天声人语


 ひげをそる手が滑って顔を切りでもしたら、銃殺されるかも知れない——。ことし日本でも公開された韓国映画「大統領の理髪師」は、ある日突然、朴正煕(パクチョンヒ)大統領の専属理容師に選ばれた男の動転ぶりを描いて退屈させない。

 参上した主人公に大統領の側近が言い渡す。カミソリは無断で使うな、質問はするな、仕事は15分で終えろ。映画の中のお話ではあるが、大統領の散髪が15分きっかりとはせわしない。見終えて散髪時間の長短を考えた。

 小泉首相の散髪は時に2時間を超す。行きつけの理容店は都心のホテルの地下にある。夜11時に入店し、翌午前1時半までいたこともある。「店内に抜け道があってホテルで誰かと密談している」「だから店を出ても髪が元のままなのか」。妙なうわさが政界に立つ。

 20年前から小泉氏を調髪してきた理容師の村儀匡(むらぎただし)さん(47)は、一笑に付す。「店のどこにも抜け道なんかありません」。念入りな整髪が自慢で、パーマは2時間、カットでも1時間はかける。爪(つめ)の手入れもする。「髪形が不変なのは、切ったかどうかさえ微妙な仕上がりをお好みだからです」

 古来、権力者に雇われた理髪師の悲喜劇は数知れない。ギリシャ神話の理髪師は王様にロバの耳が生えたと知り、秘密をばらす衝動を抑えられない。オペラ「セビリアの理髪師」では、賢い理髪師フィガロが、頼まれて伯爵の縁結びに奔走する。

 小泉首相の理髪を巡る悲劇や喜劇は聞かない。ただ村儀さんも怖い夢を繰り返し見る。手元が狂って首相ご自慢の長髪を切り落とす夢だという。

 愛知万博の主会場のある長久手(ながくて)町は、古戦場の町として知られている。16世紀に、羽柴秀吉の軍と徳川家康の軍が対決する長久手の戦いがあった。町は、ナポレオン軍が敗れた古戦場として有名なベルギーのワーテルローと姉妹都市の縁を結んでいる。

 長久手の古戦場からそう遠くない会場に、国や企業など、それぞれの「旗印」を掲げた展示館が立ち並ぶ。仕掛けの大きそうな展示館に人が集中しているようだ。しかし民芸品の即売場のような素朴な一角もにぎわっている。その周りでは、こんな会話も聞こえる。「ちょっと南アフリカに行ってくる」「私はザンビア」「こっちはコンゴ」

 おびただしい展示から、それぞれの一点を見いだすのも万博の楽しみだろう。イタリア館の「踊るサテュロス」も、そんな一つになるかもしれない。

 サテュロスは、ギリシャ神話の酒 神ディオニソスの従者だ。恍惚(こうこつ)の表情で旋回するさまをかたどったブロンズ像は、地中海の海底から漁網で引き揚げられ、2千年の眠りからさめた。両腕や右脚は失われているが、躍動感は失われていない。限りのない時の流れに身を委ねている限りある人間の生を、像はうたいあげているように見える。

 「博覧会はもと相教え相学ぶの趣意にて、互いに他の所長を取りて己れの利となす」(『日本の名著?福沢諭吉』中央公論社)。諭吉は、遣欧使節の随員として幕末にロンドン万国博を見て「西洋事情」に紹介した。

 今、世界の事情は厳しい。せめて万博は、互いに他の長所を広く認め合う場であってほしい。

 昨日の朝、小雨降る東京駅をたって名古屋に向かった。新幹線と在来線、リニアモーターカーを乗り継いで、愛知万博の入り口に着いたのは3時間後だった。

 日差しが強い。ペットボトルは持ち込み禁止なので、入り口で「没収」されたボトルが山をなしている。そこを通り抜けるとすぐにペットボトル飲料の売り場がある。皮肉な光景だが多くの人が買う。

