞爪的头发。鼻子和手同时感到异样,再抓一把头发,摸出黑色结晶体。这才知道,原来广深线还在烧煤。回家的频率大约在每月两次,经济支持则是开学初领到的1500元保送生奖学金。这是到我手里的第一笔钱,被我全数挥霍在思乡上了。
圣诞临近,又是一个怀旧的好季节。每天中午都有人上门推销卡片,每天中午都有人光顾。那时的常销品还包括耳机和钢笔。买卡、写卡、收卡……23号,大早去寄信的人回来说:校门口的邮箱满了!大家相互啧啧称奇。这年圣诞,我也买了好多卡,只不过大多是回家买的。直到这时,我还没有完全接受自己已经生活在广州的事实。蔚也买了好些卡。她好像是给高中班每个同学都寄了,且每张贺卡里都加了一封短信。花费的心思不难想见。据说回音不甚热烈,让她相当失望。
24号是个周六,我和etsu相约去广州市某教堂参观圣诞祝祷仪式。那些天,广州持续下雨,气温很低。我和etsu不知怎样七拐八问才在8点钟仪式开始之前摸到了东堂。拱形的窗户里透出温暖的黄色灯光,几个年长的妇女把我们迎了进去,我怯怯地跟着。屋子里坐得满满的,一个声音在耳边响起:来,小姑娘,坐在这里吧。快要开始了。我循声望去,身旁的长椅上已经为我们挪出了空位。一时间,满身寒意消失殆尽。要说仪式,那时东堂的唱诗班真的不行。跟《修女也疯狂》里那个即将关闭的修道院唱得差不多。此行只是感受一下气氛而已。而仪式结束后,我俩又不得不走回寒冷泥泞的小路。因为晚上已经没有回校的公交车,我们的计划是去海珠区海幢花园附近,etsu父亲的驻地。这个地方比东堂还要难找。几经周折,最后决定打车了,却又咬不清楚“幢”字的广东话发音。以至于司机对我俩下最后通牒:你们下不下?不下就继续打表了哦。进屋后,我说擦洗一下,才知道从头到脚已经没有一块干的地方。鞋子也漏了,袜子里都是泥。真想不出来第二天是怎么回学校的。
学期末了,补充讲讲公共课吧。有中国革命史、人生修养、体育、大学语文。这四门,除了体育,都是94级三个班一起上。简提到的观赏泰语班美女成了大家的爱好。一面观赏一面猜测她们是不是都参加了学校模特队;讨论到底谁最好看;讨论小巧的小燕子到底在哪里买到那么合身的衣物。这些讨论一直到毕业都没有结果。
中革史是在404,四楼东边的大教室上,授课教师刘zw。一个好讲野史的男老师。最近新浪网做过一个专题,关于大学公共课上不讲野史没人听。殊不知早在94年我们就享受了中国革命野史。课本封面是白底红画的。颇厚。刘zw其人,后来陆续听到他的消息。一次是在大三(?)校报上说刘zw老师勇擒偷车贼,我看着他的名字眼熟,想起后很兴奋地跟众人八卦,却没什么人记得他了。我呢,却在那以后,开始在路上跟他打招呼。另一次就是前年了,在童心路毛家饭店吃饭,遇到原西语辅导员敖,一行人中看到刘的身影,才知道他俩成了一家,而刘已经不在学校。据说是去了某政府部门。这好像不能叫“下海”?我心里琢磨了一下。
人生修养在601,范jj。华师化学系毕业。是真正的辅导员。她当年应该还算个美女老师吧。皮肤白净,娃娃脸,长发,自然卷。但是有点不修边幅,记得有一次甚至腰带没扣就上了讲台。也不知是人生修养无趣还是她上课太过照本宣科,反正这门课我是没听进去。如果在看讲台,那就是在看她了。人生修养课是在周六下午,所以,我们常以回家车票已买好为由向她请假。她居然准过。
大学语文第一年上的是古代文学。地点是602。是位老先生上课,这在我们的老师中比较罕见。他很爱摇头晃脑的讲诗。书是学校自己编印的,蓝色封面,印着几个隶书大字“大学语文”。也就是说和我们的《日语语音》长得一模一样。讲过许多,我却只依稀记得荀子、嵇康、王维的部分。好像还讲过曹操。这门课上,我们写过两篇作文,一篇是写荀子,一篇写王维的《山居秋暝》:“空山新雨后,天气晚来秋。明月松间照,清泉石上流。竹喧归浣女,莲动下渔舟。随意春芳歇,王孙自可留。”老先生好像很喜欢这首。
体育课男女生分开上,且男女生都和涉外秘合班。女生的老师是刘y。一个据说爱打棒球,并曾常和老郭等人一起组队的老头。托他的福,我们真的学过半个学期的女子垒球。学校体育器材室有一两套已经极其破旧的垒球工具,球棒是空心金属棒,头盔内侧的海绵垫已经破了。有一次,我做接球手,下巴处奇痒难忍,及待摘下头盔,众人笑倒一片。整个下颔密密麻麻起满了小包,两分钟之内,眼见着从小变大,由青变红。老师有点着急了,叫我去洗洗,不行的话去校医室。我说没事。胆小的ookyoo虽然极力主张马上送我去校医室,却不敢接近我。甚至不敢正眼看我。结果,我去用冷水洗了洗,很快就可以回来声讨ookyoo了。刘y很喜欢我,甚至上课不叫我ym,叫我mm。去年见到他,还是一样的招呼“刘老师”,他也还是一样地微笑、脱帽、低头致意。(他认为这是礼仪,尤其是男士对女士的礼仪。即使骑在车上,也会腾出一只手来完成。)接着,他突然有些害羞地问我:不好意思,请问你叫什么名字?我很诧异,因为他一直还是叫我mm。一时没接上话。他于是接着说:真是对不起,一直叫你mm,却记不得你叫什么m了。(*-*)刘y一开始对我抱有幻想,认为个子高就会打篮球。我虽然很不忍心让他失望,但这功夫也不是装得出来的。五分钟之内,就被换下来,从此再未起用。论个子,让简得意一次吧,女生中她是最高的,所以排头。然后依次是ookyoo、我、陈san。A班女生最高的是邢xl,然后好像是于蓝和谢mq。因为每逢前后排练习的时候,我的对手都是谢mq,而ookyoo恰好和于蓝同组。
第一学期总算过去了。这应该是四年中最漫长的一个学期,也是我记忆相对完整的半个学期。接下来,真不知道还能不能按时间顺序写下去了……