 メーン会場の展示館は、行列の長さがかなり違う。80分待ちの隣が30秒待ちだった。日本館は90分待ちだという。普段なら敬遠するところだが、せっかくの機会と思い、並び始めた。長く直射日光にさらされる場所に来た。ペットボトルの水をハンカチにかけて頭に載せる。75分で中に入った。見たのは正味15分ほどだった。外に出ると午後4時だったが、このころでも、近くの名古屋市では30度を超えていた。

 会場では暑さの対策は幾つも見られた。長い回廊では、人工の霧が噴き出す「ドライミスト」の下で一息つく人が多かった。木材を多用した会場のつくりにも照り返しを和らげる効果があるようだ。しかし、これからが本番の暑さの中で大丈夫かとも思った。

 行列ができるのが日常なら、ひさしや日よけを増やしてはどうか。見に行く人は、うちわや日傘、帽子を用意し、十分に水分補給して、無理には並ばない方がいいようだ。

 万博についての本社のアンケートに、こんな意見が寄せられていた。「環境だけではなく、人にも優しい万博であってほしい」。夏休みで、子供たちも増える。笑顔で帰れる万博にしたい。


 言葉とは、人生に寄り添う愛(いと)しい道連れではないか。文化庁の国語世論調査に表れた「世間ずれ」についての回答のずれをみて、そう思った。

 この慣用句の意味を「世の中の考えから外れている」と答えた人が、10代では6割いた。本来の意味である「世間を渡ってきてずる賢くなっている」の方は、この年代では1割強だった。

 本来の答えの方は、年かさが増すほど増え、60歳以上では6割強に達した。人生の経験を積みながら、この句を実感してゆくさまがしのばれる。一方で、この年代でも、「世の中とのずれ」と答える人が2割近くいた。

 もうひとつ、目をひくのが、「最近の言い方」についての調査だ。すばらしい、おいしい、かっこいいなどの意味で「やばい」を使う人が、10~20代で半数を超えた。「わたし的には」「うざい」も、この年代が目立って多かった。言葉が人の道連れならば、時には揺らぎもあるのだろう。

 「大体の見込をいふと、日本語は日ましに成長して居る。語彙(ごい)は目に見えて増加し、新らしい表現法は相次いで起り、流行し又模倣せられて居る」。民俗学者の柳田国男が、『国語の将来』(創元社)にこう書いたのは、60年余り前だった。

 柳田は、さらに述べている。「日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはつきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本当の愛護だと思つて居る」。難題と自覚しつつ、愛しい日本語の未来を信じた言葉のように思われる。

 ランダムハウス英和大辞典(小学館)の2版には、「日本語から借用された英語」が載っている。英米の主要辞書や新語辞典などに見られる英語化した日本語で、約900語にのぼる。


 ツナミ、キモノ、ハラキリといった19世紀以来の古いものから、1990年代のものまでがアルファベット順に並んでいる。単語を拾っていると、それらは、日本に投げかけられてきたまなざしの変遷のようであり、日本が外に対して見せてきた姿のようでもある。


 90年代に登場したという語の中に、日本の古くからの経済のありように絡むものが二つ、目に付いた。keiretsu(系列)、そしてdango(談合)である。日本経済の強さや閉鎖性、不明朗性を感じさせる言葉なのだろう。


 日本道路公団が発注する鋼鉄製橋梁(きょうりょう)工事の談合事件を巡り、元公団理事で、受注調整をしたとされる会社の元顧問らが逮捕された。天下りした公団OBの親睦(しんぼく)団体のメンバーが、全国の公団支社から未発表の工事発注予定を集めていたという。


 dangoの根深さを思わせる事件だが、日本経団連の奥田会長は、談合問題について「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもの」と、記者会見で述べた。橋梁談合事件を念頭に置いた発言とは思えないが、首をかしげざるを得ない。


 大がかりな談合の罪が解明されようとしている時である。財界トップによる他人事(ひとごと)のような言い方は、内外から誤解を招かないだろうか。「tsutsu uraura」が、借用語に載るようなことがないように願いたい。

 ハリウッドを代表するアクションスター、スティーブ?マックイーンが、50歳の若さで他界したのは80年の秋だった。末期のがん(胸膜中皮腫(ちゅうひしゅ))に侵されており、原因はアスベスト(石綿)ではないかといわれた。

 車のブレーキの内張りや、レーサー用の不燃スーツの裏地など、アスベストは、マックイーンがその人生を通じて使ったほとんどの乗り物に何らかの形で存在していた(W?ノーラン『マックイーン』早川書房)。

 アスベストは「不滅」あるいは「消すことのできない」を意味するギリシャ語に由来するという。熱や酸に強く、物の形に従いながら半永久的に存在し続ける。

 広瀬弘忠著『静かな時限爆弾』(新曜社)によると、アスベスト利用の歴史は石器時代にまでさかのぼる。古代ギリシャでは神殿の金のランプの灯心として使われた。既にギリシャ?ローマの時代には、アスベストを採掘する人や、その繊維を紡ぐ職人に肺疾患が多発していたという。

 日本での、アスベストによる健康被害の実態がようやく明らかになりつつある。多数の工場従業員だけでなく、夫の作業着を洗濯する時にアスベストを吸い込んだ妻までが、中皮腫で亡くなったという。どこかで吸い込んだだけで発症の危険をはらむなら、誰にでも起こり得ることだろう。

 発症までの期間の極めて長い「不滅の爆弾」が、本格的に爆発するのはこれからともいう。被害の全容をつかみ、治療の手だてを探る。爆弾を安全なやり方で除去する。それが、遅まきながら、不滅を不発に変える道ではないか。

 閉まりかけたドアをこじあけて、男性が乗り込む。すぐ車内に車掌の声が流れた。「駆け込み乗車はおやめ下さい。そんな乗り方でけがをした時はお客様の責任です」

 先月初め、JR中央線の電車が東京の国分寺駅を出た直後のことだ。乗り合わせた客が「不快な言い方だ」と苦情を寄せた。JR東日本は事情を調べ、「好ましくない放送だった」と車掌に注意した。乗務歴30年近いベテランだった。

 この件が報道されると420件もの意見がJRに届いた。うち9割が車掌支持だという。全責任を客に押しつけるような物言いは反感を買うだろうが、無謀な乗車に憤る車掌の熱心さも、わからなくはない。

 「頭に血がのぼった時にどう放送するか。車掌の力量が問われます」と語るのは、元車掌の幸田勝夫さん(60)。国鉄以来、通勤電車や夜行列車に長く乗り、さりげない放送で客を和ませる名人と言われた。「大切なのはアドリブの力。とっさのひと言です」

 元NHKアナウンサー生方(うぶかた)恵一さん(72)は、「無理に開けると電車のドアも壊れます」といった冗談で応じる余裕が車掌にあればよかったと話す。紅白歌合戦で都はるみさんを「美空」と紹介する失敗に泣いた。あれから20年、反省をこめて「急場ではユーモアが大切」と訴える。

 昔は「アジサイが見ごろです」とか「今日もお元気で」と言い添える車掌の声をよく耳にしたが、最近は聞かない。JRによると、何であれ静けさを求める客と、懇切な放送を望む客がいる。車内で何をどう語りかけるかは超のつく難題だという。

 ロンドンで、哲学者バートランド?ラッセルが核戦争回避を訴えるために記者会見を開いた。ちょうど50年前の7月9日のことである。アインシュタインや湯川秀樹らも署名したアピールは、米、英、ソ連などの首脳に送られ、「ラッセル?アインシュタイン宣言」として世界に広まった。

 厳しい冷戦下での宣言らしく、「核戦争による人類絶滅の危険」を警告している。民族や信条を超えた「人類のひとり」として訴えかける姿勢には、今もなお十分に説得力がある。

 「私たちがいまこの機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてである」。ビキニ環礁での米国の水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)にも触れながら、将来の世界戦争では必ず核兵器が使われると危機感を述べる。

 「私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し……彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する」(『反核?軍縮宣言集』新時代社)。

 それから半世紀、今でも絶滅の危険は残っているが、核兵器は使われていない。しかし、紛争問題解決のための平和的な手段を見いだすことは難しく、戦争やテロは絶えなかった。

 卑劣な同時多発テロに襲われたロンドンから、市民たちの表情が伝わってくる。突然の凶行の恐怖に耐えながら、冷静さを保つようにつとめている印象を受ける。その姿に、「種の一員」としての共感を覚えた。

 サミットの開催と、オリンピック開催の決定と——。いつにも増して世界の目が集中していたイギリス?ロンドンで、同時多発テロが起きた。この時期の、この街に狙いを澄ましたような、許し難い凶行だ。

 2012年の五輪の開催地を巡って、ロンドンは、本命とされていたパリを破った。決まった後のトラファルガー広場での市民たちの喜びようや、ブレア首相の満面の笑みが印象的だった。そのイギリスの高揚感を、たたきつぶすような爆弾テロだ。

 サミットのため、ロンドン市内の警備は、いつよりも厳しかったと思われる。しかし、多くの市民の足である地下鉄やバスで、同時に何カ所も爆発は起きた。名物の二階建てのバスも大破したと報じられた。世界からの観光客も逃げまどったに違いない。

 警備の根本が、厳しく問われることになるだろう。テロリストは、誰もが行き交う公共交通機関を狙った。いわば警備の「泣きどころ」を突かれ、許した。そこが深刻だ。

 9?11の同時多発テロから、やがて4年になる。この間、世界は安全な方に向いてきているのだろうかという疑問が改めて浮かんだ。「将来の世界の安全」などを掲げて、アメリカはイラク戦争を強行し、イギリスは、それを支えてきた。小泉首相を含め、サミットの首脳たちは、この事態をどう語り合ったのだろうか。

 民主主義社会は、このような暴力で揺らいではならないし、揺らぐことはないだろう。しかし、残念ながら、市民に対する無差別多発テロを記憶する日付として、7?7が加わった。

 どんよりとした空から、細かい雨が降ってくる。時折、風がゆるやかに渡って笹(ささ)の葉をゆらす。願い事が書かれた青や黄色の短冊がひるがえる。

 通り道に、七夕の竹飾りが並んでいた。一本の竹に数十の願いが下げられている。「大金持ち!」「悪徳商法撲滅」「権力がほしいので下さい」。こんな願いもあるが、多くはやはり、家族や友の健康と安全を祈っている。

 50年前、作家の壷井栄が「主婦の友」に随想「七夕さま」を寄せた。「ささやかな笹にちらほらの短冊は、つつましい中にも、なにかしら人のこころの温さ、かわいらしさを感じさせられて好もしい」

 今とそう変わらない七夕の情感だが、この先が、戦後10年という時代を思わせる。「子供と一しよに短冊をかくようになつてから、七夕さまにつながる思いとして、いつも私の心をとらえるのは盧溝橋事件である。昭和十二年七月七日。そしてそれをきつかけにして、敗戦にまで追いやられた私たち……」

 37年の七夕の夜、北京近郊の盧溝橋付近で起きた日中軍の衝突は、日中戦争の発端となった。現地の日本兵の間では、「七夕の日は何かがおこる」という噂(うわさ)が飛んでいたという(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会)。

 壷井は続ける。「七夕さまは、たとえ年に一度の逢瀬(おうせ)にもしろ、逢(あ)えるということで私たちに希望を与える。しかし、私たちのまわりには、永久に逢えない人がたくさんいる。私の友は七夕の短冊に『平和』とかいて笹にむすんだ」。戦後60年の竹飾りにも、その二文字は幾つも揺れていた。

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